アマレクとの戦い 2015年10月25日(日曜 夕方の礼拝)
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アマレクとの戦い
- 日付
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- 説教
- 村田寿和 牧師
- 聖書
出エジプト記 17章8節~16節
聖書の言葉
17:8 アマレクがレフィディムに来てイスラエルと戦ったとき、
17:9 モーセはヨシュアに言った。「男子を選び出し、アマレクとの戦いに出陣させるがよい。明日、わたしは神の杖を手に持って、丘の頂に立つ。」
17:10 ヨシュアは、モーセの命じたとおりに実行し、アマレクと戦った。モーセとアロン、そしてフルは丘の頂に登った。
17:11 モーセが手を上げている間、イスラエルは優勢になり、手を下ろすと、アマレクが優勢になった。
17:12 モーセの手が重くなったので、アロンとフルは石を持って来てモーセの下に置いた。モーセはその上に座り、アロンとフルはモーセの両側に立って、彼の手を支えた。その手は、日の沈むまで、しっかりと上げられていた。
17:13 ヨシュアは、アマレクとその民を剣にかけて打ち破った。
17:14 主はモーセに言われた。「このことを文書に書き記して記念とし、また、ヨシュアに読み聞かせよ。『わたしは、アマレクの記憶を天の下から完全にぬぐい去る』と。」
17:15 モーセは祭壇を築いて、それを「主はわが旗」と名付けて、
17:16 言った。「彼らは主の御座に背いて手を上げた。主は代々アマレクと戦われる。」出エジプト記 17章8節~16節
メッセージ
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今夕の御言葉には、「アマレクがレフィディムに来てイスラエルと戦ったとき」のことが記されています。アマレクとはアマレク人ことで、ヤコブの兄エサウの子孫であります(創世36:12参照)。彼らはこの地方、シナイ半島に遊牧する民であったようです。また、「レフィディム」とはイスラエルが宿営していた地名であります。前回、私たちは、レフィディムにおいて、主がイスラエルに飲み水を与えてくださったことを学びました。アマレクがレフィディムに来てイスラエルと戦ったのは、飲み水を求めてのことであったのかも知れません。ともかく、エサウの子孫であるアマレクはレフィディムに来て、ヤコブの子孫であるイスラエルに戦いを仕掛けたのです。このことは、イスラエルの生存を脅かす危機的な状況でありました。飲み水がない、食べ物がないということも、イスラエルの生存を脅かす危機的な状況でありましたが、他の民から襲われるということも、イスラエルにとって危機的な状況であるのです。そして、このことは、主が避けたいと考えていたことであったのです。13章17節、18節にこう記されておりました。「さて、ファラオが民を去らせたとき、神は彼らをペリシテ街道には導かれなかった。それは近道であったが、民が戦わねばならぬことを知って後悔し、エジプトに帰ろうとするかもしれない、と思われたからである。神は民を、葦の海に通じる荒れ野の道に迂回させられた。イスラエルの人々は、隊伍を整えてエジプトの国から出た」。主がイスラエルを荒れ野の道へと導かれたのは、他の民との戦いを避けるためでありました。しかし、その避けたかったことが起こってしまったのです。
モーセはヨシュアにこう言いました。「男子を選び出し、アマレクとの戦いに出陣させるがよい。明日、わたしは神の杖を手に持って、丘の頂に立つ」。この「ヨシュア」は後に、モーセの後継者となって、イスラエルの民を約束の地へと導く人物であります。モーセはこの時、80歳を越えておりましたから、若いヨシュアに戦いを任せるわけです。そして、自分は、ナイル川を打った杖、岩から水を湧き出させた神の杖を手に持って、丘の頂に立つと言うのです。
ヨシュアは、モーセの命じたとおりに実行し、アマレクと戦いました。そして、モーセとアロンとフルは丘の頂に登りました。その丘の頂からは、イスラエルとアマレクが戦っているのがよく見えたのでしょう。11節、12節にこう記されています。「モーセが手を上げている間、イスラエルは優勢になり、手を下ろすと、アマレクが優勢になった。モーセの手が重くなったので、アロンとフルはモーセの両側に座り、アロンとフルはモーセの両側に立って、彼の手を支えた。その手は、日の沈むまで、しっかりと上げられていた」。ここには、モーセが手を上げていたこと、手を上げている間はイスラエルが優勢であったことが記されています。このことは、一体何を意味しているのでしょうか?そのことを考える手がかりとなるのが、11節の「手」が単数形で記されており、12節の「手」が複数形で記されているということであります。モーセは11節では片手を上げているのですが、12節では両手を上げているのです。11節で片手を上げているとき、その片手には、神の杖が握られていたものと思われます。そして、この立ち振る舞いは、攻撃を仕掛ける合図でもあったのです。そのように考えますと、この戦いの指揮をとっているのは、神の杖を手に持つモーセであったのです。丘の頂にいるモーセの姿は、戦っているイスラエルの男たちにも良く見えたと思います。モーセが神の杖を持って、片手を上げているその姿は、イスラエルの男たちを励ましたに違いありません。彼らは神の杖を持ち、片手を上げ続けるモーセの姿を通して、神様が自分たちと共におられ、この戦いを勝利させてくださることを信じることができたのです。それゆえ、「モーセが手を上げている間、イスラエルは優勢になり、手を下ろすと、アマレクが優勢になった」のです。しかし、手を上げ続けることは大変なことであります。それで、アロンとフルはモーセを石の上に座らせ、自分たちは両側に立って、モーセの手を支えました。この時は、もはや片手ではなくて、両手であります。これは戦いを指揮するというよりも、祈りの姿勢であります。詩編63編5節に、「命のある限り、あなたをほめたたえ、手を高く上げて、御名によって祈ります」とありますように、両手をあげて、モーセは主に祈っているのです。そのモーセの祈りを、アロンとフルは支えたのです。そして、そのモーセの祈りによって、ヨシュアは、アマレクとその民を剣にかけて打ち破ることができたのです。すなわち、イスラエルは、主にあって、アマレクに勝利することができたのです。そのことは、14節の主の御言葉からも分かります。主はモーセにこう言われました。「このことを文書に書き記して記念とし、また、ヨシュアに読み聞かせよ。『わたしは、アマレクの記憶を天の下から完全にぬぐい去る』と」。私たちは、このような主の御言葉を読むと驚くのではないでしょうか?主の御言葉としてふさわしくないと思ってしまうのです。しかし、この主の御言葉から教えられますことは、このアマレクとの戦いがイスラエルの民にとって、イスラエルの記憶が天の下から完全にぬぐい去られてしまう危機であったということです。神の民であるイスラエルの記憶を天の下から完全にぬぐい去ろうとしたアマレクに対して、「わたしは、アマレクの記憶を天の下から完全にぬぐい去る」と主は言われたのです。
モーセは祭壇を築いて、それを、「主はわが旗」と名付けました。モーセは、イスラエルの勝利が主によってもたらされたゆえに、祭壇を築き、「主はわが旗」と名付けたのです。「旗」は兵士たちが集まる目印になるものですが、まさに、イスラエルは主にあって一つとなり、このとき、自分たちを滅ぼそうとするアマレクに勝利することができたのです。モーセは、「彼らは主の御座に背いて手を上げた。主は代々アマレクと戦われる」と言いましたが、主の民であるイスラエルを滅ぼそうとすることは、主の御座に背いて手を上げること、主への反逆行為であるのです。それゆえ、主は代々アマレクと戦われるのです。これはイスラエルが代々アマレクと戦うことを意味しています。イスラエルとアマレクとの戦いは、この後も続きまして、約束の地に入ってからも、ダビデ王の時代まで続きます。その最初の戦いが、今夕の御言葉に記されているのです。
さて、今夕の御言葉を新約時代に生きる私たちは、どのように理解したらよいのでしょうか?旧約時代はイスラエルはいわば民族共同体でありました。しかし、新約時代のイスラエルは民族の違いを超えた人類共同体であります。ですから、私たちは、今夕の御言葉をそのまま適用することはできません。では、どのように理解すべきでしょうか?私は、神の民イスラエルを滅ぼそうとした、主に背く力、サタンとの戦いについて教えていると理解すべきであると思います。つまり、今夕の御言葉は、私たちが悪魔との霊的な戦いを戦う上で、祈りがどれほど大切であるかを教えているのです。悪魔との霊的な戦いについては、使徒パウロがエフェソの信徒への手紙6章10節以下で次のように記しています。エフェソ書の6章10節から18節までをお読みします。新約の359ページです。「最後に言う。主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい。悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。だから、邪悪な日によく抵抗し、すべてを成し遂げて、しっかりと立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。立って、真理を帯として腰に締め、正義を胸当てとして着け、平和の福音を告げる準備を履物としなさい。なおその上に、信仰を盾として取りなさい。それによって、悪い者の放つ火の矢をことごとく消すことができるのです。また、救いを兜としてかぶり、霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい。どのような時にも、霊に助けられて祈り、願い求め、すべての聖なる者たちのために、絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい」。パウロが最後に祈りについて言及しているように、私たちが主の民として悪魔と戦うためには、根気よく祈り続けることが大切であるのです。そして、それは「聖霊」に助けられてのことであるのです。私たちが祈ることができる。神様は私たちの祈りを聞いてくださると確信を持つことができるのは、聖霊を与えられているからであります。そして、その聖霊は、今も父なる神の右の座で執り成しておられる主イエス・キリストを通して与えられたものであるのです。主イエス・キリストは、今も、私たちのために執り成しの祈りをささげておられるのです。ルカによる福音書は、復活されたイエス様が両手を挙げて弟子たちを祝福されたこと。そして祝福したまま天に上げられたと記しています(ルカ24:50、51)。イエス様は悪魔に勝利されたお方として、私たちを祝福しておられるのです。イスラエルの男たちが、両手を上げるモーセの姿に励まされてアマレクとの戦いを立派に戦ったように、私たちも、信仰の目をもって、天において両手を上げられているイエス様を見つめて、悪魔との霊的な戦いを立派に戦っていきたいと願います。