岩からほとばしる水 2015年10月18日(日曜 夕方の礼拝)

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岩からほとばしる水

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
出エジプト記 17章1節~7節

聖句のアイコン聖書の言葉

17:1 主の命令により、イスラエルの人々の共同体全体は、シンの荒れ野を出発し、旅程に従って進み、レフィディムに宿営したが、そこには民の飲み水がなかった。
17:2 民がモーセと争い、「我々に飲み水を与えよ」と言うと、モーセは言った。「なぜ、わたしと争うのか。なぜ、主を試すのか。」
17:3 しかし、民は喉が渇いてしかたないので、モーセに向かって不平を述べた。「なぜ、我々をエジプトから導き上ったのか。わたしも子供たちも、家畜までも渇きで殺すためなのか。」
17:4 モーセは主に、「わたしはこの民をどうすればよいのですか。彼らは今にも、わたしを石で打ち殺そうとしています」と叫ぶと、
17:5 主はモーセに言われた。「イスラエルの長老数名を伴い、民の前を進め。また、ナイル川を打った杖を持って行くがよい。
17:6 見よ、わたしはホレブの岩の上であなたの前に立つ。あなたはその岩を打て。そこから水が出て、民は飲むことができる。」モーセは、イスラエルの長老たちの目の前でそのとおりにした。
17:7 彼は、その場所をマサ(試し)とメリバ(争い)と名付けた。イスラエルの人々が、「果たして、主は我々の間におられるのかどうか」と言って、モーセと争い、主を試したからである。出エジプト記 17章1節~7節

原稿のアイコンメッセージ

 今夕は出エジプト記17章1節から7節より、御言葉の恵みにあずかりたいと願っています。

 主の命令により、イスラエルの人々の共同体全体は、シンの荒れ野を出発し、旅を重ねて、レフィディムに宿営しました。しかし、そこには民の飲み水はありませんでした。以前学んだ15章22節以下に、イスラエルの人々が水のことで不平を言ったことが記されていました。三日間、水を飲まずに進み、マラについたが、そこの水は苦くて飲めなかったのです。主はモーセに一本の木を示され、その木を水に投げ込むと水は甘くなり飲むことができるようになったのでした。今夕の御言葉では、苦い水もなかったわけです。それで、イスラエルの民はモーセと争い、「我々に飲み水を与えよ」と言いました。それに対してモーセはこう言います。「なぜ、わたしと争うのか。なぜ、主を試すのか」。しかし、イスラエルの民は喉がかわいてしかたないので、モーセに向かって不平を述べます。「なぜ、我々をエジプトから導き上ったのか。わたしも子供たちも、家畜までも渇きで殺すためなのか」。このときのイスラエルの民とモーセとの争いは大変厳しいものであったようです。そのことは、モーセが主に叫んだ言葉からも分かります。モーセは主にこう叫びました。「わたしはこの民をどうすればよいのですか。彼らは今にも、わたしを石で打ち殺そうとしています」。イスラエルの民がモーセを石で打ち殺そうとしたことは、イスラエルの民がモーセを指導者として受け入れないことを表しています。自分たと子供たちと家畜までも渇きで殺すような指導者は指導者の名に値しないと人々は考えたのです。主はモーセの叫びを聞き、こう言われます。「イスラエルの長老数名を伴い、民の前を進め。また、ナイル川を打った杖を持って行くがよい。見よ、わたしはホレブの岩の上であなたの前に立つ。あなたはその岩を打て。そこから水が出て、民は飲むことができる」。主は、モーセにイスラエルの長老数名を伴い、民の前を進むように言われました。この長老たちは、モーセがこれからすることの証人となるわけです。つまり、岩から水がほとばしるという奇跡は、イスラエルの民の前で行われたのではなく、イスラエルの長老たちの目の前で行われたのでありました。イスラエルの民は、この水を飲むことができるわけですが、モーセが岩を杖で打ち、水が湧き出る場面は見ていないのです。また、主はここで、「ナイル川を打った杖を持って行くがよい」と言われていますが、この杖は何よりも神様の御力を示す杖でありました。そして、岩から水を湧き出させるのは、「岩の上であなたのまえに立つ」と言われる主の臨在であられるのです。この岩から水がほとばしる奇跡については、この岩の下に地下水脈があったと考えられます。その地下水脈の上にある岩を主はお示しになり、モーセに杖で岩を打たせることによって、御自分がイスラエルの民に飲み水を与える主であることをお示しになられたのです。

 モーセは、その場所をマサ(試し)とメリバ(争い)と名付けました。それは、イスラエルの人々が、「果たして、主は我々の間におられるのかどうか」と言って、モーセと争い、主を試したからでありました。

 今夕の御言葉を読みまして、皆さんはどのような感想を持たれたでしょうか?わたしは、「またか」という思いと、「いたしかたない」という思いを抱きました。「またか」というのは、イスラエルの民が不平を述べたことについてでありますが、しかし、この不平はいたしかたない、もっともな不平にも思えるからです。しかし、そのような感想は果たして正しいのでしょうか?そのことをご一緒に考えてみたいと思います。

 イスラエルの民はモーセと争い、「我々に飲み水を与えよ」と言います。イスラエルの民はモーセに願って、「我々に飲み水を与えよ」と言ったのではありません。モーセと争って、「我々に飲み水を与えよ」と言ったのです。イスラエルの民は、モーセに願って、「主に、飲み水を与えてくださるように祈ってください」と言ったのではありません。イスラエルの民は、モーセと争って、「我々に飲み水を与えよ」と要求したのです。そのようなイスラエルの人々の姿勢、態度を、モーセは、「なぜ、わたしと争うのか。なぜ、主を試すのか」という言葉によって正そうとするのです。しかし、イスラエルの民は聞く耳を持ちません。なぜなら、彼らは喉が渇いて死にそうであったからです。それで、「なぜ、我々をエジプトから導き上ったのか。わたしも子供たちも、家畜までも渇きで殺すためなのか」と不平を言ったのです。「お前が我々をエジプトから導き上ったのだから、水ぐらい与えろ。それとも、お前は、私たちと子供と家畜を渇きで殺すために、エジプトから導き上ったのか」と言うのです。イスラエルの民はエジプト人からの分捕り品を手に、意気揚々とエジプトを出て行ったのでありますが、渇きで死にそうになると、このように不平を言うのですね。そして、この不平は、モーセ個人というよりも、モーセを遣わされた主に対する不平であるのです。それゆえ、彼らは、7節にありますように、「果たして、主は我々の間におられるのかどうか」と言ったのであります。彼らの理屈はよく分かると思います。飲み水がなく、自分たちも子供も家畜も死にそうな状況にあって、主が自分たちの間におられるとは到底思えなかったのです。ですから、彼らは、「飲み水を与えることによって、主が我々の間にいることを証明せよ」とモーセに迫ったのです。

 私たちは、今夕の御言葉を読んで、「なぜ、神様はすぐに水を与えなかったのだろう。そうすれば、民は不平を言うこともなく、主が自分たちの間におられることがすぐに分かっただろうに」と考えるのではないでしょうか?もちろん、神様は、私たち人間が水を飲まなければ死んでしまうことをご存じであります。しかし、神様がイスラエルの民に水を与えられるのは、彼らの不平を受けてからであるのです。それは、主がここでイスラエルの民を試しているからであるのです。7節に、モーセがその場所がマサと名付けたのは、イスラエルの人々が、「果たして、主は我々の間におられるのか」と言って主を試したと記されていますが、しかし、その前に、主は飲み水を与えないことによって、イスラエルの人々を試しておられるのです。言い換えるならば、飲み水を与えないことによって、イスラエルの人々を御自分の民として訓練しておられるのです。前回、私たちは、主がイスラエルの人々に天からのパン、マナを与えてくださったことを学びました。マナは蓄えることができず、毎日集めなければなりませんでした。それは、イスラエルの人々が、マナそのものにではなく、日ごとにマナを与えられる主に信頼するためであったのです。モーセは申命記8章2節から5節でこう言っています。「あなたの神、主が導かれたこの四十年の荒れ野の旅を思い起こしなさい。こうして主はあなたを苦しめて試し、あなたの心にあること、すなわち御自分の戒めを守るかどうかを知ろうとされた。主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためである。この四十年の間、あなたのまとう着物は古びず、足がはれることもなかった。あなたは、人が自分の子を訓練するように、あなたの神、主があなたを訓練されることを心に留めなさい」。

 主は、飲み水を与えないことによって、イスラエルの人々を試されました。飲み水がないという危機的状況にあって、イスラエルの人々が御自分とモーセに対してどのような態度を取るのかを知ろうとされたのです。エジプト軍から救われたとき、「民は主を畏れ、主とその僕モーセを信じた」と記されておりましたが、飲み水がなくて死にそうな状況にあっても、民は主を畏れ、主とその僕モーセを信じることができるかどうかを知ろうとされたのです。しかし、結果としてイスラエルの人々はモーセと争い、主を試したのです。ここに、順境なときには「主が我々と共におられる」と言い、逆境のときには、「主は我々と共におられるだろうか」とつぶやいてしまう人間の姿が描かれています。このイスラエルの人々の姿は、すべての人間の姿、私たちの姿であるのです。しかし、ここで覚えたいことは、主が不平を言うイスラエルの人々のために、飲み水を与えてくださったということです。そのようにして、主は御自分がイスラエルの人々の間におられることを示されたのです。

 主は、新約時代に生きる私たちに、イエス・キリストという岩からほとばしる水である聖霊によって、私たちの間に共にいてくださることを示しておられます。使徒パウロは、第一コリント書の10章4節で、水がほとばしり出た岩こそ、キリストであったと語っています。また、イエス・キリストは、ヨハネ福音書の7章38節で、「わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」と言われております。そして、福音書記者ヨハネは、この水こそ、イエス様が栄光を受けたのちに与えられる聖霊であると註釈しているのです。私たちも、思うようにならず苦労の多い境遇にあるとき、「主は我々と共におられるだろうか」とつぶやいてしまう者であります。しかし、そのような私たちに、イエス・キリストから聖霊が注がれていることを覚えたいと願います。神様は、イエス・キリストを通して、聖霊を与えることによって、御自分が私たちの間におられることを示してくださっています。そのようにして、私たちの信仰が無くならないように、守り導いてくださるのです。

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