安息日を与えられた主 2015年10月11日(日曜 夕方の礼拝)

問い合わせ

日本キリスト改革派 羽生栄光教会のホームページへ戻る

安息日を与えられた主

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
出エジプト記 16章19節~36節

聖句のアイコン聖書の言葉

16:19 モーセは彼らに、「だれもそれを、翌朝まで残しておいてはならない」と言ったが、
16:20 彼らはモーセに聞き従わず、何人かはその一部を翌朝まで残しておいた。虫が付いて臭くなったので、モーセは彼らに向かって怒った。
16:21 そこで、彼らは朝ごとにそれぞれ必要な分を集めた。日が高くなると、それは溶けてしまった。
16:22 六日目になると、彼らは二倍の量、一人当たり二オメルのパンを集めた。共同体の代表者は皆でモーセのもとに来て、そのことを報告した。
16:23 モーセは彼らに言った。「これは、主が仰せられたことである。明日は休息の日、主の聖なる安息日である。焼くものは焼き、煮るものは煮て、余った分は明日の朝まで蓄えておきなさい。」
16:24 彼らはモーセの命じたとおり、朝まで残しておいたが、臭くならず、虫も付かなかった。
16:25 モーセは言った。「今日はそれを食べなさい。今日は主の安息日である。今日は何も野に見つからないであろう。
16:26 あなたたちは六日間集めた。七日目は安息日だから野には何もないであろう。」
16:27 七日目になって、民のうちの何人かが集めに出て行ったが、何も見つからなかった。
16:28 主はモーセに言われた。「あなたたちは、いつまでわたしの戒めと教えを拒み続けて、守らないのか。
16:29 よくわきまえなさい、主があなたたちに安息日を与えたことを。そのために、六日目には、主はあなたたちに二日分のパンを与えている。七日目にはそれぞれ自分の所にとどまり、その場所から出てはならない。」
16:30 民はこうして、七日目に休んだ。
16:31 イスラエルの家では、それをマナと名付けた。それは、コエンドロの種に似て白く、蜜の入ったウェファースのような味がした。
16:32 モーセは言った。「主が命じられたことは次のことである。『その中から正味一オメルを量り、代々にわたって蓄えよ。わたしがあなたたちをエジプトの国から導き出したとき、荒れ野で食べさせたパンを彼らが見ることができるためである。』」
16:33 モーセがアロンに、「壺を用意し、その中に正味一オメルのマナを入れ、それを主の御前に置き、代々にわたって蓄えておきなさい」と言うと、
16:34 アロンは、主がモーセに命じられたとおり、それを掟の箱の前に置いて蓄えた。
16:35 イスラエルの人々は、人の住んでいる土地に着くまで四十年にわたってこのマナを食べた。すなわち、カナン地方の境に到着するまで彼らはこのマナを食べた。
16:36 一オメルは十分の一エファである。出エジプト記 16章19節~36節

原稿のアイコンメッセージ

 前回、私たちは、主が御言葉どおりに、イスラエルの人々に肉とパンを与えられたことを学びました。イスラエルの人々は主が与えられたパンであるマナを集め、それをオメル升で量り、一人当たり一オメルずつ分配することによって、一人も洩れることなく主の養いにあずかることができたのでした。

 今夕の御言葉で、モーセはイスラエルの人々に、「だれもそれを、翌朝まで残しておいてはならない」と言いました。主はモーセを通して、マナを蓄えることを禁じるのです。しかし、イスラエルの民の何人かはモーセに聞き従わず、その一部を翌朝まで残しておきました。彼らの残しておいたマナは虫が付いて臭くなり、もはや食べられませんでした。「モーセは彼らに向かって怒った」と記されていますが、それはモーセの語る言葉が主の御言葉でもあるからです。「なぜ、あなたたちは主の御言葉に聞き従わないのか」とモーセは怒ったのです。

 主はイスラエルの不平を聞かれて、「天からのパンを降らせる」と言われたのですが、そのとき、「わたしは、彼らがわたしの指示どおりにするかどうかを試す」とも言われました。4節にこう記されています。「主はモーセに言われた。『見よ、わたしはあなたたちのために、天からのパンを降らせる。民は出て行って、毎日必要な分だけ集める。わたしは、彼らがわたしの指示どおりにするかどうかを試す」。その指示の一つが、「だれもそれを、翌朝まで残しておいてはならない」という御言葉であったのです。それはマナそのものにではなくて、日ごとにマナを与えられる主にイスラエルの民が依り頼むことを教えるためであったのです。申命記8章4節で、モーセはイスラエルの人々にこう言っています。「主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためである」。

 残しておいたマナは虫がついて臭くなってしまうので、イスラエルの人々は朝ごとに必要な分を集めました。朝ごとに集めたのは、日が高くなると、気温の上昇により、マナが溶けてしまったからです。六日目に不思議なことが起こります。イスラエルの人々が集めたマナを分配すると、二倍の量、一人当たり二オメルになったのです。共同体の代表者は驚いて、モーセにこのことを報告しました。するとモーセはこう言ったのです。「これは、主が仰せられたことである。明日は休息の日、聖なる安息日である。焼くものは焼き、煮るものは煮て、余った分は明日の朝まで蓄えておきなさい」。主は、5節で、「ただし、六日目に家に持ち帰ったものを整えれば、毎日集める分の二倍になっている」と言われておりましたが、主はいつもの二倍の量のマナを与えられることによって、明日が休息の日、安息日であることを示されたのです。主は安息日の前の日に、いつもの二倍のマナを与えることにより、安息日にイスラエルの人々がマナを集めなくていいように、休息を取ることができるようにされたのです。それで、モーセは、「焼くものは焼き、煮るものは煮て、余った分は明日の朝まで蓄えておきなさい」と言ったのであります。イスラエルの人々がモーセの命じたとおり、朝まで残しておくと、臭くならず虫も付きませんでした。いつもですと、残しておいたマナは虫が付いて臭くなったのですが、安息日の前の日に残しておいたマナには虫が付かず臭くならなかったのです。モーセはこう言いました。「今日はそれを食べなさい。今日は主の安息日である。今日は何も野に見つからないであろう。あなたたちは六日間集めた。七日目は安息日だから野には何もないであろう」。しかし、この指示にもイスラエルの民のうちの何人かは従いませんでした。彼らは、モーセから「七日目は安息日だから、野には何も見つからないであろう」と言われていたにも関わらず、集めに出て行ったのです。もちろん、彼らは何も見つけられなかったのです。そのようなイスラエルの人々に、主はモーセを通してこう言われました。「あなたたちは、いつまでわたしの戒めと教えを拒み続けて、守らないのか。よくわきまえなさい。主があなたたちに安息日を与えられたことを。そのために、六日目には、主はあなたたちに二日分のパンを与えている。七日目にはそれぞれ自分の所にとどまり、その場所から出てはならない」。この主の御言葉を読んで、私たちは不思議に思うかも知れません。といいますのも、主がイスラエルに安息日を与えられたのは、20章に記されている十戒においてではないかと考えるからです。20章8節に、こう記されています。「安息日を心に留め、これを聖別せよ。六日の間働いて、なんであれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである」。このように十戒の中で、「安息日を心に留め、これを聖別せよ」と明確に命じられるわけですが、その前に、主はマナの奇跡を通して、イスラエルの人々に安息日について教えられるのです。主は安息日の前日にいつもの二倍のマナを与え、安息日にはマナを降らせないことによって、安息日が自分の所にとどまって休む日であることを教えられたのです。そのようにして、イスラエルの人々は七日目に休んだのであります。六日働いて、七日目は休むという、そのようなサイクルを、主はマナの奇跡を通して、教えられたのです。そのようにして、イスラエルの人々は主の安息にあずかる者とされたのです。

 創世記の1章、2章を見ますと、神様が六つの日に渡って天地万物を造られたこと。そして七日目に休まれたことが記されています。創世記の2章1節から3節にこう記されております。「天地万物は完成された。第七の日に、神は御自分の仕事を完成され、第七の日に、神は御自分の仕事を離れ、安息なさった。この日に神はすべての創造の仕事を離れ、安息なさったので、第七の日を神は祝福し、聖別された」。神様がイスラエルの民に安息日を与えられたのは、この御自分の安息にあずからせるためであったのです。エジプトで奴隷状態にあったイスラエルの人々に休息の日はありませんでした。彼らは休息の日を与えられず、強制的に働かされていたのです。しかし、主は、奴隷の家であるエジプトからイスラエルの人々を導き出し、御自分の民としてくださいました。そして、御自分の民となったイスラエルの人々に主は安息日を与えられたのです。

 神様は、六つの日にわたって天地万物をお造りになり、七日目には仕事を離れて安息なされました。神様もさすがにお疲れになったのでしょうか?そうではないと思います。神様が六つの日にわたって働いて、七日目に休まれたのは、私たちに人間に模範を示すためであったのです。神様は私たち人間のために安息日を定められたのです。イエス様の復活まで、安息日は週の最後の日である土曜日でありました。しかし、イエス様が復活されることにより、キリスト教会は週の最初の日に礼拝をささげるようになりました。新約聖書を見ますと、週の初めの日の夜に集まって礼拝をささげていたことが記されています(使徒20:7参照)。それは週の初めの日が休みではなかったからです。キリスト教会が日曜日に集まって礼拝をささげるようになったのは、日曜日が休みであったからではありません。むしろ、キリスト教会が日曜日に礼拝をささげていたので、日曜日が休みとなったのです。4世紀にキリスト教がローマ帝国の国教となることによって、日曜日が休みとなったのです。日本でも明治時代において、西暦(太陽暦)が導入され、日曜日が休日として普及したのであります。言い換えるならば、キリスト教が世界的に広まることによって、多くの人が日曜日を休日として過ごせるようになったのです。なぜ、日曜日が休みなのか?そのことを多くの人はあまり考えたことはないかも知れません。しかし、日曜日が休日であるのは、イエス・キリストが復活され、それを記念してキリスト教会が礼拝をささげるようになったからなのです。そのようにして、イエス・キリストを信じていない多くの人にも休みの日が与えられているのです。しかしながら、まことの休息は、安息日の主であるイエス・キリストのもとに来ることによって得ることができます。イエス・キリストのもとに来るとき、人は罪の重荷から解き放たれて、魂の安息を得ることができるのです。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる」。そのようにイエス様は今も、すべての人を御自分の安息へ招いておられるのです。

関連する説教を探す関連する説教を探す