分かち合う恵み 2015年9月27日(日曜 夕方の礼拝)

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分かち合う恵み

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
出エジプト記 16章13節~18節

聖句のアイコン聖書の言葉

16:13 夕方になると、うずらが飛んで来て、宿営を覆い、朝には宿営の周りに露が降りた。
16:14 この降りた露が蒸発すると、見よ、荒れ野の地表を覆って薄くて壊れやすいものが大地の霜のように薄く残っていた。
16:15 イスラエルの人々はそれを見て、これは一体何だろうと、口々に言った。彼らはそれが何であるか知らなかったからである。モーセは彼らに言った。「これこそ、主があなたたちに食物として与えられたパンである。
16:16 主が命じられたことは次のことである。『あなたたちはそれぞれ必要な分、つまり一人当たり一オメルを集めよ。それぞれ自分の天幕にいる家族の数に応じて取るがよい。』」
16:17 イスラエルの人々はそのとおりにした。ある者は多く集め、ある者は少なく集めた。
16:18 しかし、オメル升で量ってみると、多く集めた者も余ることなく、少なく集めた者も足りないことなく、それぞれが必要な分を集めた。出エジプト記 16章13節~18節

原稿のアイコンメッセージ

 前回、私たちは、主がイスラエルの人々の不平を聞いて、夕には肉を与え、朝にはパンを与えると約束されたことを学びました。主はモーセに、「わたしは、イスラエルの人々の不平を聞いた。彼らに伝えるがよい。『あなたたちは夕暮れには肉を食べ、朝にはパンを食べて満腹する。あなたたちはこうして、わたしがあなたたちの神、主であることを知るようになる」と言われたのでありました。今夕の御言葉には、その主の約束が実現したことが記されております。モーセは、イスラエルの人々に、「主は夕暮れに、あなたたちに肉を与え食べさせ」ると言われましたが、それは、宿営を覆うほどのたくさんの「うずら」によって実現いたします。うずらは小さな渡り鳥で、3月、4月頃、季節風に乗ってシナイ半島を通り、アフリカからヨーロッパに移動したと言われています。主は、そのうずらを風を起こして、イスラエルの宿営へと運ばれたのです(詩78:26参照)。そのようにして、主は、イスラエルの人々に肉を与えて食べさせたのです。また、「朝にパンを与えて満腹にさせられる」という約束は、「朝には宿営の周りに露が降りた。この降りた露が蒸発すると、見よ、荒れ野の地表を覆って薄く壊れやすいものが大地の霜のように薄く残っていた」という不思議な現象によって実現することになります。イスラエルの人々はそれを見て、「これは一体何だろう」と口々に言いました。「これは一体何だろう」と訳されている元の言葉は「マン・フー」であり、これが「マナ」の語源であると考えられています。31節に、「イスラエルの家では、それをマナと名付けた。それは、コエンドロの種に似て白く、蜜の入ったウェファースのような味がした」とありますが、「マナ」の語源は、「これは何だろう」「マン・フー」という言葉であると考えられているのです。「これは一体何だろう」と言うイスラエルに、モーセはこう言いました。「これこそ、主があなたたちに食物として与えられるパンである。主が命じられたことは次のことである。『あなたたちはそれぞれ必要な分、つまり一人当たり一オメル集めよ。それぞれ自分の天幕にいる家族の数に応じて取るがよい』」。「一人当たり一オメル集めよ」とありますが、オメルはここにしか出てこない単位で、36節を見ますと、「一オメルは十分の一エファである」と記されています。聖書巻末の「度量衡および通貨」を見ますと、エファは固体の容量で約23リットルとありますから、一オメルは2.3リットルということになります。4人家族であれば、9.2リットルを集めることになるわけです。

 17節、18節に次のように記されています。「イスラエルの人々はそのとおりにした。ある者は多く集め、ある者は少なく集めた。しかし、オメル升で量ってみると、多く集めた者も余ることなく、少なく集めた者も足りないことなく、それぞれが必要な分を集めた」。多く集めたら余るはずですよね。また、少なく集めたら足りないはずであります。しかし、オメル升で量ってみると、多く集めた者も余ることなく、少なく集めた者も足りないことなく、それぞれが必要な分を集めた」と言うのです。これは神様の奇跡でしょうか?そうではないようです。ここに記されていることは、「みんなで集めたマナを、オメル升で量って分配すると、すべての人に必要な分だけ行き渡った」ということであります(二コリント8章14、15参照)。神様は、イスラエルの民すべてを養われるお方であるのです。イスラエルの民だけではありません。神様は全世界のすべての人に食べ物を与え、養ってくださるお方であるのです(使徒14:17参照)。神様は今も、すべての人が食べて生きていけるだけの食糧を与えてくださっているのです。では、なぜ、世界には、飢餓で苦しんでいる人々がいるのでしょうか?それは、私たち人間が食糧を平等に分配していないからです。日本国際飢餓対策機構のホームページによれば、世界の穀物生産量は23億トンで、これを世界人口の70億で割ると、一人当たり年間330キログラム食べられる計算になります。一人当たりの必要な食糧は年間180キログラムといわれますから、すべての人が十分に食べることができるわけです。しかし、そのようになっていないのは、穀物の配分が偏っているためであるのです。『世界がもし100人の村だったら』という本に、その現実が次のように言い表されています。「20人は栄養がじゅうぶんではなく、1人は死にそうなほどです。でも15人は太り過ぎです」。私たちは、飢餓で苦しんでいる人が多くいると聞きますと、「神様は何をしておられるのか?」と思うかも知れません。しかし、神様は、すべての人が食べて生きていけるだけの食糧を与えてくださっているのです。問題は、それを私たち人間が平等に分配していないことにあるのです。では、なぜ、私たち人間は食糧を平等に分配できないのでしょうか?経済の仕組みがそうなっていないから等々、様々な要因が考えられますが、その一つは、私たちが食糧を神様から与えられたものというより、自分の力で得たものと考えてしまっているからだと思います。しかし、このとき、イスラエルは違いました。彼らはまさしく恵みとして、パンを与えられたのです。それゆえ、彼らは自分たちがそれぞれ集めた物を、オメル升で量って、1人当たり一オメルずつ平等に分配したのです。そのように彼らはモーセが言ったとおりにしたのです。イスラエルの人々は、主の恵みを恵みとして受け取ることにより、このようにすることができたのです。

 「多く集めた者も余ることなく、少なく集めた者も足りないことなく、それぞれが必要な分を集めた」。この御言葉を、使徒パウロは、コリントの信徒への手紙二の8章14節、15節で引用しております。新約の334ページです。第二コリント書の8章8節から15節までをお読みします。

 わたしは命令としてこう言っているのではありません。他の人々の熱心に照らしてあなたがたの愛の純粋さを確かめようとして言うのです。あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです。この件についてわたしの意見を述べておきます。それがあなたがたの益になるからです。あなたがたは、このことを去年から他に先がけて実行したばかりでなく、実行したいと願ってもいました。だから、今それをやり遂げなさい。進んで実行しようと思ったとおりに、自分が持っているものでやり遂げることです。進んで行う気持ちがあれば、持たないものではなく、持っているものに応じて、神に受け入れられるのです。他の人々には楽をさせて、あなたがたに苦労をかけるということではなく、釣り合いがとれるようにするわけです。あなたがたの現在のゆとりが彼らの欠乏を補えば、いつか彼らのゆとりもあなたがたの欠乏を補うことになり、こうして釣り合いがとれるのです。「多く集めた者も、余ることはなく、わずかしか集めなかった者も、不足することはなかった」と書いてあるとおりです。

 ここでパウロは、コリントの信徒たちに、エルサレム教会のために献金することを勧めています。エルサレム教会は貧しい教会でありました。それでパウロは、異邦人教会から献金を集めていたのです。パウロは、異邦人教会の献金をエルサレム教会に届けることによって、目に見えるかたちで、教会の一致を表そうとしたのです。パウロは、コリント教会の現在のゆとりが、エルサレム教会の欠乏を補うことによって、「多く集めた者も、余ることなく、わずかしか集めなかった者も、不足することはなかった」という御言葉が実現すると記しております。このようなパウロの言葉が説得力を持つのは、コリントの信徒たちが、「わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っていた」からです。主は豊かであったのに、私たちのために貧しくなられました。それは主の貧しさによって、私たちが豊かになるためであったのです。その主イエス・キリストの恵みを知っている者として、ゆとりのある教会が欠乏している教会を助けることが勧められているのです。ここには、各個教会を越えて、助け合う教会の姿が記されています。そして、それは私たちが実践すべき姿でもあるのです。私たちはゆとりのある教会とは言えないかも知れません。しかし、私たちは、主イエス・キリストの恵みを知っている者として、他の教会のために祈り、ささげる教会でありたいと願います。かつて、私たちの教会が、上福岡教会や東京教会や大宮教会から献金をいただいたことを忘れずに、私たちも、他の教会の欠乏を補う教会になりたいと願います。

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