荒れ野でパンを与える主 2015年9月20日(日曜 夕方の礼拝)

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荒れ野でパンを与える主

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
出エジプト記 16章1節~12節

聖句のアイコン聖書の言葉

16:1 イスラエルの人々の共同体全体はエリムを出発し、エリムとシナイとの間にあるシンの荒れ野に向かった。それはエジプトの国を出た年の第二の月の十五日であった。
16:2 荒れ野に入ると、イスラエルの人々の共同体全体はモーセとアロンに向かって不平を述べ立てた。
16:3 イスラエルの人々は彼らに言った。「我々はエジプトの国で、主の手にかかって、死んだ方がましだった。あのときは肉のたくさん入った鍋の前に座り、パンを腹いっぱい食べられたのに。あなたたちは我々をこの荒れ野に連れ出し、この全会衆を飢え死にさせようとしている。」
16:4 主はモーセに言われた。「見よ、わたしはあなたたちのために、天からパンを降らせる。民は出て行って、毎日必要な分だけ集める。わたしは、彼らがわたしの指示どおりにするかどうかを試す。
16:5 ただし、六日目に家に持ち帰ったものを整えれば、毎日集める分の二倍になっている。」
16:6 モーセとアロンはすべてのイスラエルの人々に向かって言った。「夕暮れに、あなたたちは、主があなたたちをエジプトの国から導き出されたことを知り、
16:7 朝に、主の栄光を見る。あなたたちが主に向かって不平を述べるのを主が聞かれたからだ。我々が何者なので、我々に向かって不平を述べるのか。」
16:8 モーセは更に言った。「主は夕暮れに、あなたたちに肉を与えて食べさせ、朝にパンを与えて満腹にさせられる。主は、あなたたちが主に向かって述べた不平を、聞かれたからだ。一体、我々は何者なのか。あなたたちは我々に向かってではなく、実は、主に向かって不平を述べているのだ。」
16:9 モーセがアロンに、「あなたはイスラエルの人々の共同体全体に向かって、主があなたたちの不平を聞かれたから、主の前に集まれと命じなさい」と言うと、
16:10 アロンはイスラエルの人々の共同体全体にそのことを命じた。彼らが荒れ野の方を見ると、見よ、主の栄光が雲の中に現れた。
16:11 主はモーセに仰せになった。
16:12 「わたしは、イスラエルの人々の不平を聞いた。彼らに伝えるがよい。『あなたたちは夕暮れには肉を食べ、朝にはパンを食べて満腹する。あなたたちはこうして、わたしがあなたたちの神、主であることを知るようになる』と。」出エジプト記 16章1節~12節

原稿のアイコンメッセージ

 今夕は、出エジプト記16章1節から12節より、「荒れ野でパンを与える主」という題でお話いたします。

 イスラエルの人々の共同体全体は、十二の泉があり、七十本のなつめやしが茂っていたエリムを出発し、エリムとシナイとの間にあるシンの荒れ野に向かいました。巻末の聖書地図の「2 出エジプトの道」を見ますと、イスラエルの民が、シナイ半島を紅海沿いに南下していったことが記されています。「それはエジプトの国を出た年の第二の月の十五日であった」とありますから、エジプトを脱出して、ちょうど一ヶ月が過ぎておりました(12:6参照)。荒れ野に入ると、イスラエルの人々の共同体全体はモーセとアロンに向かって、次のような不平を述べ立てました。「我々はエジプトの国で、主の手にかかって、死んだ方がましだった。あのときは肉のたくさん入った鍋の前に座り、パンを腹いっぱい食べられたのに。あなたたちは我々をこの荒れ野に連れ出し、この全会衆を飢え死にさせようとしている」。この新共同訳聖書の翻訳だと意味が少し分かりづらいと思いますので、新改訳聖書の翻訳を紹介したいと思います。新改訳聖書はイスラエルの民の不平を次のように訳しています。「エジプトの地で、肉なべのそばにすわり、パンを満ち足りるまで食べていたときに、私たちは主の手にかかって死んでいたらよかったのに。事実、あなたがたは、私たちをこの荒れ野に連れ出して、この全集団を飢え死にさせようとしているのです」。イスラエルの人々がモーセとアロンに向かって不平を言ってのは、食べる物がなく、飢え死にしそうであったからです。荒れ野で飢え死にするくらいなら、エジプトの地で、肉なべのすばにすわり、パンを満ち足りるまで食べていたときに、主の手にかかって死んだ方がよかった、と彼らは不平を言ったのです。重労働を課せられ虐待されていたイスラエルの人々が、「肉のたくさん入った鍋の前に座」っていたとは考えにくいですから、おそらく、彼らはエジプトでの生活を美化して語っているのでしょう。私たちも、過去を美化して、「あの頃は良かった」と過ぎし日に戻りたいと考えることがあるのではないでしょうか?イスラエルの人々はエジプトで肉を食べたことがあったと思いますが、それが美化されて、「肉のたくさん入った鍋の前に座って」いたとなっているのです。ここで、イスラエルの人々が言っていることは不平というよりも、モーセとアロンに対する中傷とも言えます。なぜなら、イスラエルの人々は、「あなたたちは我々をこの荒れ野に連れ出し、この全会衆を飢え死にさせようとしている」と言っているからです。イスラエルの人々は、自分たちをエジプトから導き出されたのは主であることを忘れ、モーセとアロンに対して不平、不満を言うのです。しかし、そのようなイスラエルの人々の不平を聞いて、主はモーセにこう言われます。「見よ、わたしはあなたたちのために、天からのパンを降らせる。民は出て行って、毎日必要な分だけ集める。わたしは彼らがわたしの指示通りにするかどうかを試す。ただし、六日目に家に持ち帰ったものを整えれば、毎日集める分の二倍になっている」。主は、モーセとアロンに対するイスラエルの人々の不平を、御自分に対する不平として聞かれました。それゆえ、「見よ、わたしはあなたたちのために、天からのパンを降らせる」と言われるのです。この主の言葉を受けて、モーセとアロンはすべてのイスラエルの人々に向かってこう言いました。「夕暮れに、あなたたちは、主があなたたちをエジプトから導き出されたことを知り、朝に、主の栄光を見る。あなたたちが主に向かって不平を述べるのを主が聞かれたからだ。我々が何者なので、我々に向かって不平を述べるのか」。モーセは更にこう言いました。「主は夕暮れに、あなたたちに肉を食べさせ、朝にパンを与えて満腹させられる。主は、あなたたちが主に向かって述べた不平を、聞かれたからだ。一体、我々は何者なのか。あなたたちは我々に向かってではなく、実は、主に向かって不平を述べているのだ」。主は夕暮れにうずらの肉を食べさせることにより、また、朝にパンを与えて満腹させられることにより、御自分がイスラエルの人々をエジプトの国から導き出されたことを示されます。そのようにして、主は栄光をあらわされるのです。主は荒れ野において、夕暮れに肉を、朝にはパンを与えることにより、御自分こそが、イスラエルの民を養うお方であることをお示しになるのです。イスラエルの人々は、そのことを日ごとの糧を通して、教えられるのであります。このことは、私たちも同じであります。イエス様は、主の祈りの中で、神様を「天におられるわたしたちの父よ」と呼び、「わたしたちに必要な糧を今日与えてください」と祈るよう教えられました(マタイ6:9、11)。私たちが祈りなれている言葉で言えば、「日用の糧を今日もあたえたまえ」であります。私たちが主の祈りの中で祈っているのも、日用の糧、日ごとの糧であるのです。そして、私たちは、その祈りを神様がかなえてくださったことを感謝して、食前の祈りをささげているのです。そのように主に感謝して、主の養いにあずかることにより、私たちは主の栄光をあらわしているのです(一コリント10:31参照)。ここで、モーセは「我々が何者なので、我々に向かって不平を述べるのか」と二度言っておりますが、それは、イスラエルの人々に、自分たちが主の代理人として遣わされた者であることを思い起こさせるためでありました。モーセとアロンに向かって不平を述べることは、主に向かって不平を述べることになるのです。イスラエルの人々は、モーセとアロンに、「あなたたちは我々をこの荒れ野に連れ出し、この全会衆を飢え死にさせようとしている」と言いましたが、それは、主に向かって、「あなたは我々をこの荒れ野に連れ出し、全会衆を飢え死にさせようとしている」と言ったのに等しいのです。しかし、主はそのようなイスラエルの人々の不平を聞いてくださいました。34章6節に、「主、主、憐れみ深く恵みに富む神、忍耐強く、慈しみとまことに満ち」とありますが、主は忍耐強く、慈しみとまことに満ちたお方であられるのです。主は、イスラエルの共同体全体を御自分の御前に集め、モーセにこう仰せになりました。「わたしは、イスラエルの人々の不平を聞いた。彼らに伝えるがよい。『あなたたちは夕暮れには肉を食べ、朝にはパンを食べて満腹する。あなたたちはこうして、わたしがあなたたちの神、主であることを知るようになる』と」。私たちは日ごとの食事を通して、主が私たちの神であることを知っているでしょうか?豊かな社会に生きる私たちには、そのことは難しいことかも知れません。このとき、イスラエルは荒れ野にいました。荒れ野は砂漠でありまして、文字通り食べる物がないのです。しかも、このときイスラエルの民は成人男子だけで60万人いたと記されています。女や子供の人数を加えれば、もっとたくさんいたでしょう。そのような多くの人々を荒れ野で養うことなど、到底不可能です。イスラエルの人々が、「あなたたちは我々をこの荒れ野に連れ出し、この全会衆を飢え死にさせようとしている」と不平を言ったのも無理のないことであったと思います。私は、このイスラエルの人々を不信仰だと攻めるつもりはありません。むしろ、ここに、私たちの姿が描かれていると思います。私たちは生きていくために、食べる物が必要であるからです。もちろん、そのことを主はご存じであります。ですから、主は、イスラエルに、夕暮れには肉を食べさせ、朝にはパンを食べさせて満腹させられるのです。そのようにして、イスラエルは、主が自分たちと共におられる生きて働く神であることを知るようになるのです。イエス様は、主の祈りの中で、「私たちに必要な糧を今日与えてください」と祈るように教えられましたが、他の所では、次のようにも言われています。「だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである」(マタイ6:31)。イエス様は、主の祈りを教えられるに先立って、「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。だからこう祈りなさい」と言われました。私たちが願うことによって、神様は初めて、そのことを知るのではありません。そうではなくて、神様が私たちの必要をご存じだからこそ、私たちは願うことができるのです。そして、願うことによって、私たちはそれが主から与えられたものであることを知り、主に感謝をささげることができるのです。そのようにして、私たちは主が恵み深いお方であることをいよいよ知る者とされるのです。

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