海の歌 2015年8月30日(日曜 夕方の礼拝)
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海の歌
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- 村田寿和 牧師
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出エジプト記 15章1節~21節
聖書の言葉
15:1 モーセとイスラエルの民は主を賛美してこの歌をうたった。主に向かってわたしは歌おう。主は大いなる威光を現し/馬と乗り手を海に投げ込まれた。
15:2 主はわたしの力、わたしの歌/主はわたしの救いとなってくださった。この方こそわたしの神。わたしは彼をたたえる。わたしの父の神、わたしは彼をあがめる。
15:3 主こそいくさびと、その名は主。
15:4 主はファラオの戦車と軍勢を海に投げ込み/えり抜きの戦士は葦の海に沈んだ。
15:5 深淵が彼らを覆い/彼らは深い底に石のように沈んだ。
15:6 主よ、あなたの右の手は力によって輝く。主よ、あなたの右の手は敵を打ち砕く。
15:7 あなたは大いなる威光をもって敵を滅ぼし/怒りを放って、彼らをわらのように焼き尽くす。
15:8 憤りの風によって、水はせき止められ/流れはあたかも壁のように立ち上がり/大水は海の中で固まった。
15:9 敵は言った。「彼らの後を追い/捕らえて分捕り品を分けよう。剣を抜いて、ほしいままに奪い取ろう。」
15:10 あなたが息を吹きかけると/海は彼らを覆い/彼らは恐るべき水の中に鉛のように沈んだ。
15:11 主よ、神々の中に/あなたのような方が誰かあるでしょうか。誰か、あなたのように聖において輝き/ほむべき御業によって畏れられ/くすしき御業を行う方があるでしょうか。
15:12 あなたが右の手を伸べられると/大地は彼らを呑み込んだ。
15:13 あなたは慈しみをもって贖われた民を導き/御力をもって聖なる住まいに伴われた。
15:14 諸国の民はこれを聞いて震え/苦しみがペリシテの住民をとらえた。
15:15 そのときエドムの首長はおののき/モアブの力ある者たちはわななきにとらえられ/カナンの住民はすべて気を失った。
15:16 恐怖とおののきが彼らを襲い/御腕の力の前に石のように黙した/主よ、あなたの民が通り過ぎ/あなたの買い取られた民が通り過ぎるまで。
15:17 あなたは彼らを導き/嗣業の山に植えられる。主よ、それはあなたの住まいとして/自ら造られた所/主よ、御手によって建てられた聖所です。
15:18 主は代々限りなく統べ治められる。
15:19 ファラオの馬が、戦車、騎兵もろとも海に入ったとき、主は海の水を彼らの上に返された。しかし、イスラエルの人々は海の中の乾いた所を進んだ。
15:20 アロンの姉である女預言者ミリアムが小太鼓を手に取ると、他の女たちも小太鼓を手に持ち、踊りながら彼女の後に続いた。
15:21 ミリアムは彼らの音頭を取って歌った。主に向かって歌え。主は大いなる威光を現し/馬と乗り手を海に投げ込まれた。出エジプト記 15章1節~21節
メッセージ
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前回、私たちは、主がエジプト軍を海の中に投げ込まれたこと、そのようにして、主はイスラエルをエジプト人の手から救われたことを学びました。今夕の御言葉には、主の大いなる御業によって救われたモーセとイスラエルの民の賛美の歌が記されています。
1節から12節までをお読みします。
モーセとイスラエルの民は主を賛美してこの歌をうたった。
主に向かってわたしは歌おう。主は大いなる威光を現し/馬と乗り手を海に投げ込まれた。主はわたしの力、わたしの歌/主はわたしの救いとなってくださった。この方こそわたしの神。わたしは彼をたたえる。わたしの父の神、わたしは彼をあがめる。主こそいくさびと、その名は主。主はファラオの戦車と軍勢を海に投げ込み/えり抜きの戦士は葦の海に沈んだ。深淵が彼らを覆い/彼らは深い底に石のように沈んだ。主よ、あなたの右の手は力によって輝く。主よ、あなたの右の手は敵を打ち砕く。あなたは大いなる威光をもって敵を滅ぼし/怒りを放って、彼らをわらのように焼き尽くす。憤りの風によって、水はせき止められ/流れはあたかも壁のように立ち上がり/大水は海の中で固まった。敵は言った。「彼らの後を追い/捕らえて分捕り品を分けよう。剣を抜いて、ほしいままに奪い取ろう。」あなたが息を吹きかけると/海は彼らを覆い/彼らは恐るべき水の中に鉛のように沈んだ。主よ、神々の中に/あなたのような方が誰かあるでしょうか。誰か、あなたのように聖において輝き/ほむべき御業によって畏れられ/くすしき御業を行う方があるでしょうか。あなたが右の手をのべられると/大地は彼らを呑み込んだ。
「主に向かってわたしは歌おう」とありますが、この「わたし」とはモーセのことであります。ですから、この歌は、「モーセの歌」とも呼ばれています。モーセは主によってエジプト人から救われたイスラエルを代表して、主をほめたたえるのです。そこにあるのは、主に救っていただいた者の感謝であります。エジプト軍によって命を奪われる危機から救われた感謝が賛美の根底にあるのです。「主は大いなる威光を現し/馬と乗り手を海に投げ込まれる」ことにより、イスラエルを救ってくださいました。主がわたしの力、わたしの歌、わたしの救いとなってくださったのです。わたしを救うことによって、わたしと共におられる生きて働く神であられることを示してくださったのであります。それゆえ、わたしは神をたたえる。わたしの父の神をわたしはあがめるのです。主によって救われたゆえに、私たちは主をたたえ、あがめるのです。すなわち、礼拝をささげるのです。礼拝は、主によって救われた者たちが、感謝をもってささげるものであるのです。言い換えれば、主によって救われた体験のない者は、主に感謝し、心から主をたたえ、あがめることはできないのです。私たちがこのように神様を礼拝しているのは、私たちが主イエス・キリストによって、罪と滅びから救われた者たちであるからなのです。
モーセは「主こそいくさびと、その名は主」と歌います。モーセは、エジプト軍を見て非常に恐れるイスラエルの人々に、「主があなたたちのために戦われる。あなたたちは静かにしていなさい」と言いましたが、主はイスラエルのためにいくさびととなってくださいました。そのことは、エジプト人も認めていることでありました(14:25参照)。主はいくさびととして、ファラオの戦車と軍勢を海に投げ込み、えり抜きの戦士を葦の海に沈められたのです。ファラオは戦車に馬をつなぎ、自ら軍勢を率い、えり抜きの戦車六百をはじめ、エジプトの戦車すべてを動員したのでありますが、深淵が彼らを覆い、彼らは深い底に石のように沈んだのです。
1節から5節までは、イスラエルの人々が見た主の大いなる御業の叙述でありますが、6節から12節までは、救われた者としての主への告白であると言えます。モーセは主の大いなる御業によって救われた者として、主がどのようなお方であるのかを告白するのです。「主よ、あなたの右の手は力によって輝く。主よ、あなたの右の手は敵を打ち砕く」。ここで「右の手」とありますが、これは擬人法的な表現であります。「右の手」は利き手、力ある手でありますから、いくさびとのたとえが続いているわけです。主は憤りの風によって、水をせき止められ、流れはあたかも壁のように立ち上がり、大水は海の中で固まりました。それを見て、エジプト人たちは、「彼らの後を追い/捕らえて分捕り品を分けよう。剣を抜いて、ほしいままに奪い取ろう」と言いました。彼らは、自分たちも海の乾いたところを歩いて、向こう岸に行けるかのように考えたのです。しかし、それは主の策略でありました。主が息を吹きかけると海は彼らを覆い、彼らは恐るべき水の中に鉛のように沈んだのです。そのような主に対してモーセは問いかけます。「主よ、神々の中に/あなたのような方が誰かあるでしょうか。誰か、あなたのように聖において輝き/ほむべき御業によって畏れられ/くすしき御業を行う方があるでしょうか」。ここには問いかけの言葉が記されていますが、これは修辞的な問いかけでありまして、言いたいことは、「主よ、神々の中にあなたのような方はだれもいない。誰もあなたのように聖において輝き、ほむべき御業によって畏れられ、くすしき御業を行う神はいない」ということであります。ここでは、多くの神々がいるとする多神教的な考え方を前提として、主が生きて働くまことの神であることが告白されています。多くの神々がいると思われていた世界にあって、イスラエルの人々が主を唯一の神と告白するようになるのは、主のほむべき御業、くすしき御業を体験することによってであるのです。そして、葦の海の奇跡こそ、そのような体験であったのです。イスラエルの人々は、自分たちに襲いかかろうとしていたエジプト軍が、海底に呑み込まれたのを見ました。また、イスラエルの人々は、エジプト人が海辺で死んでいるのを見たのです。
13節から18節までをお読みします。
あなたは慈しみをもって贖われた民を導き/御力をもって聖なる住まいに伴われた。諸国の民はこれを聞いて震え/苦しみがペリシテの住民をとらえた。そのときエドムの首長はおののき/モアブの力ある者たちはわななきにとらえられ/カナンの住民はすべて気を失った。恐怖とおののきが彼らを襲い/御腕の力の前に石のように黙した/主よ、あなたの民が通り過ぎ/あなたの買い取られた民が通り過ぎるまで。あなたは彼らを導き/嗣業の山に植えられる。主よ、それはあなたの住まいとして/自ら造った所/主よ、御手によって立てられた聖所です。主は代々限りなく統べ治められる。
1節から12節までは、すでに起こった葦の海の奇跡について歌っていましたが、13節から18節までは、将来のことである約束の地カナンへの定住について歌っています。将来のことですので、預言しているとも言えますが、むしろ、葦の海の奇跡を体験した者としての信仰の言葉と言えます。ヘブライ人への手紙11章1節に、「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」とありますが、主のくすしき御業によって救われた者として、モーセは信仰をもって、主が必ずイスラエルを約束の地への導き入れ、そこに住まわせてくださると歌うのです。これは単なる希望的観測ではなく、主への信頼に裏打ちされた信仰の言葉であります。ですから、ここでの主語はモーセでも、イスラエルの人々でもなく、主であられるのです。「あなたは慈しみをもって贖われた民を導き/御力をもって聖なる住まいに伴われた」。実際は、ようやくエジプトの国境を出たところです。しかし、モーセは葦の海でエジプト軍から救われた者として、すでに約束の地に導かれたかのように語るのです。新約時代に生きる私たちにとって、約束の地は神が人と共に住みたもう天の御国であります。私たちがその天の御国に必ず入ることができると信じる根拠は、私たちの内にあるのではなく、私たちを十字架の贖いによって罪と滅びから救い出してくださった主イエス・キリストにあるのです。また、復活されたイエス・キリストを通して与えられている神の霊、聖霊にあるのです。私たちは、今地上で、聖霊によってイエス・キリストと結び合わされ、父なる神を礼拝しているゆえに、神様が私たちを聖なる天の住まいに伴い入れてくださることを信じることができるのです。
少し前後しますが、14節から16節までには、主が贖われた民を慈しみをもって導き、御力をもって伴われたことを聞いた諸国の民の様子が記されています。ところで、諸国の民は、これを誰から聞くのでしょうか?エジプト人は死んでしまいましたので、彼らが主の御業を語り伝えることはできません。主の御業を語り伝えるのは、主によって贖われた民イスラエルであるのです。つまり、主によって救われた者は、主の救いを証しし、宣べ伝える者とされるのです。葦の海の奇跡という主の大いなる御業は、神学の言葉で言えば、出来事啓示であります。神様の啓示は、神様の民に正しく認識されなければ意味がありません。もし、主の救いを体験したイスラエルの民が、主をほめたたえることも、主を信頼することもなかったとすれば、それは神様の啓示が正しく受け止められなかったということになるのです。しかし、実際は、モーセの歌に見られるように、イスラエルの人々は主をほめたたえ、主を信頼する者となったのです。そのような決定的な出来事として証しされ、宣べ伝えられたのです。モーセは、これからイスラエルを約束の地へと導くわけですが、そのモーセが、「あなたは彼らを導き/嗣業の山に植えられる。主よ、それはあなたの住まいとして/自ら造られた所/主よ、御手によって建てられた聖所です。主は代々限りなく統べ治められる」と歌うことができたことは幸いなことであると思います。私たちも、教会の頭はイエス・キリストであること、また、イエス様が「わたしの教会を建てる」と言われ、「わたしは世の終わりまでいつもあなたがたと共にいる」と言われたことを知っております。しかし、そのことを忘れて、意気消沈してしまうことが多いのではないでしょうか?しかし、私たちを罪の奴隷状態から贖い出し、慈しみをもって御言葉と聖霊によって治められるお方は、すでに父なる神の右の座についておられるのです。私たちの保証として、すでに天の玉座に着いておられるのです。
19節から21節までをお読みします。
ファラオの馬が、戦車、騎兵もろとも海に入ったとき、主は海の水を彼らの上に返された。しかし、イスラエルの人々は海の中の乾いた所を進んだ。
アロンの姉である女預言者ミリアムが小太鼓を手に取ると、他の女たちも小太鼓を手に持ち、躍りながら彼女の後に続いた。ミリアムは彼らの音頭を取って歌った。主に向かって歌え。主は大いなる威光を現し/馬と乗り手を海に投げ込まれた。
21節は、ミリアムの歌と呼ばれています。その内容は、モーセの歌の最初とほぼ同じです。ここには、戦いに勝利した男たちを女たちが躍りと歌をもって出迎えたという慣習があったと言われています。男だけではなく、女も主の救いにあずかり、主をほえたたえるのです。このことは、イエス・キリストによって救われた私たちにはなおさらのことであります。なぜなら、イエス・キリストにあって、男も女もないからです。私たちは男も女もイエス・キリストにあって神の子とされ、自由な者とされているのです。それゆえ、私たちは男も女も、主イエス・キリストによって救われた者として、主の御名をほめたたえているのです。そのようにして、主イエス・キリストの大いなる御業を証しし、宣べ伝えているのです。