あなたを癒す主 2015年9月13日(日曜 夕方の礼拝)

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あなたを癒す主

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
出エジプト記 15章22節~27節

聖句のアイコン聖書の言葉

15:22 モーセはイスラエルを、葦の海から旅立たせた。彼らはシュルの荒れ野に向かって、荒れ野を三日の間進んだが、水を得なかった。
15:23 マラに着いたが、そこの水は苦くて飲むことができなかった。こういうわけで、そこの名はマラ(苦い)と呼ばれた。
15:24 民はモーセに向かって、「何を飲んだらよいのか」と不平を言った。
15:25 モーセが主に向かって叫ぶと、主は彼に一本の木を示された。その木を水に投げ込むと、水は甘くなった。その所で主は彼に掟と法とを与えられ、またその所で彼を試みて、
15:26 言われた。「もしあなたが、あなたの神、主の声に必ず聞き従い、彼の目にかなう正しいことを行い、彼の命令に耳を傾け、すべての掟を守るならば、わたしがエジプト人に下した病をあなたには下さない。わたしはあなたをいやす主である。」
15:27 彼らがエリムに着くと、そこには十二の泉があり、七十本のなつめやしが茂っていた。その泉のほとりに彼らは宿営した。出エジプト記 15章22節~27節

原稿のアイコンメッセージ

 前回、私たちは、モーセとイスラエルの民が歌った、いわゆる「海の歌」について学びました。イスラエルは主がエジプト人に行われた大いなる業を見て、「主に向かって歌え。主は大いなる威光を現し/馬と乗り手を海に投げ込まれた」と主をほめたたえたのでありました。今夕の御言葉はその続きであります。

 モーセはイスラエルを、葦の海から旅立たせました。「彼らはシュルの荒れ野に向かって、荒れ野を三日の間進んだが、水を得なかった」と記されております。荒れ野において、水を得ることができないことは死活問題でありました。イスラエルの民が葦の海を出発して、四日目に「マラ」に着きましたが、そこの水は苦くて飲むことができませんでした。彼らはようやく水を得ることができたと喜んだと思いますが、その水は苦くて飲むことができなかったのです。それで、彼らはこの場所をマラ、苦いと呼んだのです。民はモーセに向かって、「何を飲んだらよいのか」と不平を言いました。そこで、モーセが主に向かって叫ぶと、主は彼に一本の木を示されたのです。そして、その木を水に投げ込むと、水は甘くなり飲むことができるようになったのであります。ある研究者の指摘によると、実際に、苦い水を甘くして飲めるようにする木があるそうです。主は、そのような効用のある木を、このときモーセに示されたのです。そして、モーセはその木を水に投げ込むことにより、水を甘くして飲めるようにしたのであります。

 25節後半に、「その所で主は彼に掟と法とを与えられ、またその所で彼を試みて言われた」とあります。このところは解釈の難しいところであります。といいますのも、主がイスラエルに掟と法を与えられるのは、シナイ山についてからであると思われるからです。しかし、今夕の御言葉には、「その所で、主は彼に掟と法を与えられ、またその所で彼を試みて言われた」と記されているのです。では、マラにおいて、主がイスラエルに与えられた掟と法とはどのようなものなのでしょうか?それは、26節に記されている主の御言葉であります。「もしあなたが、あなたの神、主の声に必ず聞き従い、彼の目にかなう正しいことを行い、彼の命令に耳を傾け、すべての掟を守るならば、わたしがエジプト人に下した病をあなたにはくださない。わたしはあなたをいやす主である」。この26節が、マラで、主がイスラエルにお与えになった掟と法であるのです。そして、この主の掟と法に適う歩みをすることができるかが、これからの荒れ野の旅において主から試されるのです。

 ここで、「わたしがエジプト人に下した病をあなたには下さない」とありますが、この「病」は「災い」を意味しています。主はエジプトにおいて、御自分に背くエジプト人に十の災いを下されました。主はエジプト人に、血の災い、蛙の災い、ぶよの災い、あぶの災い、疫病の災い、はれ物の災い、雹の災い、いなごの災い、暗闇の災い、初子の死の災いと十の災いを下されたのです。そのすべての災いを、イスラエルには下さないと主は言われるのです。ただし、これには、条件が付けられています。「もし、あなたが、あなたの神、主の声に必ず聞き従い、彼の目にかなう正しいことを行い、彼の命令に耳を傾け、すべての掟を守るならば、わたしがエジプト人に下した災いを下さない」と言われるのです。なぜ、このような掟と法が、この所で、すなわち、マラで与えられたのでしょうか?それは、マラでなされた苦い水を甘い水に変えるという主の御業が、エジプトに下された最初の災いである「血の災い」の反対であったからです。血の災いとは、ナイル川の水を血に変えて飲めなくするという災いでありました。飲める水を飲めなくするという災いであったわけです。しかし、主はマラで、飲めない水を飲めるようにしてくださいました。マラでイスラエルが体験したことは、血の災いの逆の出来事であったのです。それで主は、マラでこのような掟と法を与えられたのです。また、主はこれからイスラエルが荒れ野の旅を続けるにあたって、「もしあなたが、あなたの神、主の声に必ず聞き従い、彼の目にかなう正しいことを行い、彼の命令に耳を傾け、すべての掟を守るならば、わたしがエジプト人に下した病をあなたにはくださない」との掟を法をイスラエルに与えられたのです。そして、この掟と法を守るかどうかをイスラエルはこれから主に試されることになるのです。26節の最後に、「わたしはあなたをいやす主である」と記されています。これは、イスラエルが主の声に必ず聞き従い、主の目に正しいことを行い、主の命令に耳を傾け、すべての掟を守って幸いを得ることを主が願っておられることを示しています。主は、「わたしはあなたをいやす主である」と宣言されることにより、御自分の御心がイスラエルに災いを下すことではないことを宣言されたのです。

 イスラエルがマラを旅立ち、エリムに着くと、そこには十二の泉があり、七十本のなつめやしが茂っていました。十二の泉は、ちょうど十二部族に対応しております。彼らは争うことなく、部族ごとに水を得ることができたのです。そして、彼らは泉のほとりに宿営したのでありました。主は荒れ野においても、イスラエルのために水を用意してくださったのです。また、なつめやしの実は食べることができましたから、主は水だけではなく、食べ物をも備えてくださったのです。そして、同じことが私たちにおいても言えるのです。私たちは主の祈りにおいて、神様を「天の父よ」と呼び、「わたしたちに必要な糧を今日与えてください」と祈っております。そして、神様はその私たちの祈りに答えて、私たちに食べる物や飲むもの、生活に必要なあらゆるものを与えてくださっているのです。

 さて、新約時代に生きる私たちは、26節に記されている主の掟と法をどのように受け止めればよいのでしょうか?私たちが直接、この掟と法をいただくならば、私たちはエジプトに下された災いを受ける者となってしまいます。なぜなら、私たちは主の声に必ず聞き従い、主の目にかなう正しいことを行い、主の命令に耳を傾け、すべての掟を守ることができないからです。しかし、そのような私たちに代わって、イエス・キリストが主の声に必ず聞き従い、主の目にかなう正しいことを行い、主の命令に耳を傾け、すべての掟を守ってくださいましたから、私たちは、イエス・キリストにあって、災いではなく祝福をいただくことができるのです。あるいは、このようにも言えます。イエス・キリストが私たちに代わって主がエジプトに下されたすべての災いを受けてくださいましたから、私たちは主のいやしをいただくことができるのです。この26節で言われていることは、申命記の28章に記されていることと同じことであります。申命記の28章1節を読みますとこう記されています。「もし、あなたがあなたの神、主の御声によく聞き従い、今日わたしが命じる戒めをことごとく忠実に守るならば、あなたの神、主は、あなたを地上のあらゆる国民にはるかにまさったものとしてくださる」。そして、以下、14節まで様々な祝福が記されています。そして、15節以下では、「しかし、もしあなたの神、主の御声に聞き従わず、今日わたしが命じるすべての戒めと掟を忠実に守らないならば、これらの呪いはことごとくあなたに臨み、実現するであろう」と様々な呪いについて記すのです。そして、その呪いの中には、「エジプトのあらゆる病気」も含まれているのです(60節)。掟を守るならば祝福され、掟を守らなければ呪われる。これが申命記28章に示された原則であり、今夕の御言葉でイスラエルが与えられた掟と法であったのです。もちろん、主はイスラエルが掟と法を守って祝福を得ることを願っておられます。しかし、イスラエルの歴史を通して明かとなったことは、イスラエルは主の掟と法を完全に守ることができないということでありました。それゆえ、神様は御自分の御子を人として、この地上に遣わしてくださったのです。そして、イエス・キリストは、私たちに代わって神の掟を完全に守り、なおかつ、私たちに代わって律法の呪いの死、十字架の死を死んでくださることによって、私たちの救い主、いやし主となってくださったのです。「わたしはあなたをいやす主である」。この御言葉は、私たちに代わって神の掟を落ち度なく守り、私たちに代わって律法の呪いを受けてくださった、主イエス・キリストの御言葉として聞くとき、正しく聞くことができるのです。私たちの病を担ってくださったイエス・キリストこそ、私たちを神との交わりという健やかな命に生かす、いやし主であられるのです。

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