葦の海の奇跡 2015年8月23日(日曜 夕方の礼拝)

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葦の海の奇跡

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
出エジプト記 14章15節~31節

聖句のアイコン聖書の言葉

14:15 主はモーセに言われた。「なぜ、わたしに向かって叫ぶのか。イスラエルの人々に命じて出発させなさい。
14:16 杖を高く上げ、手を海に向かって差し伸べて、海を二つに分けなさい。そうすれば、イスラエルの民は海の中の乾いた所を通ることができる。
14:17 しかし、わたしはエジプト人の心をかたくなにするから、彼らはお前たちの後を追って来る。そのとき、わたしはファラオとその全軍、戦車と騎兵を破って栄光を現す。
14:18 わたしがファラオとその戦車、騎兵を破って栄光を現すとき、エジプト人は、わたしが主であることを知るようになる。」
14:19 イスラエルの部隊に先立って進んでいた神の御使いは、移動して彼らの後ろを行き、彼らの前にあった雲の柱も移動して後ろに立ち、
14:20 エジプトの陣とイスラエルの陣との間に入った。真っ黒な雲が立ちこめ、光が闇夜を貫いた。両軍は、一晩中、互いに近づくことはなかった。
14:21 モーセが手を海に向かって差し伸べると、主は夜もすがら激しい東風をもって海を押し返されたので、海は乾いた地に変わり、水は分かれた。
14:22 イスラエルの人々は海の中の乾いた所を進んで行き、水は彼らの右と左に壁のようになった。
14:23 エジプト軍は彼らを追い、ファラオの馬、戦車、騎兵がことごとく彼らに従って海の中に入って来た。
14:24 朝の見張りのころ、主は火と雲の柱からエジプト軍を見下ろし、エジプト軍をかき乱された。
14:25 戦車の車輪をはずし、進みにくくされた。エジプト人は言った。「イスラエルの前から退却しよう。主が彼らのためにエジプトと戦っておられる。」
14:26 主はモーセに言われた。「海に向かって手を差し伸べなさい。水がエジプト軍の上に、戦車、騎兵の上に流れ返るであろう。」
14:27 モーセが手を海に向かって差し伸べると、夜が明ける前に海は元の場所へ流れ返った。エジプト軍は水の流れに逆らって逃げたが、主は彼らを海の中に投げ込まれた。
14:28 水は元に戻り、戦車と騎兵、彼らの後を追って海に入ったファラオの全軍を覆い、一人も残らなかった。
14:29 イスラエルの人々は海の中の乾いた所を進んだが、そのとき、水は彼らの右と左に壁となった。
14:30 主はこうして、その日、イスラエルをエジプト人の手から救われた。イスラエルはエジプト人が海辺で死んでいるのを見た。
14:31 イスラエルは、主がエジプト人に行われた大いなる御業を見た。民は主を畏れ、主とその僕モーセを信じた。出エジプト記 14章15節~31節

原稿のアイコンメッセージ

 前回、私たちは、主がイスラエルに、バアル・ツェフォンの前の海辺に宿営するよう命じられたこと、また、エジプトの王ファラオが軍勢を率いて、イスラエルの後を追ったことを学びました。今夕の御言葉はその続きであります。

 主はモーセに、「なぜ、わたしに向かって叫ぶのか」と言われていますが、私たちはここからモーセも主に向かって助けを求めたことを教えられます。イスラエルの民に、「恐れてはならない。落ち着いて、今日、あなたたちのために行われる主の救いを見なさい。あなたたちは今日、エジプト人を見ているが、もう二度と、永久に彼らを見ることはない。主があなたたちのために戦われる。あなたたちは静かにしていなさい」と言ったモーセも、主に向かって叫んだのです。そのモーセに対して、主は、なすべき事を示されます。海辺に宿営しているイスラエルの人々を出発させ、杖を高く上げ、手を海に差し伸べて、海を二つに分けよと言われるのです。そうすれば、イスラエルの民は海の中の乾いた所を通ることができる、と主は言われるのです。また、エジプト人についても次のように言われます。「しかし、わたしはエジプト人の心をかたくなにするから、彼らはお前のたちの後を追ってくる。そのとき、わたしはファラオとその全軍、戦車と騎兵を破って栄光を現す。わたしがファラオとその戦車、騎兵を破って栄光を現すとき、エジプト人は、わたしが主であることを知るようになる」。ここで興味深いことは、「イスラエルの人々は、わたしが主であることを知るようになる」と言われているのではなくて、「エジプト人は、わたしが主であることを知るようになる」と言われていることであります。「わたしが主であることを知るようになる」とは、「わたしがヤハウェ、イスラエルと共にいる生きて働く神であることを知るようになる」ということですが、このことをエジプト人は主の裁きを通して、言い換えれば、自らの滅びを通して知ることになるのです。神様の御栄光はイスラエルを滅ぼそうとするファラオとその全軍を破るという仕方で現されるのです。主の栄光は、イスラエルをエジプト軍から救うという仕方だけではなく、エジプト軍を滅ぼすという仕方でも現されるのです。

 イスラエルの部隊に先立って進んでいた神の御使い、すなわち、雲の柱は移動して後ろに立ち、エジプトの陣とイスラエルの陣との間に入りました。「真っ黒な雲が立ちこめ、光が闇夜を貫いた。両軍は、一晩中、互いに近づくことはなかった」とありますから、時は夜であったようです。通常、夜は火の柱でありましたが、このときは雲の柱のままであったようです。雲の柱がイスラエルの陣営とエジプトの陣営との間を遮る深い霧となり、一晩中、エジプト軍はイスラエルの人々に近づくことはできませんでした。両者を遮る真っ黒な雲の向こうで、イスラエルの人々は何をしていたのか?主に命じられたとおり、モーセが手を海に向かって差し伸べると、主は夜もすがら激しい東風をもって海を押し返されたので、海は乾いた地に変わり、水は分かれました。「夜もすがら」とは、「夕暮れから夜明けまで」「一晩中」という意味であります。壮年男子だけでおよそ60万人であったイスラエルの人々が葦の海を渡りきるまで、一晩中かかったということでありましょう。「イスラエルの人々は海の中の乾いた所を進んで行き、水は彼らの右と左に壁のようになった」とありますが、そのために主は一晩中激しい東風をもって海を押し返されたのです。

 海の中の乾いた所を進んで行くイスラエルの人々を追って、ファラオの馬、戦車、騎兵がことごとく海の中に入って来ました。「朝の見張りの頃」とありますが、これは午前2時から午前6時までを指すと言われています。イスラエルの人々が葦の海を渡り終えようとする朝の見張りの頃、主は火と雲の柱からエジプト軍を見下ろし、エジプト軍をかき乱されました。ここで何が起こったかは具体的には記されておりませんが、詩編77編などを読みますと、稲妻が光り、地が揺れ動いたことが記されています(詩77:17~20参照)。また、ぬかるんでいる地に、重装備の戦車で入って来たことも影響したのでしょう。主は、戦車の車輪をはずし、進みにくくされました。ともかく、エジプト人は、自分たちが戦っているのがイスラエルの神、主であることが分かったのです。それで彼らは、「イスラエルの前から退却しよう。主が彼らのためにエジプトと戦っておられる」と言ったのです。

 主はモーセに、もう一度、「海に向かって手を差し伸べなさい」と命じられます。それは、水がエジプト軍の上に、戦車、騎兵の上に流れ返るためでありました。先程もそうですが、主は葦の海の奇跡を行われるにあたって、モーセを用いておられます。それはイスラエルの人々の目の前で起こっている出来事が偶然ではなく、モーセを遣わした御自分の大いなる御業であることを示すためでありました。そして、モーセが手を海に向かって差し伸べると、夜が明ける前に東風は止み、海は元の場所へ流れ返ったのでありました。そのようにして、主はエジプト軍を海の中に投げ込まれたのです。主はこうして、その日、イスラエルをエジプト人の手から救われたのでありました。イスラエルの人々が見たのは、自分たちに襲いかかろうとするエジプト人ではなく、海辺で死んでいるエジプト人であったのです。

 今夕の葦の海の奇跡は、主の民であるイスラエルの人々にとっては救いであり、主に逆らうエジプト人には滅びでありました。エジプト人は、「主がイスラエルのためにエジプトと戦っておられる」ことを敵として、滅ぼされる者として知ったわけです。彼らは結局、海の中に投げ込まれ、一人も残らなかったのです。他方、主の民であるイスラエルは、この大いなる御業を見ることにより、主を畏れ、主とその僕モーセを信じる者とされました。彼らは救いの体験において主が自分たちと共に生きて働かれる神であることを知ったのです。このことは、私たち人間が、主の裁きが行われる大いなる日に、滅びの体験においてであっても、また救いの体験においてであっても主を知るようになることを教えています。主イエス・キリストは、ヨハネ福音書の5章27節から29節でこう言われています。新約の172ページです。

 また、裁きを行う権能を子にお与えになった。子は人の子だからである。驚いてはならない。時が来ると、墓の中にいる者は皆、人の子の声を聞き、善を行った者は復活して命を受けるために、悪を行った者は復活して裁きを受けるために出て来るのだ。

 ここでの「善」を「イエス様を信じること」、「悪」を「イエス様を信じないこと」と言い換えるとき、地上の生涯でイエス様を主として知らなくても、世の終わりにはだれもがイエス様を主と知るときが来る。裁き主であるイエス様を主と認めざるを得ない時が来ることが分かります。そして、それはイエス様を信じない者にとっては滅びの体験の中で知ることであり、イエス様を信じる者には救いの体験の中で知ることであるのです。なぜなら、終わりの日の裁きは、イエス様の十字架においてすでに下されているからであります。イエス様の十字架の裁きが自分の罪のためであるとを信じる者にとって、終わりの日の裁きは救いの完成でありますが、イエス様の十字架の裁きを自分の罪とは関係ないとするならば、終わりの日の裁きはその人に自らの罪の報い、すなわち、滅びをもたらすことになるのです。私たちが終わりの日に、主をどのようなお方として知ることになるのか?それは主イエス・キリストを今、どのようなお方として知っているのかにかかっているのです。

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