主の救いを見よ 2015年8月16日(日曜 夕方の礼拝)
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主の救いを見よ
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- 村田寿和 牧師
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出エジプト記 14章1節~14節
聖書の言葉
14:1 主はモーセに仰せになった。
14:2 「イスラエルの人々に、引き返してミグドルと海との間のピ・ハヒロトの手前で宿営するよう命じなさい。バアル・ツェフォンの前に、それに面して、海辺に宿営するのだ。
14:3 するとファラオは、イスラエルの人々が慌ててあの地方で道に迷い、荒れ野が彼らの行く手をふさいだと思うであろう。
14:4 わたしはファラオの心をかたくなにし、彼らの後を追わせる。しかし、わたしはファラオとその全軍を破って栄光を現すので、エジプト人は、わたしが主であることを知るようになる。」彼らは言われたとおりにした。
14:5 民が逃亡したとの報告を受けると、エジプト王ファラオとその家臣は、民に対する考えを一変して言った。「ああ、我々は何ということをしたのだろう。イスラエル人を労役から解放して去らせてしまったとは。」
14:6 ファラオは戦車に馬をつなぎ、自ら軍勢を率い、
14:7 えり抜きの戦車六百をはじめ、エジプトの戦車すべてを動員し、それぞれに士官を乗り込ませた。
14:8 主がエジプト王ファラオの心をかたくなにされたので、王はイスラエルの人々の後を追った。イスラエルの人々は、意気揚々と出て行ったが、
14:9 エジプト軍は彼らの後を追い、ファラオの馬と戦車、騎兵と歩兵は、ピ・ハヒロトの傍らで、バアル・ツェフォンの前の海辺に宿営している彼らに追いついた。
14:10 ファラオは既に間近に迫り、イスラエルの人々が目を上げて見ると、エジプト軍は既に背後に襲いかかろうとしていた。イスラエルの人々は非常に恐れて主に向かって叫び、
14:11 また、モーセに言った。「我々を連れ出したのは、エジプトに墓がないからですか。荒れ野で死なせるためですか。一体、何をするためにエジプトから導き出したのですか。
14:12 我々はエジプトで、『ほうっておいてください。自分たちはエジプト人に仕えます。荒れ野で死ぬよりエジプト人に仕える方がましです』と言ったではありませんか。」
14:13 モーセは民に答えた。「恐れてはならない。落ち着いて、今日、あなたたちのために行われる主の救いを見なさい。あなたたちは今日、エジプト人を見ているが、もう二度と、永久に彼らを見ることはない。
14:14 主があなたたちのために戦われる。あなたたちは静かにしていなさい。」出エジプト記 14章1節~14節
メッセージ
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序.
今夕は出エジプト記14章1節から14節より、御言葉の恵みにあずかりたいと願います。
1.主の計略
昼は雲の柱、夜は火の柱によってイスラエルを導かれる主は、モーセにこう仰せになりました。「イスラエルの人々に、引き返してミグドルと海との間のピ・ハヒロトの手前で宿営するように命じなさい。バアル・ツェフォンの前に、それに面して、海辺に宿営するのだ。するとファラオは、イスラエルの人々が慌ててあの地方で道に迷い、荒れ野が彼らの行く手をふさいだと思うであろう。わたしはファラオの心をかたくなにし、彼らの後を追わせる。しかし、わたしはファラオとその全軍を破って栄光を現すので、エジプト人は、わたしが主であることを知るようになる」。イスラエルの人々はこのときエタムに宿営しておりましたが、主はイスラエルの人々に、引き返してミグドルと海との間のピ・ハヒロトの手前で宿営するように命じます。バアル・ツェフォンの前に、それに面して海辺に宿営するよう命じるのです。聖書の巻末にある聖書地図で、場所を確認しておきたいと思います。
聖書地図の「2 出エジプトの道」を見ますと、バアル・ツェフォンという地名が記されています。主は、イスラエルをエジプトからシナイ半島へと進ませずに、エジプトに留まらせるのです。しかも、海辺に宿営するようにと命じたのであります。では、今夕の御言葉に戻ります。旧約の116ページです。
なぜ、主はイスラエルにバアル・ツェフォンの前の海辺に宿営するよう命じられたのでしょうか?それは、ファラオを誘い出すためでありました。ファラオに、イスラエルの人々が慌てて道に迷い、荒れ野が彼らの行く手をふさいだと思わせ、彼らの後を追わせるためであったのです。ここでも主は、ファラオの心をかたくなにされます。御自分に逆らうファラオの心をそのままにされるのです。そして、主はファラオとその全軍を破って栄光を現されるのです。そのようにして、エジプト人は、イスラエルと共におられるお方が主、活きて働く神であると知るようになるのです。
主はイスラエルをエジプトの国から導き出す前に、ファラオとその全軍を破って栄光を現すことをよしとされました。それゆえ、主はイスラエルに、バアル・ツェフォンの前の海辺に宿営するよう命じられたのです。そして、イスラエルの人々はその主の御言葉のとおりにしたのでありました。
2.イスラエルの人々の後を追うファラオ
イスラエルの民が逃亡したとの報告を受けると、エジプト王ファラオとその家臣は、民に対する考えを一変してこう言いました。「ああ、我々は何ということをしたのだろう。イスラエル人を労役から解放して去らせてしまったとは」。初子の死の災いの後で、ファラオはモーセとアロンを呼び出し、イスラエルの人々をエジプトから追い出したわけですが、実際に、イスラエルの民がエジプトから逃亡したとの報告を受けると、ファラオとその家臣たちは自分たちが失ったものがどれほど大きかったかに気づきます。イスラエルの人々はエジプト社会を支えている労働力であったからです。このようなときに、ファラオのもとに、イスラエルがバアル・ツェフォンの前の海辺に宿営しているという情報が入ってきたのでしょう。それで、ファラオは戦車に馬をつなぎ、自ら軍勢を率い、えり抜きの戦車六百をはじめ、エジプトの戦車すべてを動員し、それぞれに士官を乗り込ませました。そして、主がファラオの心をかたくなにされたので、王はイスラエルの人々の後を追ったのです。この話の流れは、これまで学んで来た災いのときと同じであります。災いによって、ファラオは一時的に悔い改めるのですが、災いが過ぎ去ってしまうと、また心をかたくなにして主に逆らうのです。それと同じように、ここでもファラオは心をかたくなにして、イスラエルの人々の後を追ったのです。ファラオは自ら軍勢を率い、エジプトのすべての戦車を動員して、イスラエルの人々の後を追いました。ちなみに、「戦車」とは馬に引かせた二輪の乗り物のことであります。
3.非常に恐れるイスラエルの人々
イスラエルの人々は勝利者として、また自由な者として意気揚々とエジプトから出て行きましたが、エジプト軍は彼らの後を追い、ファラオの馬と戦車、騎兵と歩兵は、ピ・ハヒロトの傍らで、バアル・ツェフォンの前の海辺で彼らに追いつきました。ファラオは既に間近に迫り、イスラエルの人々が目を上げて見ると、エジプト軍は既に背後に襲いかかろうとしていました。「イスラエルの人々は非常に恐れて主に向かって叫」んだとあります。おそらく、彼らは、「主よ、助けてください」と懇願したのだと思います。しかし、彼らがモーセに対して語ったのは非難の言葉でありました。「我々を連れ出したのは、エジプトに墓がないからですか。荒れ野で死なせるためですか。一体、何をするためにエジプトから導き出したのですか。我々はエジプトで、『ほうっておいてください。自分たちはエジプト人に仕えます。荒れ野で死ぬよりもエジプト人に仕える方がましです』と言ったではありませんか」。エジプトは大きなお墓、ピラミッドで有名でありますが、そのエジプトから我々を連れ出したのは、墓がないからかとイスラエルの人々は言います。荒れ野で死なせるためにエジプトから導き出したのかとさえ言うのです。彼らはエジプトを出て行くときは、意気揚々と出て行ったわけですが、エジプト軍が襲いかかろうとしている今となっては、エジプトから出て来たことを後悔するのです。そのような民にモーセはこう答えました。「恐れてはならない。落ち着いて、今日、あなたたちのために行われる主の救いを見なさい。あなたたちは今日、エジプト人を見ているが、もう二度と、永久に彼らを見ることはない。主があなたたちのために戦われる。あなたたちは静かにしていなさい」。モーセはイスラエルの人々の目をエジプト軍から自分たちと共にいる主へと向けさせます。エジプトで数々の力ある業をなされた主がイスラエルのために戦ってくださるのです。ですから、イスラエルの人々は主に信頼して、静かにしているべきであるのです。
結.主イエスの戦いとしての福音宣教
神のイスラエルである私たちにとっての戦い、それは人間を相手にするものではなく、悪の諸霊を相手にするものであります。使徒パウロは、エフェソ書の6章10節から12節でこう記しています。新約の359ページです。
最後に言う。主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい。悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。
人々がイエス・キリストの福音を信じない。その背後には神の敵である悪魔の働きがあります。ですから、福音宣教は悪魔との霊的な戦いであるとも言えるのです。その悪魔との霊的な戦いを私たちはどう戦えばよいのでしょうか?パウロは、「主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい」と記します。もし、私たちが主イエスが共におられることを忘れて、福音を受け入れない人々ばかりに目を向けているとすれば、それは今夕の御言葉に記されているイスラエルの人々と同じであります。しかし、私たちが十字架と復活の主であるイエス・キリストが共におられることに心を向けるならば、私たちは主に信頼して、落ち着いて福音宣教に励むことができるのです。私たちと共におられる主イエスは、「勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」と言われるお方であります(ヨハネ16:33)。また、私たちと共におられる主イエスは、悪魔を御自分の死によって滅ぼされたお方であるのです(ヘブライ2:14参照)。この主に依り頼んで、その偉大な力によって強くされ、落ち着いて福音を宣べ伝えてゆきたいと願います。