雲の柱、火の柱 2015年7月19日(日曜 夕方の礼拝)
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雲の柱、火の柱
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- 説教
- 村田寿和 牧師
- 聖書
出エジプト記 13章17節~22節
聖書の言葉
13:17 さて、ファラオが民を去らせたとき、神は彼らをペリシテ街道には導かれなかった。それは近道であったが、民が戦わねばならぬことを知って後悔し、エジプトに帰ろうとするかもしれない、と思われたからである。
13:18 神は民を、葦の海に通じる荒れ野の道に迂回させられた。イスラエルの人々は、隊伍を整えてエジプトの国から上った。
13:19 モーセはヨセフの骨を携えていた。ヨセフが、「神は必ずあなたたちを顧みられる。そのとき、わたしの骨をここから一緒に携えて上るように」と言って、イスラエルの子らに固く誓わせたからである。
13:20 一行はスコトから旅立って、荒れ野の端のエタムに宿営した。
13:21 主は彼らに先立って進み、昼は雲の柱をもって導き、夜は火の柱をもって彼らを照らされたので、彼らは昼も夜も行進することができた。
13:22 昼は雲の柱が、夜は火の柱が、民の先頭を離れることはなかった。出エジプト記 13章17節~22節
メッセージ
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序
神様がイスラエルの民をエジプトの奴隷の家から導き出されたのは、イスラエルの民を先祖に与えると誓われた約束の地カナンへと導き上るためでありました。エジプトからイスラエルの民を導き出された神様は、イスラエルの民をカナンの地へと導き入れてくださる神様であるのです。そして、そのことは、荒れ野においても神様がイスラエルの民と共にいてくださり、導いてくださることを教えているのです。そのことを私たちは今夕の御言葉からご一緒に教えられたいと願います。
1 イスラエルを導かれる神
エジプトの王ファラオがイスラエルの民を去らせたとき、神様は彼らをペリシテ街道には導かれませんでした。ペリシテ街道は地中海沿岸の街道で近道でありましたが、イスラエルの民が戦わねばならない危険がありました。ペリシテ街道は、いわゆる幹線道路で、エジプトの守備隊が配置されていたからです。神様は、イスラエルの民が戦わねばならないことを知って後悔し、エジプトに帰ろうとするかもしれないと思われ、イスラエルの民を葦の海に通じる荒れ野の道に迂回させられました。このことは、巻末の聖書地図の「2 出エジプトの道」を見ていただくとよく分かります。カナンの地に入るには、地中海沿岸沿いを進んでいく方が近道なのですが、神様はイスラエルの民が戦わなくて済むように葦の海に通じる荒れ野の道を迂回させられたのです。私たちはここに、神様の民に対する御配慮を見ることができます。イスラエルの民は隊伍を整えて、エジプトの国から上ったのでありますが、戦うまでの準備はできていませんでした。そのことを神様はよくご存じのうえで、イスラエルの民を荒れ野を迂回するルートへと導かれたのです。
では、今夕の御言葉に戻ります。旧約の115ページです。
2.ヨセフの骨
エジプトの国から上るとき、モーセはヨセフの骨を携えておりました。ヨセフが、「神は必ずあなたたちを顧みられる。そのとき、わたしの骨をここから一緒に携え上るように」と言って、イスラエルの子らに固く誓わせたからです。このことは、創世記の最後のところに記されています。創世記の50章24節から26節までをお読みします。旧約の93ページです。
ヨセフは兄弟たちに言った。「わたしは間もなく死にます。しかし、神は必ずあなたたちを顧みてくださり、この国からアブラハム、イサク、ヤコブに誓われた土地に導き上ってくださいます。」
それから、ヨセフはイスラエルの息子たちにこう言って誓わせた。
「神は、必ずあなたたちを顧みてくださいます。そのときには、わたしの骨をここから携えて上ってください。」
ヨセフはこうして、百十歳で死んだ。人々はエジプトで彼のなきがらに薬を塗り、防腐処置をして、ひつぎに納めた。
ヨセフが死んでから400年近い月日が流れて、このヨセフの言葉が真実なものとなりました。神様はイスラエルの民を顧み、エジプトからアブラハム、イサク、ヤコブに与えると誓われた土地へと導き上ってくださるのです。そして、イスラエルの民の指導者であるモーセは、ヨセフが誓わせたとおり、彼の骨を携えてエジプトの国から上ったのです。私たちは、ヨセフが兄弟たちに誓わせたことが、400年もの間、世代を越えて覚えられ、実行されたことに驚くのではないでしょうか?しかし、そのことは考えて見ると当然かも知れません。なぜなら、イスラエルの人々がエジプトに寄留し、生きながらえることができたのはヨセフのおかげであったからです。ヨセフの遺骨についての誓いが覚えられていたことは、その前の言葉、「神は必ず、あなたたちを顧みてくださり、この国からアブラハム、イサク、ヤコブに誓われた土地に導き上ってくださいます」という言葉も覚えられていたことを意味します。イスラエルの人々は、モーセに告げられる前から、神が必ず自分たちを顧みてくださり、エジプトからアブラハム、イサク、ヤコブに誓われた土地に導き上ってくださることを知っていたのです。そのような希望をイスラエルの民は世代を越えて共有していたのです。そして、ここに、イスラエルの民が隊列を組む統制のとれた部隊としてエジプトを去ることができた理由があるのです。イスラエルの民は、神は必ず自分たちを顧み、アブラハム、イサク、ヤコブに与えると誓われた土地に導いてくださるという信仰を持つ一つの民としてエジプトの国から上ったのです。
では、今夕の御言葉に戻ります。旧約の115ページです。
3.雲の柱、火の柱
イスラエルの民はスコトから旅立ち、荒れ野の端のエタムに宿営しました。その際、主は彼らに先立って進み、昼は雲の柱をもって導き、夜は火の柱をもって彼らを照らされました。そのお陰で、イスラエルの民は昼も夜も行進することができたのです。聖書では、雲も火も神様の御臨在を表します。イスラエルに先立つ雲の柱、火の柱は、神様が共にいてくださり、導いてくださることの目に見えるしるしであったのです。主はイスラエルの民を、昼は雲の柱によって、太陽の日差しから守られました。そして、夜は火の柱によって、歩むべき道を照らされたのです。
雲の柱、火の柱は神様の御臨在をあらわすものでありますが、これについてフランシスコ会聖書研究所から出ている翻訳聖書は次のように記しておりました。「『雲の柱』と『火の柱』をつくるために神が用いた天然の要素は軍団の先頭の火つぼから出る煙や火による信号であろう」。何もないところから、雲の柱と火の柱が現れたのではなくて、軍団を導くために先頭で焚かれた火や煙を神様が用いたと言うのです。これは興味深い説でありますが、私としては、雲の柱と火の柱は火つぼによらない、超自然的なものであったと理解したいと思います。といいますのも、14章19節を見ますと、雲の柱が移動して後ろに行き、イスラエルの陣とエジプトの陣との間に入り、互いに近づけないようにされたと書いてあるからです。ともかく、神様は昼は雲の柱をもって、また、夜は火の柱をもってイスラエルの民を導かれたのでありました。そして、イスラエルの民は、雲の柱と火の柱に、神様の御臨在を見たからこそ、荒れ野を進んで行くことができたのです。
結.御言葉と聖霊をもって導かれる主
神様は、荒れ野を旅するイスラエルの民を雲の柱と火の柱をもって導かれました。では、今、神様は私たちを何をもって導いてくださっているのでしょうか?それは、主イエス・キリストの御言葉と聖霊によってであります。聖書が教えるところによれば、主イエス・キリストは、週の初めの日に死者の中から栄光の体で復活されました。また、週の初めの日に弟子たちに現れてくださいました。それで、教会は、週の初めの日を主の日と呼び、礼拝をささげるようになったのです。主イエス・キリストは、インマヌエル、神我らと共にいますお方であり、目には見えませんけれども、御言葉と聖霊によって御自分の民と共にいて、導いてくださるのです。私たちは、主の日の礼拝ごとに、そのことを体験しているわけです。
イスラエルの民が、約束の地カナンを目指して歩んだように、私たちも、栄光の天の国を目指して歩んでおります。そして、その道は、私たちと共にいて導いてくださるイエス・キリスト御自身であるのです。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」とイエス様は言われましたけれども、イエス・キリストという道を歩まなければ、だれも父なる神のおられる天の国に行くことができないのです(ヨハネ14:6参照)。そして、その道は、罪と弱さの残る私たちにとっては困難な道であるのです。ですから、私たちは、主の日ごとに礼拝に集い、主イエス・キリストの御言葉と聖霊をいただかなくてはならないのです。私たちは主の日の礼拝ごとに、主イエス・キリストが御言葉と聖霊において共にいてくださり、私たちを導いてくださっていることを心に刻みたいと願います。