初子の聖別 2015年7月12日(日曜 夕方の礼拝)

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初子の聖別

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
出エジプト記 13章1節~16節

聖句のアイコン聖書の言葉

13:1 主はモーセに仰せになった。
13:2 「すべての初子を聖別してわたしにささげよ。イスラエルの人々の間で初めに胎を開くものはすべて、人であれ家畜であれ、わたしのものである。」
13:3 モーセは民に言った。「あなたたちは、奴隷の家、エジプトから出たこの日を記念しなさい。主が力強い御手をもって、あなたたちをそこから導き出されたからである。酵母入りのパンを食べてはならない。
13:4 あなたたちはアビブの月のこの日に出発する。
13:5 主が、あなたに与えると先祖に誓われた乳と蜜の流れる土地、カナン人、ヘト人、アモリ人、ヒビ人、エブス人の土地にあなたを導き入れられるとき、あなたはこの月にこの儀式を行わねばならない。
13:6 七日の間、酵母を入れないパンを食べねばならない。七日目には主のための祭りをする。
13:7 酵母を入れないパンを七日の間食べる。あなたのもとに酵母入りのパンがあってはならないし、あなたの領土のどこにも酵母があってはならない。
13:8 あなたはこの日、自分の子供に告げなければならない。『これは、わたしがエジプトから出たとき、主がわたしのために行われたことのゆえである』と。
13:9 あなたは、この言葉を自分の腕と額に付けて記憶のしるしとし、主の教えを口ずさまねばならない。主が力強い御手をもって、あなたをエジプトから導き出されたからである。
13:10 あなたはこの掟を毎年定められたときに守らねばならない。
13:11 主があなたと先祖に誓われたとおり、カナン人の土地にあなたを導き入れ、それをあなたに与えられるとき、
13:12 初めに胎を開くものはすべて、主にささげなければならない。あなたの家畜の初子のうち、雄はすべて主のものである。
13:13 ただし、ろばの初子の場合はすべて、小羊をもって贖わねばならない。もし、贖わない場合は、その首を折らねばならない。あなたの初子のうち、男の子の場合はすべて、贖わねばならない。
13:14 将来、あなたの子供が、『これにはどういう意味があるのですか』と尋ねるときは、こう答えなさい。『主は、力強い御手をもって我々を奴隷の家、エジプトから導き出された。
13:15 ファラオがかたくなで、我々を去らせなかったため、主はエジプトの国中の初子を、人の初子から家畜の初子まで、ことごとく撃たれた。それゆえわたしは、初めに胎を開く雄をすべて主に犠牲としてささげ、また、自分の息子のうち初子は、必ず贖うのである。』
13:16 あなたはこの言葉を腕に付けてしるしとし、額に付けて覚えとしなさい。主が力強い御手をもって、我々をエジプトから導き出されたからである。」出エジプト記 13章1節~16節

原稿のアイコンメッセージ

 前回、私たちは、主がイスラエルの人々を部隊ごとにエジプトの国から導き出されたことを学びました。イスラエルの人々をエジプトから導き出された主はモーセにこう仰せになりました。「すべての初子を聖別してわたしにささげよ。イスラエルの人々の間で初めに胎を開くものはすべて、人であれ家畜であれ、わたしのものである」。新共同訳聖書は、「聖別してわたしにささげよ」と翻訳していますが、元の言葉ですと、「わたしのために聖別せよ」と記されています。ですから、新改訳聖書を見ますと、次のように記されています。「イスラエル人の間で、最初に生まれる初子はすべて、人であれ家畜であれ、わたしのために聖別せよ。それはわたしのものである」。「聖別する」とは、「神様のものとして別つこと」をいいます。

神様は、イスラエルの人々の間で初めに胎を開くものはすべて、人であれ家畜であれ、御自分のものとして別つように命じられます。そのようにして、イスラエルの人々の間で初めに胎を開くすべてのものは、わたしのものであることを主張されるのです。この初子の聖別については、11節以下に詳しく記されておりますので、また後でお話したいと思います。

 2節は、主がモーセに仰せになった言葉でありますが、3節から16節までは、主の言葉を受けたモーセがイスラエルの民に語った言葉であります。モーセは民にこう言いました(3~10節)。

 「あなたたちは、奴隷の家、エジプトから出たこの日を記念しなさい。主が力強い御手をもって、あなたたちをそこから導き出されたからである。酵母入りのパンを食べてはならない。あなたたちはアビブの月のこの日に出発する。

 主が、あなたに与えると先祖に誓われた乳と蜜の流れる土地、カナン人、ヘト人、アモリ人、ヒビ人、エブス人の土地に導き入れられるとき、あなたはこの月にこの儀式を行わねばならない。七日の間、酵母を入れないパンを食べねばならない。七日目には主のための祭りをする。酵母を入れないパンを七日の間食べる。あなたのもとに酵母入りのパンがあってはならないし、あなたの領土のどこにも酵母があってはならない。

 あなたはこの日、自分の子供に告げなければならない。『これは、わたしがエジプトから出たとき、主がわたしのために行われたことのゆえである』と。あなたは、この言葉を自分の腕と額に付けて記憶のしるしとし、主の教えを口ずさまねばならない。主が力強い御手をもって、あなたをエジプトから導き出されたからである。あなたはこの掟を毎年定められたときに守らねばならない。」

 ここには、酵母を入れないパンの祭り、除酵祭について記されています。除酵祭については、エジプトを出る前に、12章15節から20節にも記されておりましたが、モーセは、イスラエルの人々が奴隷の家エジプトから出るまさにその日に、再び、「酵母入りのパンを食べてはならない」と命じるのです。イスラエルの人々は通常、酵母入りのパンを食べていたのでありますが、アビブの月の14日から一週間酵母を除いたパンを食べることによって、主が力強い御手で自分たちをエジプトから導き出されたことを記念したのです。そして、それは主がイスラエルの人々に与えると先祖に誓われた乳と蜜の流れる土地に入っても行わねばならない儀式であるのです。イスラエルの人々は、エジプトを出るとき、ぐずぐずしていることはできず、まだ酵母の入っていないパンの練り粉をこね鉢ごと外套に包み、肩に担ぎました。そして、エジプトを出てからは酵母の入っていないパンを焼いて食べたのです。それゆえ、イスラエルの人々はエジプトからの脱出を記念して、毎年アビブの月の14日から七日間、酵母を入れないパンを食べることが命じられたのです。また、それだけではなく、この儀式の意味を、自分の子供に告げることが命じられたのです。まさに祭り、礼拝は信仰継承の場であるわけです。このことは、聖餐式のことを考えたらよく分かると思います。聖餐にあずかることができるのは、成人洗礼を受けた者と幼児洗礼を受けて信仰告白した者だけであります。つまり、幼児洗礼を受けてもまだ信仰告白していない子供たちは聖餐にあずかることができません。しかし、だからといって、聖餐式から子供たちを排除することはしないわけです。それは、子供たちに、そのことの意味を教えるためであります。裂かれたパンが何を意味し、杯のぶどう酒が何を意味するのかを、司式者の言葉と振る舞いを通して、教えられるわけです。私たちの教会は月に一度、聖餐式を祝っておりますが、そのことによって、自分たちが主イエス・キリストによって罪の奴隷状態から贖い出されたことを記念しているのです。パンとぶどう酒にあずかることによって、「主がわたしのために行われたこと」を記念するのです。それはただ想い起こすということだけではなくて、救いの現在化とも言える出来事であるのです。なぜなら、復活し、今も活きておられるイエス・キリストは、聖霊において、パンとぶどう酒に御臨在してくださるからです。ともかく、除酵祭は、主が力づよい御手をもって、イスラエルの人々をエジプトから導き出されたことを記念するために定められた掟であるのです。

 11節から16節までをお読みします。

 「主があなたと先祖に誓われたとおり、カナン人の土地にあなたを導き入れ、それをあなたに与えられるとき、初めに胎を開くものはすべて、主にささげなければならない。あなたの家畜の初子のうち、雄はすべて主のものである。ただし、ろばの初子の場合はすべて、小羊をもって贖わなければならない。もし、贖わない場合は、その首を折らねばならない。あなたの初子のうち、男の子の場合はすべて、贖わねばならない。将来、あなたの子供が、『これはどういう意味があるのですか』と尋ねるときは、こう答えなさい。『主は力強い御手をもって我々を奴隷の家、エジプトから導き出された。ファラオがかたくなで、我々を去らせなかったため、主はエジプトの国中の初子を、人の初子から家畜の初子まで、ことごとく撃たれた。それゆえわたしは、初めに胎を開く雄をすべて主に犠牲としてささげ、また、自分の息子のうち初子は、必ず贖うのである』。あなたはこの言葉を腕に付けてしるしとし、額に付けて覚えとしなさい。主が力強い御手をもって、我々をエジプトから導き出されたからである。」

 2節に、「すべての初子をわたしのために聖別せよ」という主の御言葉が記されておりましたが、11節から16節には、そのことが詳しく記されています。

まず、心を向けたいのは、なぜ、主は「すべての初子をわたしのために聖別せよ」と言われるのか、また、「イスラエルの人々の間で初めに胎を開くものはすべてわたしのものである」と言われるのかということであります。その根拠については、親と子供との問答を通して知ることができます。14節、15節にこう記されています。「将来、あなたの子供が、『これにはどういう意味があるのですか』と尋ねるときは、こう答えなさい。『主は、力強い御手をもって我々を奴隷の家、エジプトから導き出された。ファラオがかたくなで、我々を去らせなかったため、主はエジプトの国中の初子を、人の初子から家畜の初子まで、ことごとく撃たれた。それゆえわたしは、初めに胎を開く雄をすべて主に犠牲としてささげ、また、自分の息子のうち初子は、必ず贖うのである。』」。このように、すべての初子を主のために聖別することは、主がエジプトのすべての初子を撃ったことに由来するのです。主はアビブの月の十四日の真夜中に、エジプトの国を行き巡り、人であれ、家畜であれ、すべての初子を撃ちました。しかし、イスラエルの初子は人であれ、家畜であれ、撃たれることはありませんでした。そのようにして、主は御自分の裁きからイスラエルの人々を救われたのです。そして、そのことを記念するために、主はすべての初子を御自分のために聖別することを命じられたのであります。また、イスラエルの人々はそのことを記念するために、初めに胎を開く家畜の雄の初子を主に犠牲としてささげ、自分の息子のうち初子は必ず贖うのです。「贖う」とは、「ほかのものを身代わりとする」ということであります。自分の息子をほふっていけにえとしてささげるかわりに、家畜をほふってささげることをしたのです(創世22章参照)。そのようにイスラエルの人々は、主が力強い御手をもって自分たちを奴隷の家エジプトから導き出されたことを記念したのです。

 16節に、「あなたはこの言葉を腕に付けてしるしとし、額に付けて覚えとしなさい」と記されております。これと同じことが、9節にも記されておりました。このことは、除酵祭を祝うことと、初子を主のために聖別することが、イスラエルの民にとって忘れてはならない大切なことであることを教えています。そのことは、もし、除酵祭が祝われず、初子がささげられなくなったら、どうなるだろうか?ということを考えるとよくお分かりいただけると思います。もし、この二つが行われなくなったら、主が力強い御手をもって自分たちを奴隷の家から導き出されたことが忘れられてしまうのです。そうならないために、主は、酵母を入れないパンを七日間食べることを命じ、すべての初子を御自分のために聖別することを命じられたのであります。そのようにして、イスラエルの人々が出エジプトの出来事を、追体験できるようになされたのです。また、子供にその意味を告げることによって、出エジプトの出来事が世代を超えて受け継がれるようにされたのです。

 主は、「すべての初子をわたしのために聖別せよ」と言われましたが、「初子を聖別する」とは、それによって、その後に生まれるすべての子供を聖別するということであります。今夕の御言葉に、「あなたの初子のうち、男の子の場合はすべて、贖わねばならない」とありますが、実は、何をもって贖えばよいのかが記されておりません。おそらく、家畜であったと思いますけれども、民数記の18章16節を見ますと、銀5シェケルを贖い金として支払うことが定められています。これは旧約の時代のことでありますが、新約の時代に生きる私たちは、どのような贖いの代価によって、聖別されたのでしょうか?それは、神の御子であるイエス・キリストの命によってであります。マタイによる福音書の20章28節で、イエス様はこう仰せになりました。「人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命をささげるために来たのと同じように」。ここで「身代金」と訳されている言葉は、「贖いの代価」とも訳すことができます(新改訳参照)。イエス様は、十字架にかかり、死んでくださることによって、私たちの贖いの代価となってくださいました。それゆえ、私たちは、イエス・キリストにあって聖なる者、神の民となることができたのです。使徒パウロが、「あなたがたは代価を払って買い取られたのです」と言っているように、神様は御子イエス・キリストの命をもって、私たちを聖別し、御自分の民としてくださったのです(一コリント6:20参照)。イエス・キリストにあって神のものとされた私たちは、イエス・キリストのものでもあります。そして、ハイデルベルク信仰問答は、このことが、生きるにも死ぬにも唯一の慰めであると告白しているのです。今夕は、そのところを読んで終わりたいと思います。ハイデルベルク信仰問答の「問1 生きるにも死ぬにも、あなたのただ一つの慰めは何ですか」。「答 わたしがわたし自身のものではなく、体も魂も、生きるにも死ぬにも、わたしの真実な救い主イエス・キリストのものであることです。この方は御自分の尊い血をもってわたしのすべての罪を償い、悪魔のあらゆる力からわたしを解放してくださいました。また、天にいますわたしの父の御旨でなければ髪の毛一本も落ちることができないほどに、わたしを守っていてくださいます。実に万事がわたしの救いのために働くのです。そしてまた、御自身の聖霊によりわたしに永遠の命を保証し、今から後この方のために生きることを心から喜びまたそれにふさわしくなるように、整えてもくださるのです」。

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