心配するな
- 日付
- 説教
- 村田寿和 牧師
- 聖書 マタイによる福音書 6章31節~34節
6:31 だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。
6:32 それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。
6:33 何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。
6:34 だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」マタイによる福音書 6章31節~34節
序.
今年もすでに9月に入っておりますが、今朝の御言葉には、私たちの教会の年間聖句が記されております。週報の表紙に記されているように、今年2013年の年間テーマは「礼拝を第一として歩む」、年間聖句は、「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」。マタイによる福音書6章33節であります。今朝の御言葉に、私たちの教会の年間聖句が含まれていることを心に留めて、今朝は31節から34節までをご一緒に学びたいと願います。
1.キリスト者と異邦人の違い
イエスさまは31節、32節で次のように言われます。
だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。
イエスさまは、この御言葉をご自分の弟子たちに、御自分にあって神の子とされた者たちに語っておられます。イエスさまは、25節でも、「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな」と言われておりましたが、ここでも同じことを繰り返し語っておられます。それほど、私たちは、「何を食べようか」「何を飲もうか」「何を着ようか」と言って、思い悩んでしまう者たちであるのです。しかし、そのような私たちに、イエスさまは、「それはみな、異邦人が切に求めているものだ」と言われるのです。「異邦人」とは、まことの神を知らないイスラエル以外の民族のことでありますが、ここでは、イエス・キリストを信じてない人々のことを指しております。私たちが、「何を食べようか」「何を飲もうか」「何を着ようか」と思い悩み、これらを切に求めているならば、私たちは、イエス・キリストを信じていない人々と何ら変わるところがないのです。イエス・キリストを信じていない人々が、「何を食べようか」「何を飲もうか」「何を着ようか」と思い悩み、これらを切に求めるのは、考えてみると当然であると言えます。なぜなら、イエス・キリストを信じていない人々は、天地を造られた全能の父である神さまを信じていないからです。イエス・キリストを信じていない人々は、神さまが自分の命や体を賜物として与えてくださったことを知りません。また、天の父が、種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない鳥を養ってくださることを知りません。また、神さまが自分の死ぬ時をも定めてくださっていることを知りません。また、神さまが、働きもせず、紡ぎもしない野の花を美しく装ってくださることを知らないのです。イエスさまは、30節の終わりで、思い煩う弟子たちに「信仰の薄い者たちよ」と言われましたが、イエス・キリストを信じていない人々は、薄い信仰さえも持っていないのです。イエス・キリストを信じる私たちには、「アッバ、父よ」と叫ぶ御子の霊、聖霊が与えられております。私たちには、神さまを「アッバ、父よ」と呼び、信頼する心が与えられているのです。しかし、イエス・キリストを信じていない人々には、聖霊が与えられていないので、彼らは神さまを認めることも、神さまを父として信頼することもできないのです。言い換えれば、イエス・キリストを信じていない人々は、天の父を持たない孤児、みなしごのような存在であるのです。それゆえ、イエス・キリストを信じていない人々は、「何を食べようか」「何を飲もうか」「何を着ようか」と思い悩み、これらのものを切に求めざるを得ないのです。しかし、イエスさまは、「あなたがたには、天の父がおられる」と、そして、「天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである」と言われるのです。イエス・キリストを信じる私たちは、この天の父の好意と配慮に信頼して、安心して、この地上を歩んで行くことができるのです。そして、ここにイエス・キリストを信じていない人々と、イエス・キリストを信じている私たちとの違いがあるのです。
2.キリスト者が求める優先順位
イエスさまは33節で次のように言われます。
何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。
ここで、イエスさまは、私たちキリスト者が何を第一に求めるべきか、その優先順位を教えておられます。イエス・キリストを信じていない人々が、食べ物や飲み物や衣服を切に求めるのに対して、イエス・キリストを信じ、天の父の子とされている私たちは、神の国と神の義を第一に求めるべきであるのです。「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい」。このイエスさまの御言葉は、どこかつかみどころのない、抽象的な印象を受けます。食べ物や飲み物や衣服を求めることは具体的で分かりやすいのですが、神の国と神の義を求めることは抽象的で分かりづらい印象を受けます。ですから、まず、言葉の意味から考えてみたいと思います。「神の国」と訳されている言葉をもう少し丁寧に訳すと「神の王国」「神の王的支配」となります。イエスさまは、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言って、宣べ伝え始められましたが、「天の国」とは「神の国」のことです。イエスさまは、御自分において、「神の国」がこの地上に到来したことを宣べ伝え始められたのです(4:17、11:28参照)。神の国について教えている大切な御言葉は、ルカによる福音書第17章20節、21節であります。そのところを読みたいと思います。新約の143ページです。
ファリサイ派の人々が、神の国はいつ来るのかと尋ねたので、イエスは答えて言われた。「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものではない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」
私たちが、国と聞いて、はじめに思い浮かべるのは、領土のことです。しかし、神の国は特定の領土をもっていない。ここからあそこまでが、神の国であるといった境界線があるわけでもない。神の国は、イエス・キリストを信じているあなたがたの間にある、とイエスさまは言われるのです。神の国は、神の王国、神の王的支配であると申しましたが、神の王的支配に従う人々の間に、神の王国は来ているのです。私たちは、イエス・キリストの名によって集まり、神さまを全世界の王として礼拝しております。ですから、私たちの間にも神の国は来ているのです。教会だけではありません。家庭で、学校で、職場で、私たちが神の王的支配に従うところに、神の国は来ているのです。それゆえ、神の国を求めるとは、神さまの王的支配に従うことを求めることであるのです。
では、今朝の御言葉に戻ります。新約の11ページです。
神の国は、神の王国であり、神の王的支配であること。神の王的支配に従うところに神の王国は来ていることをお話ししました。次に「神の義」について見て行きたいと思います。「神の義」とは、「神の正しさ」のことであります。人間は自分の都合のようい正義を振りかざして争いを起こすのでありますが、本当の正義は、人間の正義ではなく、神さまの正義、神さまの正しさであります。神さまの正しさを求めるとは、どういうことでしょうか?それは、神さまの正しい御心がなることを求めるということであります。神さまの正しい御心を私たちがそれぞれの生活において実現していくこと、それが神の義を求めるということです。このように見てきますと、神の国と神の義は、一体的な関係にあることが分かります。神の国は神さまの正しい御心が行われる人たちの間に到来しているからです。イエスさまは、私たちに、「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい」と言われましたが、それは言い換えれば、「神さまの王的支配に従い、神さまの正しい御心を実現することを第一に求めなさい」ということであるのです。そして、このことは、イエスさまが、主の祈りにおいて教えてくださったことでもありました。同じ第6章7節から13節までをお読みします。新約の9ページです。
また、あなたがたが祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる。彼らのまねをしてはならない。あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。だから、こう祈りなさい。『天におられるわたしたちの父よ、御名が崇められますように。御国が来ますように。御心が行われますように、天におけるように地の上にも。わたしたちに必要な糧を今日与えてください。わたしたちの負い目を赦してください、わたしたちも自分の負い目のある人を赦しましたように。わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください。』
「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい」というイエスさまの御言葉は、主の祈りの第二の祈願である「御国が来ますように」と第三の祈願である「御心が行われますように、天におけるように地の上にも」と対応していることに気づかれると思います。主の祈りは全部で六つの祈願からなっており、前半の三つが天の父のための祈りであり、後半の三つが私たちのための祈りであると言うことができます。イエスさまは、私たちに、まず天の父のために祈ることを教えてくださいました。そして、今朝の御言葉でも、イエスさまは、私たちに、「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい」と言われるのです。
では、今朝の御言葉に戻ります。新約の11ページです。
イエスさまは、「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい」と言われた後で、「そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」と言われました。これは、神の永遠の御子であるイエスさまの約束であり、イエスさまの口を通して語られた天の父の約束であります。天の父の王的支配に従い、天の父の正しい御心を行うことを第一に求めるとき、天の父は、私たちに必要な食べ物や飲み物や衣服を与えてくださるのです(詩37:25参照)。ちょうど、主の祈りにおいて、天の父のための祈りの後に、私たちのための祈りが続くように、天の父は、何よりもまず神の国と神の義を求める私たちに、必要な糧を今日与えてくださるのです。そのようにして、私たちは、天の父の御手によって、養われ、装われるのです。
3.将来についての思い悩みからの解放
イエスさまは34節で次のように言われます。
だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。
ここで、イエスさまは、明日のこと、将来のことを取り上げておられます。「だから、明日のことまで思い悩むな」。このイエスさまの御言葉は、私たちが心に刻んでおくべき言葉であると思います。それほど、私たちは、明日のことで、将来のことで思い悩む者たちであるからです。私たちは、今日という日にしか生きられないにもかかわらず、どれほど、今日という日に明日のこと、将来のことを思い煩うことでしょうか?今日のことで、思い煩うことはあまりないかも知れません。しかし、1年先、5年先、10年先のことを考えて、私たちは思い煩うのです。それこそ、いろいろと考え苦しむのであります。しかし、イエスさまは、「明日のことまで思い悩むな」と言われるのです。「将来のことをいろいろ考えて苦しむのは止めなさい」と言われるのです。誤解のないように申しますが、ここでイエスさまは、将来の計画を立てることや、予想される危険を回避するための備えをすることを禁じておられるわけではありません。イエスさまが禁じておられることは、今日という日に、明日のことを思い悩むことであります。私たちは、明日の苦労を今日という日に背負いこもうとするのですが、イエスさまは、「明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である」と言われます。これは言い換えれば、今日という日の苦労をしっかりと受け止めて、今日という日を精一杯生きなさい」ということであります。何よりもまず神の国と神の義を求めて、今日という日を精一杯生きること、それが今朝の御言葉で、イエスさまが私たちに求めておられることであるのです。
この34節のイエスさまの御言葉は、当時の知恵の言葉にも似ていると言われます。当時の律法学者の言葉として、次のようなものが伝えられています。「明日のことを心配するな。その日に何が起こるか、お前には分からないからである。あるいはお前は明日生きていないかもしれない。そうすればお前は自分のいない世界のことを心配していることになる」。このような律法学者の言葉とイエスさまの御言葉が比べられることがあるのです。しかし、イエスさまの御言葉が、単なる知恵の言葉でないことは明らかであります。なぜなら、イエスさまは、今日も、明日も、いつまでも、私たちと共にいてくださるお方であるからです。ただ、私たちと共にいてくださるだけではなくて、私たちの苦労を共に担ってくださるお方であるのです。私たちが明日のことまで思い悩まなくてよいのは、今日、私たちと共におられるイエスさまが、明日も私たちと共にいてくださるからです。そのイエスさまの御言葉として、私たちは、「その日の苦労は、その日だけで十分である」というイエスさまの御言葉を読み、また聞くのです。そのとき、このイエスさまの御言葉は、私たちの苦労をいたわり、慰める言葉として、私たちの心に響いて来るのではないでしょうか?私たちは、明日何が起こるか分かりません。ですから、思い悩むなと言われても、思い悩んでしまうのです。しかし、今日、私たちと共にいてくださるイエスさまが、明日も私たちと共にいてくださることを信じるとき、私たちは将来への思い悩みから解放されるのです。イエスさまが私たちと共にいてくださることを体験できるところ、それが主の日の礼拝であります(18:20参照)。今年の年間テーマは、「礼拝を第一として生きる」でありますが、礼拝を第一として歩むとき、私たちは将来についての思い煩いからも解放されるのです。