善いことを見倣う 2020年1月19日(日曜 夕方の礼拝)
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- 村田寿和 牧師
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ヨハネの手紙三 1章1節~15節
聖書の言葉
1:1 長老のわたしから、愛するガイオへ。わたしは、あなたを真に愛しています。
1:2 愛する者よ、あなたの魂が恵まれているように、あなたがすべての面で恵まれ、健康であるようにと祈っています。
1:3 兄弟たちが来ては、あなたが真理に歩んでいることを証ししてくれるので、わたしは非常に喜んでいます。実際、あなたは真理に歩んでいるのです。
1:4 自分の子供たちが真理に歩んでいると聞くほど、うれしいことはありません。
1:5 愛する者よ、あなたは、兄弟たち、それも、よそから来た人たちのために誠意をもって尽くしています。
1:6 彼らは教会であなたの愛を証ししました。どうか、神に喜ばれるように、彼らを送り出してください。
1:7 この人たちは、御名のために旅に出た人で、異邦人からは何ももらっていません。
1:8 だから、わたしたちはこのような人たちを助けるべきです。そうすれば、真理のために共に働く者となるのです。
1:9 わたしは教会に少しばかり書き送りました。ところが、指導者になりたがっているディオトレフェスは、わたしたちを受け入れません。
1:10 だから、そちらに行ったとき、彼のしていることを指摘しようと思います。彼は、悪意に満ちた言葉でわたしたちをそしるばかりか、兄弟たちを受け入れず、受け入れようとする人たちの邪魔をし、教会から追い出しています。
1:11 愛する者よ、悪いことではなく、善いことを見倣ってください。善を行う者は神に属する人であり、悪を行う者は、神を見たことのない人です。
1:12 デメトリオについては、あらゆる人と真理そのものの証しがあります。わたしたちもまた証しします。そして、あなたは、わたしたちの証しが真実であることを知っています。
1:13 あなたに書くことはまだいろいろありますが、インクとペンで書こうとは思いません。
1:14 それよりも、近いうちにお目にかかって親しく話し合いたいものです。
1:15 あなたに平和があるように。友人たちがよろしくと言っています。そちらの友人一人一人に、よろしく伝えてください。ヨハネの手紙三 1章1節~15節
メッセージ
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序
前回(12月8日)は、ヨハネの手紙二をご一緒に学びました。今夕は、ヨハネの手紙三から御言葉の恵みにあずかりたいと願います。
1 愛するガイオへ
1節をお読みします。
長老のわたしから、愛するガイオへ。わたしはあなたを真に愛しています。
この手紙の差出人は「長老のわたし」ですが、この長老は「使徒ヨハネ」であると考えられています。また、この手紙の受取人は「愛するガイオ」であります。ヨハネの手紙三は、個人宛の手紙であるのです。伝承によれば、ヨハネは晩年をエフェソで過ごしました。ですから、ガイオは小アジアにある教会の指導者的な立場にあったようです。ヨハネは、ガイオを愛していること、自分の愛がイエス・キリストにある愛であると記します。前回も申しましたように、「わたしは、あなたを真(しん)に愛しています」の「真(しん)に」は「真理にあって」と記されています。ヨハネの文書において、「真理」とは、「イエス・キリスト」のことです(ヨハネ14:6「わたしは道であり、真理であり、命である」参照)。ですから、ヨハネは「わたしは、あなたをイエス・キリストにあって愛している」とここで記しているのです。
2 あなたの魂が恵まれているように
2節をお読みします。
愛する者よ、あなたの魂が恵まれているように、あなたがすべての面で恵まれ、健康であるようにと祈っています。
「あなたがすべての面で恵まれ、健康であるようにと祈っています」という言葉は、当時の一般の手紙においても用いられていました。ヨハネは、その前に、「あなたの魂が恵まれているように」と付け加えることによって、キリスト者同士の言葉としているのです。それは、私たちが「健康が守られますように」という祈りに「信仰」を加えて、「信仰と健康が守られますように」と祈るのと似ています。ヨハネは、ガイオが魂において恵まれ、すべての面で恵まれ、健康であるようにと祈っているのです。ヨハネは、このような祈りを、挨拶の言葉の代わりとしているのです。
3 この上ない喜び
3節と4節をお読みします。
兄弟たちが来ては、あなたが真理に歩んでいることを証ししてくれるので、わたしは非常に喜んでいます。実際、あなたは真理に歩んでいるのです。自分の子供たちが真理に歩んでいると聞くほど、うれしいことはありません。
エフェソにいるヨハネのもとには、兄弟たちが出入りをしていました。この手紙は紀元90年頃に記されたと考えられていますが、ヨハネは80歳ぐらいであったと考えれます。ヨハネはまさしく長老(年配者)であり、小アジアにあるいくつかの教会を監督し、牧会をしていたのです。この兄弟たちは、どうやらガイオの家に迎え入れられた巡回宣教者であったようです。彼らは、ガイオが真理に歩んでいること、すなわち、イエス・キリストに結ばれて歩んでいることをヨハネに証ししました。その証しを聞いて、ヨハネは、教会を監督し、牧会する者として、非常に喜んでいるのです。4節に「自分の子供たち」とありますが、これは「教会の信徒たち」のことです。牧師にとって、教会の信徒たちがイエス・キリストに結ばれて歩んでいる姿を見ることは、このうえない喜びであるのですね。
4 真理のために共に働く者
5節から8節までをお読みします。
愛する者よ、あなたは、兄弟たち、それもよそから来た人たちのために誠意をもって尽くしています。彼らは教会であなたの愛を証ししました。どうか、神に喜ばれるように、彼らを送り出してください。この人たちは、御名のために旅に出た人で、異邦人からは何ももらっていません。だから、わたしたちはこのような人たちを助けるべきです。そうすれば、真理のために共に働く者となるのです。
「旅人をもてなすこと」は、キリスト者としての善い行いでありました(ローマ12:13、ヘブライ13:2参照)。ガイオはそのことに熱心であったのです。当時は、家の教会であり、巡回宣教者によって福音が宣べ伝えられていました。ガイオは、よその土地から来た巡回宣教者に誠意をもって尽くしたのです。その巡回宣教者たちが、ヨハネの教会でガイオの愛を証ししたのです。ここでの「愛」は、宿や食事を提供するという具体的な行為のことです。ヨハネは、「どうか、神に喜ばれるように、彼らを送り出してください」と記します。これは、旅に必要なものを持たせて、送り出すということでしょう。なぜなら、この人たちは、イエス・キリストのために旅に出た人で、異邦人からは何ももらっていないからです。ここでの「異邦人」は、イエス・キリストを信じたばかりの異邦人のことです。巡回宣教者たちは、イエス・キリストを信じたばかりの異邦人から何ももらっていませんでした。そのことは、パウロのことを考えたら分かりやすいと思います。パウロは、テサロニケにおいても、また、コリントにおいても、福音を宣べ伝える対価として、報酬を受け取りませんでした。それは、お金が目当てで福音を宣べ伝えていると誤解されたくなかったからです。けれども、パウロは、フィリピの教会からの援助は喜んで受け取ったのです。パウロは、生まれたばかりの教会からは何ももらいませんでしたが、成熟した教会からは援助を受け取ったのです。そのようにして、福音を宣べ伝える恵みを共有したのですね。このことを、現代の私たちに当てはめますと、牧師と牧師の働きを支える教会員の関係に当てはめることができると思います。牧師だけがイエス・キリストのために働いているわけではありません。牧師の生活を祈りと献金によって支えている教会員も、真理のために共に働く者であるのです。
5 指導者になりたがっているディオトレフェス
9節と10節をお読みします。
わたしは教会に少しばかり書き送りました。ところが、指導者になりたがっているディオトレフェスは、わたしたちを受け入れません。だから、そちらに行ったとき、彼のしていることを指摘しようと思います。彼は、悪意に満ちた言葉でわたしたちをそしるばかりか、兄弟たちを受け入れず、受け入れようとする人たちの邪魔をし、教会から追い出しています。
「ディオトレフェス」については、その名前が異邦人の名前であることしか分かりません。ディオトレフェスは異邦人でイエス・キリストを信じた異邦人キリスト者であったのです。彼は指導者になりたがっている人物で、ヨハネを受け入れませんでした。「わたしは教会に少しばかり書き送りました」とある手紙は、おそらくディオトレフェスによって処分されてしまったのでしょう。それで、ヨハネは、直接、教会に行こうとしているのです。ディオトレフェスは、悪意に満ちた言葉でヨハネたちを非難し、兄弟たちを受け入れず、受け入れようとする人たちの邪魔をし、教会から追い出していたのです。ガイオが巡回宣教者を受け入れていたのに対して、ディオトレフェスは巡回宣教者を受け入れず、受け入れる人をも教会から追い出していたのです。そのようにして、彼はヨハネたちを受け入れなかったのです。このことは、教会の中の権力争いというレベルではなく、キリストの教会として立つか、倒れるかの大問題であります。なぜなら、ヨハネはイエス・キリストの十字架と復活の証人であるからです。ヨハネを受け入れないということは、ヨハネの教えをも受け入れないということです。それは、ヨハネを遣わされたイエスさまを受け入れないということでもあるのです(ヨハネ13:20「はっきり言っておく。わたしの遣わす者を受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである」参照)。
6 善いことを見倣う
11節と12節をお読みします。
愛する者よ、悪いことではなく、善いことを見倣ってください。善を行う者は神に属する人であり、悪を行う者は、神を見たことのない人です。デメトリオについては、あらゆる人と真理そのものの証しがあります。わたしたちもまた証しします。そして、あなたは、わたしたちの証しが真実であることを知っています。
ヨハネは、「悪を行う者は、神を見たことのない人です」と記していますが、これは「指導者になりたがっているディオトレフェス」を指しているようです。兄弟を受け入れないで、兄弟愛を実行していないディオトレフェスは、神さまとは何の関わりもない者であるとヨハネは記すのです。それに対して、「善を行う者は神に属する人」は12節の「デメトリオ」を指しているようです。この手紙は、デメトリオによって運ばれたようです。デメトリオは、ディオトレフェスに対抗する者としてヨハネのもとから遣わされたのでしょう。ヨハネは、ガイオに、ディオトレフェスではなく、デメトリオを見倣うように記すのです。
デメトリオが善を行う者であり、神に属する人であることは、あらゆる人の証しがあります。また、真理そのものの証しがあります。イエス・キリストが証ししてくださると言うのです。さらに、ヨハネたちも証しするのです。ガイオは、ヨハネたちの証しが真実であることを知っています。なぜなら、ガイオは、ヨハネたちの証しによって、主イエス・キリストを信じたからです(ヨハネ19:34、35「しかし、兵士の一人が槍でイエスのわき腹を刺した。すると、すぐ血と水とが流れ出た。それを目撃した者が証ししており、その証しは真実である。その者は、あなたがたにも信じさせるために、自分が真実を語っていることを知っている」参照)。
7 あなたに平和があるように
13節から15節までをお読みします。
あなたに書くことはまだいろいろありますが、インクとペンで書こうとは思いません。それよりも、近いうちにお目にかかって親しく話し合いたいものです。あなたに平和があるように。友人たちがよろしくと言っています。そちらの友人一人一人に、よろしく伝えてください。
ヨハネはガイオに、「あなたに平和があるように」と挨拶を記します。この挨拶は、復活されたイエスさまが弟子たちにされたものでありました。復活されたイエスさまは、ユダヤ人を恐れて家にこもっていた弟子たちに、「あなたがたに平和があるように」と言われたのです(ヨハネ20:19,20,26参照)。そのようにして、弟子たちの心に平和をもたらしてくださったのです。また、「友人たち」とありますが、これも、イエスさまの御言葉を思い起こさせます。イエスさまは、「わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。・・・わたしはあなたがたを友と呼ぶ」と言われました(ヨハネ15:15参照)。「そちらの友人一人一人に、よろしく伝えてください」とありますが、ヨハネは友人たち一人一人の名前を呼んで、挨拶するよう願っているのです(聖書協会共同訳「そちらの友人たちに名を呼んでよろしく伝えてください」参照)。イエスさまは、「羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す」と言われました(ヨハネ10:3)。そのように、ヨハネは教会を監督し、牧する者として、イエスさまを信じる友人たち一人一人の名を呼んで挨拶することを願うのです。