ひとたび伝えられた信仰のために戦う 2020年2月09日(日曜 夕方の礼拝)
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ひとたび伝えられた信仰のために戦う
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- 村田寿和 牧師
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ユダの手紙 1章1節~7節
聖書の言葉
1:1 イエス・キリストの僕で、ヤコブの兄弟であるユダから、父である神に愛され、イエス・キリストに守られている召された人たちへ。
1:2 憐れみと平和と愛が、あなたがたにますます豊かに与えられるように。
1:3 愛する人たち、わたしたちが共にあずかる救いについて書き送りたいと、ひたすら願っておりました。あなたがたに手紙を書いて、聖なる者たちに一度伝えられた信仰のために戦うことを、勧めなければならないと思ったからです。
1:4 なぜなら、ある者たち、つまり、次のような裁きを受けると昔から書かれている不信心な者たちが、ひそかに紛れ込んで来て、わたしたちの神の恵みをみだらな楽しみに変え、また、唯一の支配者であり、わたしたちの主であるイエス・キリストを否定しているからです。
1:5 あなたがたは万事心得ていますが、思い出してほしい。主は民を一度エジプトの地から救い出し、その後、信じなかった者たちを滅ぼされたのです。
1:6 一方、自分の領分を守らないで、その住まいを見捨ててしまった天使たちを、大いなる日の裁きのために、永遠の鎖で縛り、暗闇の中に閉じ込められました。
1:7 ソドムやゴモラ、またその周辺の町は、この天使たちと同じく、みだらな行いにふけり、不自然な肉の欲の満足を追い求めたので、永遠の火の刑罰を受け、見せしめにされています。ユダの手紙 1章1節~7節
メッセージ
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序
夕べの礼拝では、ユダの手紙を3回に分けて、学びたいと思います。今夕は、1節から7節より御言葉の恵みにあずかりたいと願います。
1 挨拶(1〜2節)
1節と2節をお読みします。
イエス・キリストの僕で、ヤコブの兄弟であるユダから、父である神に愛され、イエス・キリストに守られている召された人たちへ。憐れみと平和と愛が、あなたがたにますます豊かに与えられるように。
ここには、この手紙の差出人と受取人と挨拶の言葉が記されています。この手紙の差出人は、「イエス・キリストの僕で、ヤコブの兄弟であるユダ」であります。このユダは、イエスさまの弟のユダであると考えられています。『マタイによる福音書』の第13章に、イエスさまが「ナザレで受け入れられない」お話が記されています。そこで、ナザレの人々はこう言うのです。「この人は大工の息子ではないか。母親はマリアといい、兄弟はヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではないか」(マタイ13:55)。イエスさまは聖霊によって処女(おとめ)マリアからお生まれになりました。その後に、マリアは夫ヨセフとの間に、ヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダという四人の男の子を産んだのです。イエスさまとヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダの四人は、マリアを母とする兄弟であるのです。しかし、ユダは、自分のことを、「イエス・キリストの兄弟」とは記さずに、「イエス・キリストの僕」と記しています。「ヤコブの兄弟」とは記しても、「イエス・キリストの兄弟」とは記さないのです。それは、畏れ多いことだと考えたのでしょう(ヤコブ1:1「神と主イエス・キリストの僕であるヤコブ」参照)。それで、ユダは、自分のことを「イエス・キリストの僕で、ヤコブの兄弟であるユダ」と記したのです。
次に、この手紙の受取人ですが、この手紙の受取人は、「父である神に愛され、イエス・キリストに守られている召された人たちへ」であります。ここに、地名は記されていませんが、教会に宛てて記された手紙であることは明らかです。ここに、私たちキリスト者がどのような者であるのかが簡潔に言い表されています。私たちは、父である神に愛され、イエス・キリストによって守られている召された者たちであるのです。ですから、この手紙は、まさに私たちに宛てて記されているのです。
2節は、挨拶の言葉です。「憐れみと平和と愛が、あなたがたにますます豊かに与えられるように」。ユダは、「憐れみと平和と愛」と三つ一組で記しています。ユダは、受取人についても「愛され、守られ、召されている人」と三つ一組で記していました。これは記憶するための修辞法(レトリック)であります。神さまに愛され、イエス・キリストに守られ、召されている私たちに対して、ユダは「憐れみと平和と愛が、あなたにがたにますます豊かに与えられるように」と記すのです。ユダは、私たちに神さまの憐れみと平和と愛が与えられていることを前提にして、それらが満ちあふれるようにと祈るのです(パウロの挨拶、例えばローマ1:7「わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように」との比較)。
2 ひとたび伝えられた信仰のために戦う(3〜4節)
3節をお読みします。
愛する人たち、わたしたちが共にあずかる救いについて書き送りたいと、ひたすら願っておりました。あなたがたに手紙を書いて、聖なる者たちに一度伝えられた信仰のために戦うことを、勧めなければならないと思ったからです。
この新共同訳聖書の翻訳を読みますと、この手紙が、ユダが書きたいとひたすら願っていた救いについての手紙であるように読めます。けれども、新改訳聖書の翻訳では、別の手紙であるように記されています。新改訳2017では、3節を次のように翻訳しています。「愛する者たち。私たちがともにあずかっている救いについて、私はあなたがたに手紙を書こうと心から願っていましたが、聖徒たちにひとたび伝えられた信仰のために戦うよう、あなたがたに勧める必要が生じました」。わたしは、新改訳の翻訳の方がよいのではないかと思います。と言いますのも、この手紙は、私たちが共にあずかっている救いについてほとんど記していないからです。ユダは、共にあずかっている救いについて書き送りたいと願っていました。しかし、必要が生じて、急遽この手紙を書き送ったのです。
ユダは、この手紙を「聖なる者たちに一度(ひとたび)伝えられた信仰のために戦うことを、勧め」るために書き送りました。「一度(ひとたび)伝えられた信仰」については、使徒パウロが『コリントの信徒への手紙一』の第15章に記しています。新約の320ページです。第一コリント書の第15章1節から5節までをお読みします。
兄弟たち、わたしがあなたがたに告げ知らせた福音を、ここでもう一度知らせます。これは、あなたがたが受け入れ、生活のよりどころとしている福音にほかなりません。どんな言葉でわたしが福音を告げ知らせたか、しっかり覚えていれば、あなたがたは、この福音によって救われます。さもないと、あなたがたが信じたこと自体が、無駄になってしまうでしょう。最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後十二人に現れたことです。
この一度(ひとたび)伝えられた福音を信じる信仰のために戦うことを勧めるために、ユダは手紙を書き送ったのです。
今夕の御言葉に戻ります。新約の450ページです。
ユダは、この手紙を「聖なる者たちに一度(ひとたび)伝えられた信仰のために戦うことを、勧め」るために記しました。この「一度(ひとたび)」は、イエス・キリストの出来事において、ただ一度ということです。『ヘブライ人への手紙』が記しているように、「神は、かつて預言者たちによって、多くのかたちで、また多くの仕方で先祖に語られたが、この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました」(ヘブライ1:1)。御子イエス・キリストにおいて、神さまの恵みと真理は現れたのです(ヨハネ1:17参照)。パウロがコリントの教会に伝えた福音の内容も、イエス・キリストの出来事(十字架と復活)でありました(一コリント15:3〜5参照)。救いをもたらす信仰(福音)は、ただ一度(いちど)、イエス・キリストにおいて現れたのです。そして、その信仰を教会は伝え、また受けてきたわけです。「一度(ひとたび)伝えられた信仰」の「伝えられた」は、パウロが第一コリント書の第15章でも用いていた、伝承の継承を表す専門用語(テクニカルターム)です(一コリント15:3「最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです」参照)。私たちも、イエス・キリストの出来事において一度(いちど)で、完全に表された福音を受けた者として、その信仰のために戦うことが求められているのです。信仰のために戦うとは、一度(ひとたび)伝えられた福音にとどまり続けることです。
4節をお読みします。
なぜなら、ある者たち、つまり、次のような裁きを受けると昔から書かれている不信心な者たちが、ひそかに紛れ込んで来て、わたしたちの神の恵みをみだらな楽しみに変え、また、唯一の支配者であり、わたしたちの主であるイエス・キリストを否定しているからです。
なぜ、ユダは、聖なる者たちに一度(ひとたび)伝えられた信仰のために戦うことを勧める手紙を、急遽、書かねばならなかったのか。それは、教会に、不信心な者たちがひそかに紛れ込んで来たからです。「不信心な者たち」を、新改訳聖書は「不敬虔な者たち」と翻訳しています(敬虔は「かしこまって、深くうやまうさま」の意)。彼らは、「ひそかに紛れ込んで来た」とありますから、巡回教師であったようです(小見出し「偽教師についての警告」参照)。偽教師たちは、「わたしたちの神の恵みをみだらな楽しみに変え」ておりました。このところを、新しい翻訳聖書、聖書協会共同訳では、「私たちの神の恵みを放縦な生活に変え」と翻訳しています。偽教師たちは、自由と放縦(「何の節度もなく気ままにふるまうこと」の意)を履き違えて、みだらな行いをしていたのです。そのような放縦な生活によって、彼らは唯一の支配者であり、私たちの主であるイエス・キリストを否定していたのです(テトス1:16参照)。彼らは、唯一の支配者であり、私たちの主であるイエス・キリストではなく、自分の欲望に仕えていたのです(フィリピ3:19参照)。ユダは、そのような者たちが裁きを受けることは、昔から書かれていると記します。ユダは、教会に紛れ込んできた偽教師たちを、旧約聖書に記されている裁きを受けた者たちの列に加えるのです。
3 昔から書かれている不信心な者たちへの裁き(5〜7節)
5節から7節までをお読みします。
あなたがたは万事を心得ていますが、思い出してほしい。主は民を一度エジプトの地から救い出し、その後、信じなかった者たちを滅ぼされたのです。一方、自分の領分を守らないで、その住まいを見捨ててしまった天使たちを、大いなる裁きのために、永遠の鎖で縛り、暗闇の中に閉じ込められました。ソドムやゴモラ、またその周辺の町は、この天使たちと同じく、みだらな行いにふけり、不自然な肉の欲の満足を追い求めたので、永遠の火の刑罰を受け、見せしめにされています。
「あなたがたは万事を心得ていますが、思い出してほしい」という言葉は、ユダがこれから記すことを、この手紙の読者が知っていたことを教えています。ユダは三つ一組で記すことを好んでおりますが、ここでも、出エジプトの民、堕落した天使、ソドムとゴモラと、旧約聖書の三つの箇所を引用しています。
「主は民を一度(ひとたび)エジプトの地から救い出し、その後(あと)、信じなかった者たちを滅ぼされたのです」。『民数記』の第13章を読むと、約束の地カナンに着いたイスラエルの民が、それぞれの部族の代表者を偵察隊として遣わしたこと。そして、帰って来た偵察隊(ヨシュアとカレブを除く)が、その土地について悪い情報を流したことが記されています。彼らは、イスラエルの人々にこう言うのです。「我々が偵察して来た土地は、そこに住み着こうとする者を食い尽くすような土地だ。我々が見た民は皆、巨人だった。そこで我々が見たのは、ネフェリムなのだ。アナク人はネフィリムの出なのだ。我々は、自分がいなごのように小さく見えたし、彼らの目にもそう見えたにちがいない」(民数13:32,33)。この悪い情報を聞いて、イスラエルの民は声をあげて叫び、夜通し泣き言を言うのです。そして、モーセとは別の指導者を立てて、エジプトへ帰ろうとするのです。それに対して、主は憤られました。そして、ヨシュアとカレブを除く20歳以上の者は、約束の地に入ることができず、荒れ野で死に絶えることになるのです。教会を惑わしている偽教師たちは、カナンの土地について悪い情報をもたらした者に似ているわけですね。偽教師たちを放置して、親睦の食事に連ならせるならば、共同体全体を滅ぼすことになるのです(ユダ12参照)。
また、ユダは、「自分の領分を守らないで、その住まいを見捨ててしまった天使たち」について記します。このことは、どこに記されているのかと言いますと、『創世記』の第6章であります。旧約の8ページです。『創世記』の第6章1節と2節にこう記されています。
さて、地上に人が増え始め、娘たちが生まれた。神の子らは、人の娘たちが美しいのを見て、おのおの選んだ者を妻にした。
ユダは、「神の子ら」を「天使たち」と解釈しているわけですね。天使たちは地上の人の娘たちが美しいのを見て、天の住まいを捨ててしまった。このように、『創世記』の御言葉を、ユダの手紙の受取人たちも解釈していたのです。
今夕の御言葉に戻ります。新約の450ページです。
天使たちは、人間の美しい娘たちとみだらな行いをするために、自分の領分を守らず、天の住まいを捨ててしまいました。その天使たちを、神さまは、大いなる裁きのために、永遠の鎖で縛り、暗闇の中に閉じ込められました。このことは、どこに書いてあるのかと言いますと、旧約外典の『エノク書』に記されているということです。ユダの手紙は、正典だけではなく、外典からも引用しているのです。この手紙の受取人たちは、旧約外典である『エノク書』を知っていたのです。
さらに、ユダは、『創世記』の第19章に記されている、ソドムとゴモラの滅びについて記します。『創世記』の記述によりますと、ソドムの住人は、ロトが家に迎えた主の御使いたちに乱暴をしようとしたために、天からの火によって滅ぼされました。ソドムの住人は、ロトが家に迎えた二人の旅人が主の御使いであることを知らなかったと思います。『創世記』の書き方ですと、ソドムの男たちが、男である二人の旅人に、性的な乱暴をしようとするところに、ソドムの堕落ぶりが表れています。けれども、ユダの手紙の書き方は、少し違います。ユダが、ソドムの男たちは「不自然な肉の欲の満足を追い求めた」と記すとき、それは人間が天使と性的な関係を持ちたいという意味で、不自然であるのです(「不自然な肉の欲」は直訳すると「別の肉」である)。それゆえ、ソドムとゴモラは、永遠の火の刑罰を受け、見せしめにされているのです(マタイ11:23,24参照)。
堕落した天使とソドムの人々に共通なことは、自分の領分を弁えない高慢と肉欲であります。そして、この二つ、高慢と肉欲において、教会を惑わせている偽教師たちも同じであるのです。それゆえ、ユダは、偽教師たちが裁きを受けることは、昔から書かれていると記すのです。
私たちは、主が不敬虔な者たちを裁かれてきたことを思い出して、イエス・キリストにおいて一度(ひとたび)伝えられた信仰にとどまりたいと願います。