荒れ野の誘惑 2012年12月30日(日曜 朝の礼拝)
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荒れ野の誘惑
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- 村田寿和 牧師
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マタイによる福音書 4章1節~11節
聖書の言葉
4:1 さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、“霊”に導かれて荒れ野に行かれた。
4:2 そして四十日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた。
4:3 すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」
4:4 イエスはお答えになった。「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』/と書いてある。」
4:5 次に、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて、
4:6 言った。「神の子なら、飛び降りたらどうだ。『神があなたのために天使たちに命じると、/あなたの足が石に打ち当たることのないように、/天使たちは手であなたを支える』/と書いてある。」
4:7 イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある」と言われた。
4:8 更に、悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、
4:9 「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と言った。
4:10 すると、イエスは言われた。「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、/ただ主に仕えよ』/と書いてある。」
4:11 そこで、悪魔は離れ去った。すると、天使たちが来てイエスに仕えた。マタイによる福音書 4章1節~11節
メッセージ
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序.
先々週私たちは、イエス様が洗礼者ヨハネから洗礼を受けられたこと、そのイエス様に向かって天が開き、神の霊が鳩のように降り、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という天からの声があったことを学びました。そのようにして、神様はイエス様をメシア、救い主として任職されたのです。神様は、イエス様が神の独り子であり、イスラエルの王であり、主の僕であるメシア、救い主であることを宣言されたのです。このメシアの任職に続いて、福音書記者マタイはイエス様が荒れ野で誘惑を受けられたことを記すのであります。
1.誘惑であり試練
1節に、次のように記されています。「さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、霊に導かれて荒れ野に行かれた」。イエス様がメシアとして任職されたことに、いち早く反応したのは悪魔でした。聖書によれば、悪魔は堕落した天使であり、神の敵であり、神の救いの御業を破壊する者であります。悪魔はイエス様を誘惑することを神様に願い出て、神様はそれをよしとされたのです。私は今、「悪魔はイエス様を誘惑することを神様に願い出て、神様はそれをよしとされた」と申しましたが、このことは悪魔も神様の御手のうちで活動しているに過ぎないということです(ヨブ1、2章参照)。それゆえ、イエス様は「霊に導かれて荒れ野に行かれた」のであります。鳩のようにイエス様の上に降って来られた神の霊が、イエス様を荒れ野へと導くのです。すなわち、悪魔の誘惑は、神様からの試練でもあるのです。実際、1節で、「誘惑を受けるため」と訳されている言葉は、「試練を受けるため」とも訳すことができるのです。ちなみに、「誘惑」とは「人の心をまどわし、その人にとって本来ためにならない状態へとさそいこむこと」を意味します。また、「試練」とは「あることを成し遂げる過程や人生のある局面で遭遇する苦難」を意味します(『明鏡国語辞典』)。今朝の御言葉は、悪魔にとってはメシアとして任職されたイエス様を堕落させようという誘惑でありますが、神様にとってはイエス様をメシアとして確立するための試練であるのです。イエス様は荒れ野に行かれましたが、「荒れ野」は悪魔の住みかであると同時に神と出会う場であると考えられておりました。ですから、荒れ野はイエス様が悪魔から誘惑を、神様から試練を受けるために、最適の場所であると言うことができるのです。
2.第一の誘惑
2節に次のように記されています。「そして四十日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた」。イエス様は荒れ野で四十日四十夜断食されましたが、これはメシアとして歩み出すための特別な備えであったと思われます。かつてモーセが十戒を受けるために、シナイ山において四十日四十夜、パンも食べず、水も飲まなかったように、イエス様はメシアとして歩みだされるために荒れ野で四十日四十夜断食されたのです(出エジプト34:24参照)。この断食の後、イエス様は空腹を覚えられました。すると、誘惑する者が来て、イエス様にこう言ったのです。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ」。この誘惑する者の言葉は17節の「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という天からの声を背景としています。「これはわたしの愛する子」という天からの声を聞いたばかりのイエス様に、悪魔は、「あなたは神の子であるのだから、これらの石をパンになるように命じて食べたらいいではないか」と誘惑するのです。それに対して、イエス様はこうお答えになりました。「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある」。「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」。この御言葉は、旧約聖書の申命記第8章3節に記されています。実際に確認したいと思います。旧約聖書の294頁です。ここでは第8章2節から5節までをお読みします。
あなたの神、主が導かれたこの四十年の荒れ野の旅を思い起こしなさい。こうして主はあなたを苦しめて試し、あなたの心にあること、すなわち御自分の戒めを守るかどうかを知ろうとされた。主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。この四十年の間、あなたのまとう着物は古びず、足がはれることもなかった。あなたは、人が自分の子を訓練するように、あなたの神、主があなたを訓練されることを心に留めなさい。
神様は、イスラエルを苦しめ、飢えさせ、天からのパン、マナを食べさせられました。それは「人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった」とモーセは言うのです。 今朝の御言葉に戻ります。新約聖書の4頁です。
悪魔は、イエス様に「神の子であるなら、石をパンにかえて食べたらよいではないか」と言うのですが、イエス様は「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある」とお答えになりました。ここでイエス様がパンなどどうでもよいと言っていないことは明らかです。なぜなら、先程も確認しましたように、この申命記の御言葉は、イスラエルに天からのパン、マナを与えられた主の御言葉であるからです。パンを食べなければ生きることができないことは言うまでもありません。しかし、神様がイスラエルに教えられたことは、そのパンを与えてくださる神様によって人は生かされているのだ、ということであるのです。人はパンによって生かされているのではない。人はパンを与えてくださる神様によって生かされている。それゆえ、イエス様は、神の子としての御力を用いて、石をパンになるように命じることを拒否されたのです。
3.第二の誘惑
次に悪魔は、イエス様を聖なる都エルサレムに連れて行き、神殿の屋根の端に立たせてこう言いました。「神の子なら、飛び降りたらどうだ。『神があなたのために天使たちに命じると、あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える』と書いてある」。ここに記されていることが実際の出来事であったのか、それとも、幻の中で示されたことであったのかは、解釈が分かれるところであります(エゼキエル8:3参照)。私としては実際に場面が荒れ野からエルサレム神殿へと移っていると読みたいと思います。悪魔がイエス様をエルサレムの神殿の屋根の端に立たせた背景には、待望しているメシアが突如、神殿に現れるとの人々の期待がありました(マラキ3:1参照)。悪魔はイエス様をその神殿の屋根の端に立たせて、そこから飛び降りることによって、自分がメシアであることを示すように誘惑するのです。しかも、ここで悪魔は聖書の御言葉を用いて、イエス様を誘惑しています。使徒パウロは、「サタンでさえ光の天使を装う」と記していますが、悪魔も聖書の御言葉を用いることができるのです(二コリント11:14参照)。ここで悪魔が引用しているのは、詩編第91編11節、12節であります。詩編第91編は主に信頼する人の幸いを歌う詩編でありますが、その11節、12節を根拠として、悪魔はイエス様に「神の子なら、そこから飛び降りてみろ」と言うのです。それに対してイエス様は、「『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある」と言われました。ここでイエス様が引用しているのは、申命記の第6章16節であります。このところも実際に確認したいと思います。旧約聖書の291頁です。申命記の第6章16節をお読みします。
あなたたちがマサにいたときのように、あなたたちの神、主を試してはならない。
出エジプト記の第17章を見ますと、荒れ野でイスラエルの民が、飲み水のことで、「果たして、主は我々の間におられるのかどうか」と言って、モーセと争い、主を試したことが記されています。イスラエルの民は、主が共におられることの証拠として、モーセに飲み水を与えるように要求したのです。モーセはそのことを思い起こさせつつ、「あなたたちの神、主を試してはならない」と命じているのです。
今朝の御言葉に戻ります。新約聖書の5頁です。
悪魔は、神様に信頼しているなら、飛び降りたらいいではないかと言うのですが、イエス様はそれは信頼ではなくて、神を試すことであると言い、悪魔の誘惑を退けるのです。ここでイエス様は、悪魔が引用している詩編の言葉そのものを否定しているわけではありません。イエス様が否定しているのは、その御言葉の用い方であります。「神があなたのために天使たちに命じると、あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える」と書いてあるから、神殿の屋根から飛び降りたらいいではないか。このような悪魔の理屈は、神の子にふさわしくない、神を試みることであるのです。
4.第三の誘惑
更に悪魔は、イエス様を非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と言いました。このところも、実際の出来事であったのか、それとも幻であったのか解釈の分かれるところでありますが、私としては、悪魔は実際にイエス様を高い山に連れて行って、幻として世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せたのではないかと思います。悪魔は、「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と言いました。これまで悪魔は、「神の子なら」「神の子であるのだから」とイエス様を誘惑しましたが、ここでは「神の子なら」という言葉は用いていません。悪魔の狙いは、イエス様が主の僕であることに移っているからです。イエス様が聞いた天からの声は「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声でありました。イエス様は神の子であると同時に、主の僕であるのです。その主の僕であるイエス様に対して、悪魔は「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と言うのです。主に仕える僕となるのではなく、わたしに仕えるならば、世のすべての国々と繁栄を与えようと誘惑するのです。それに対して、イエス様はこう言われました。「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある」。イエス様は試みる者の正体をサタンと名指しし、退けと命じられました。そして、申命記の第6章13節の御言葉を引用するのです。このところも実際に確認したいと思います。旧約聖書の290頁です。ここでは申命記の第6章13節から15節までをお読みします。
あなたの神、主を畏れ、主にのみ仕え、その御名によって誓いなさい。他の神々、周辺諸国民の神々の後に従ってはならない。あなたのただ中におられるあなたの神、主は熱情の神である。あなたの神、主の怒りがあなたに向かって燃え上がり、地の面から滅ぼされないようにしなさい。
イエス様はこの13節の御言葉によって、悪魔の最後の誘惑を退けられたのです。そのようにして、イエス様は御自分が神の御心に適う主の僕であることを明確にされたのです。
今朝の御言葉に戻ります。新約聖書の5頁です。
結.悪魔の誘惑を退け、神の試練に耐えたイエス
11節に次のように記されています。「そこで、悪魔は離れ去った。すると、天使たちが来てイエスに仕えた」。この記述はイエス様がサタンの誘惑を退けることによって、神の試練に耐えられたことを私たちに教えております。神様は悪魔が引用した詩編第91編にありましたように、天使を遣わして、イエス様に仕えさせるのです。そして、ここには食事の給仕をすることも含まれていると思われます。その昔、神様はイスラエルの民に、天からのパン、マナを与えられたように、神様がイエス様に食卓を備えてくださるのです。
イエス様はことごとく悪魔の誘惑を退けられましたが、それは聖書の御言葉を用いることによってでありました。しかも、イエス様は申命記の御言葉を引用することによって、悪魔の誘惑を退けられたのです。このことは、イエス様が40日間荒れ野で誘惑を受けられたことと、イスラエルの民が40年間荒れ野で誘惑を受けたこととが重ねて記されていることを教えております(2:15参照)。イスラエルの民は、荒れ野において何度も罪を犯しましたけれども、まことのイスラエルであるイエス様は、御言葉によって悪魔の誘惑を退けることによって、天からの声にふさわしいメシアであることを実証するのです。悪魔はイスラエルの民と切り離して神の子について語るのですが、イエス様はイスラエルの王としての神の子として、イスラエルに与えられた御言葉をもって、御自分が神の子であることを示されるのです。イエス様は神の御言葉に従うということによって御自分が神の子であることをお示しになるのです。そして、ここにイエス・キリストにあって神の子とされた私たちがどのように悪魔の誘惑を退けるべきかの道筋が示されているのです。悪魔は私たちをも、自分の力で生きるようにと、また神を試みるようにと、御利益を与えるから偽りの神々を拝むようにと、誘惑いたします。しかし、そのようなとき、私たちは悪魔の誘惑をことごとく退けられた主イエスに依り頼むべきであるのです。今朝は最後に、使徒パウロが記したエフェソの信徒への手紙第6章10節から18節までを読んで終わりたいと思います。新約聖書の359頁です。
最後に言う。主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい。悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。だから、邪悪な日によく抵抗し、すべてを成し遂げて、しっかりと立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。立って、真理を帯として腰に締め、正義を胸当てとして着け、平和の福音を告げる準備を履物としなさい。なお、その上に、信仰を盾として取りなさい。それによって、悪い者の放つ火の矢をことごとく消すことができるのです。また、霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい。どのような時にも、霊に助けられて祈り、願い求め、すべての聖なる者たちのために、絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい。
私たちは悪魔の誘惑を退けられた主イエスに依り頼み、霊の剣である神の言葉によって、信仰の戦いを立派に戦い抜きたいと願います(二テモテ4:7参照)。