エジプトからの脱出 2015年6月28日(日曜 夕方の礼拝)
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エジプトからの脱出
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- 村田寿和 牧師
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出エジプト記 12章37節~51節
聖書の言葉
12:37 イスラエルの人々はラメセスからスコトに向けて出発した。一行は、妻子を別にして、壮年男子だけでおよそ六十万人であった。
12:38 そのほか、種々雑多な人々もこれに加わった。羊、牛など、家畜もおびただしい数であった。
12:39 彼らはエジプトから持ち出した練り粉で、酵母を入れないパン菓子を焼いた。練り粉には酵母が入っていなかった。彼らがエジプトから追放されたとき、ぐずぐずしていることはできなかったし、道中の食糧を用意するいとまもなかったからである。
12:40 イスラエルの人々が、エジプトに住んでいた期間は四百三十年であった。
12:41 四百三十年を経たちょうどその日に、主の部隊は全軍、エジプトの国を出発した。
12:42 その夜、主は、彼らをエジプトの国から導き出すために寝ずの番をされた。それゆえ、イスラエルの人々は代々にわたって、この夜、主のために寝ずの番をするのである。
12:43 主はモーセとアロンに言われた。「過越祭の掟は次のとおりである。外国人はだれも過越の犠牲を食べることはできない。
12:44 ただし、金で買った男奴隷の場合、割礼を施すならば、彼は食べることができる。
12:45 滞在している者や雇い人は食べることができない。
12:46 一匹の羊は一軒の家で食べ、肉の一部でも家から持ち出してはならない。また、その骨を折ってはならない。
12:47 イスラエルの共同体全体がこれを祝わなければならない。
12:48 もし、寄留者があなたのところに寄留し、主の過越祭を祝おうとするときは、男子は皆、割礼を受けた後にそれを祝うことが許される。彼はそうすれば、その土地に生まれた者と同様になる。しかし、無割礼の者は、だれもこれを食べることができない。
12:49 この規定は、その土地に生まれた者にも、あなたたちの間に寄留している寄留者にも、同じように適用される。」
12:50 イスラエルの人々はすべて、主がモーセとアロンに命じたとおりに行った。
12:51 まさにこの日に、主はイスラエルの人々を部隊ごとにエジプトの国から導き出された。出エジプト記 12章37節~51節
メッセージ
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前回私たちは、エジプト中のすべての初子が死んでしまうという最後の災いについて学びました。エジプト中のすべての初子が死んでしまうという災いを受けて、ファラオはモーセとアロンを呼び出し、エジプトから出て行くようにと命じました。また、エジプト人もイスラエルの民をせき立てて、急いで国から去らせようとしました。その際、イスラエルの民は、モーセに命じられていたように、エジプト人から金銀の装飾品や衣類を求め、分捕り物といたしました。イスラエルの民はエジプト人からの分捕り物を携えて、エジプトを出て行くのです。このことは、イスラエルの民が勝利者として、また自由な身分の者として出て行くことを表しているのです。今夕の御言葉はその続きであります。
37節から42節までをお読みします。
イスラエルの人々はラメセスからスコトに向けて出発した。一行は、妻子を別にして、壮年男子だけでおよそ六十万人であった。そのほか、種々雑多な人々もこれに加わった。羊、牛など、家畜もおびただしい数であった。彼らはエジプトから持ち出した練り粉で、酵母を入れないパン菓子を焼いた。練り粉には酵母が入っていなかった。彼らがエジプトから追放されたとき、ぐずぐずしていることはできなかったし、道中の食糧を用意するいとまもなかったからである。
イスラエルの人々が、エジプトに住んでいた期間は四百三十年であった。四百三十年を経たちょうどその日に、主の部隊は全軍、エジプトの国を出発した。その夜、主は、彼らをエジプトの国から導き出すために寝ずの番をされた。それゆえ、イスラエルの人々は代々にわたって、この夜、主のために寝ずの番をするのである。
イスラエルの人々はゴシェン地方のラメセスからスコトに向けて出発しました。聖書の巻末にある聖書地図の第二図「出エジプトの道」を見ますと、その場所を確認することができます。今夕の説教題を「エジプトからの脱出」としましたが、まだ、イスラエルはエジプトの国境内にいるわけです。エジプトの国境から出るのは葦の海を渡るときでありまして、それによってイスラエルはエジプトの国から脱出したと地理的には言えるのです。
この時のイスラエルの民の人口が、妻と子供を別にして、壮年男子だけで60万人であったと記されています。壮年男子だけで60万人ですから、妻と子供を合わせれば、200万人以上であったと考えられます。この人数については多すぎることから、誇張ではないかとか、ダビデ、ソロモン時代のイスラエルの人口がここに記されているのではないかとか、いろいろと研究者の間で議論があるのですが、私としては、書いてあるとおりに受け取っておきたいと思います。
また、一行の中には、イスラエル人々以外の種々雑多な人々も加わっておりました。この「種々雑多な人々」は、イスラエルの人々と同じように、エジプト人から強制労働を課せられていた、他の民族の人々のことであります。そのような種々雑多な人々は、イスラエルの人々と行動を共にすることにより、エジプトの奴隷状態から自由になろうとしたのです。また、羊、牛など、家畜もおびただしい数でありましたから、この一行は壮大なものでありました。この壮大な一行が、まことにあわただしくエジプトから出て行ったことが、酵母を入れないパン菓子を焼いたことによって表されています。彼らは道中の食糧を用意することはできず、酵母の入っていないパンの練り粉をこね鉢ごと外套に包み、肩に担がなければならなかったのです(12:34参照)。
40節に、「イスラエルの人々が、エジプトに住んでいた期間は四百三十年であった」とありますが、これはかつて主がアブラハムに予告されていた年数とほぼ同じであります。創世記の15章に、主がアブラムと契約を結んだことが記されておりますが、その12節から15節にこう記されています。旧約の19ページです。
日が沈みかけたころ、アブラムは深い眠りに襲われた。すると、恐ろしい大いなる暗黒が彼に臨んだ。主はアブラムに言われた。「よく覚えておくがよい。あなたの子孫は異邦の国で寄留者となり、四百年の間奴隷として仕え、苦しめられるであろう。しかしわたしは、彼らが奴隷として仕えるその国民を裁く。その後、彼らは多くの財産を携えて脱出するであろう。」
主はアブラハムに、「あなたの子孫は異邦の国で寄留者となり、四百年の間奴隷として仕え、苦しめられるであろう」と言われておりました。それは言い換えれば、四百年経てば奴隷の苦しみから解放されるということであります。そして、その御言葉どおり、イスラエルの人々は寄留してから四百三十年経て、エジプトの国から出発したのです。四百年と四百三十年では、30年合わないではないかと思われるかも知れませんが、四百年は四百三十年の概算と考えていただければと思います。
では、今夕の御言葉に戻りましょう。旧約の113ページです。
42節に、「その夜、主は彼らをエジプトの国から導き出すために寝ずの番をされた」とあります。これはイスラエルの人々が夜の間にエジプトの国を出発したこと、そしてその背後には、主の守りがあったことを現しています。詩編の121編に「見よ、イスラエルを見守る方は、まどろむこともなく、眠ることもない」とありますが、この時、イスラエルの人々はそのことを身をもって体験したのです。そして、そのことを代々に覚えるために、イスラエルの人々は、過越の夜、主のために寝ずの番をしたのでありました。イスラエルの人々は主が自分たちのためにしてくださったことを、自分たちが主のためにすることによって想い起こしたのです。
43節から51節までをお読みします。
主はモーセとアロンに言われた。「過越の掟は次のとおりである。外国人はだれも過越の犠牲を食べることはできない。ただし、金で買った男奴隷の場合、割礼を施すならば、彼は食べることができる。滞在している者や雇い人は食べることができない。一匹の羊は一軒の家で食べ、肉の一部でも家から持ち出してはならない。もし、寄留者があなたのところに寄留し、主の過越祭を祝おうとするときは、男子は皆、割礼を受けた後にそれを祝うことが許される。彼はそうすれば、その土地に生まれた者と同様になる。しかし、無割礼の者は、だれもこれを食べることができない。この規定は、その土地に生まれた者にも、あなたたちの間に寄留している寄留者にも、同じように適用される。」イスラエルの人々はすべて、主がモーセとアロンに命じたとおりに行った。
まさにこの日、主はイスラエルの人々を部隊ごとにエジプトとの国から導き出された。
38節に、「そのほか、種々雑多な人々もこれに加わった」とありましたが、ここには、その人々を念頭において、過越祭の補足の規定が記されています。イスラエルの人々に加わった種々雑多な人々も過越の犠牲を食べていいのであろうか?そのような問題意識のもとに、43節以下は記されているのです。ここでの原則は、「外国人はだれも過越の犠牲を食べることはできない」というものであります。では、外国人とはどのような人かと言えば、それは血筋や民族のことではなく、割礼を受けていない者のことであるのです(12:48参照)。ですから、どのような民族の出身でありましても、割礼を受けるならば、イスラエル人となり、過越の犠牲を食べることができるのです。割礼とは、男性の性器の包皮の一部を切り取る儀式を指しますが、割礼を受けるとはどのような意味を持っていたのでしょうか?そのことを創世記17章の御言葉から確認したいと思います。旧約の21ページです。
創世記17章9節から14節までをお読みします。
神はまた、アブラハムに言われた。「だからあなたも、わたしの契約を守りなさい、あなたも後に続く子孫も。あなたたち、およびあなたの後に続く子孫と、わたしとの間で守るべき契約はこれである。すなわち、あなたたちの男子はすべて、割礼を受ける。包皮の部分を切り取りなさい。これが、わたしとあなたたちとの間の契約のしるしとなる。いつの時代でも、あなたたちの男子はすべて、直系の子孫はもちろんのこと、家で生まれた奴隷も、外国人から買い取った奴隷であなたの子孫でない者も皆、生まれてから八日目に割礼を受けなければならない。あなたの家で生まれた奴隷も、買い取った奴隷も、必ず割礼を受けなければならない。それによって、わたしの契約はあなたの体に記されて永遠の契約となる。包皮の部分を切り取らない無割礼の男がいたなら、その人は民の間から断たれる。わたしの契約を破ったからである。」
主はアブラハムに、契約のしるしとして割礼を受けるように命じられました。ですから、割礼を受けるということは、主の契約の民となることのしるしであったのです。外国人であっても、主の契約のしるしとしての割礼を受けるならば、その人は神の民、イスラエルの一員となることができるのです。このようにイスラエル共同体は血縁共同体というよりも信仰共同体であったのです。それゆえ、寄留者であっても割礼を受けた後は、過越の食事を祝うことができるのです。そのようにして、種々雑多な人々である外国人もイスラエル共同体の一員となる道が主によって定められているのです。
では、今夕の御言葉に戻ります。旧約の114ページです。
46節に、「一匹の羊は一軒の家で食べ、肉の一部でも家から持ち出してはならない。また、その骨を折ってはならない」とありますが、この記述は過越祭が家族で祝う祭りであることを教えております。イスラエル共同体の最も基礎となる単位は家族であるのです。また、過越の小羊の「骨を折ってはならない」と記されておりますが、このことは、神の小羊であるイエス・キリストにおいて実現したことでありました。ヨハネ福音書の19章に、兵士たちが、イエス様と一緒に十字架につけられていた男たちの足の骨を折ったのに対して、イエス様の足の骨は折らなかったことが記されています。このように記すことによって、福音書記者ヨハネは、イエス様こそが、私たちが神の裁きを免れるために屠られた過越の小羊であることを教えているのです。
旧約の時代、神様は、アブラハムを通して割礼を受けること、さらにはモーセを通して主の過越を祝うことを契約の民イスラエルに求められたことでありました。しかし、新約の時代においては、神が遣わされたイエス・キリストを信じ従うことが契約の民イスラエルに求められているのです(使徒3:22,23参照)。私たちは、ユダヤ人からすれば外国人でありますが、イエス・キリストを信じて、その規定である洗礼を受け、主の晩餐にあずかることによって、契約の民イスラエルの一員とされているのです。神のイスラエルである教会も、血縁や民族に基づくものではなく、イエス・キリストを信じる信仰に基づくものであります。イエス・キリストを信じるならば、民族や人種や性別などの違いを越えて洗礼を受け、主の晩餐にあずかる神の民、神の子となることができるのです。