最後の災い 2015年6月21日(日曜 夕方の礼拝)

問い合わせ

日本キリスト改革派 羽生栄光教会のホームページへ戻る

最後の災い

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
出エジプト記 12章29節~36節

聖句のアイコン聖書の言葉

12:29 真夜中になって、主はエジプトの国ですべての初子を撃たれた。王座に座しているファラオの初子から牢屋につながれている捕虜の初子まで、また家畜の初子もことごとく撃たれたので、
12:30 ファラオと家臣、またすべてのエジプト人は夜中に起き上がった。死人が出なかった家は一軒もなかったので、大いなる叫びがエジプト中に起こった。
12:31 ファラオは、モーセとアロンを夜のうちに呼び出して言った。「さあ、わたしの民の中から出て行くがよい、あなたたちもイスラエルの人々も。あなたたちが願っていたように、行って、主に仕えるがよい。
12:32 羊の群れも牛の群れも、あなたたちが願っていたように、連れて行くがよい。そして、わたしをも祝福してもらいたい。」
12:33 エジプト人は、民をせきたてて、急いで国から去らせようとした。そうしないと自分たちは皆、死んでしまうと思ったのである。
12:34 民は、まだ酵母の入っていないパンの練り粉をこね鉢ごと外套に包み、肩に担いだ。
12:35 イスラエルの人々は、モーセの言葉どおりに行い、エジプト人から金銀の装飾品や衣類を求めた。
12:36 主は、この民にエジプト人の好意を得させるようにされたので、エジプト人は彼らの求めに応じた。彼らはこうして、エジプト人の物を分捕り物とした。出エジプト記 12章29節~36節

原稿のアイコンメッセージ

 これまで私たちは、モーセとアロンがエジプトでなしてきた様々な災いについて学んで来ました。「血の災い」「蛙の災い」「ぶよの災い」「あぶの災い」「疫病の災い」「はれ物の災い」「雹の災い」「いなごの災い」「暗闇の災い」と九つの災いについて学んで来たのですが、今夕の御言葉には、十個目の最後の災い、エジプトのすべての初子が死んでしまうという災いが起こったことが記されております。この最後の災いについては、11章4節以下で既に予告されておりました。11章4節から8節までをお読みします。

 モーセは言った。「主はこう言われた。『真夜中ごろ、わたしはエジプトの中を進む。そのとき、エジプトの国中の初子は皆、死ぬ。王座に座しているファラオの初子から、石臼をひく女奴隷の初子まで。また家畜の初子もすべて死ぬ。大いなる叫びがエジプトの全土に起こる。そのような叫びはかつてなかったし、再び起こることもない。』しかし、イスラエルの人々に対しては、犬ですら、人に向かっても家畜に向かっても、うなり声を立てません。あなたたちはこれによって、主がエジプトとイスラエルを区別しておられることを知るでしょう。あなたの家臣はすべてわたしのもとに下って来て、『あなたもあなたに従っている民も皆、出て行ってください』とひれ伏し頼むでしょう。その後で、わたしは出て行きます。」そして、モーセは憤然としてファラオのもとから退出した。

 このように、モーセがファラオに予告していた「エジプトの国中の初子は皆、死ぬ」という災いが、いよいよ今夕の御言葉で行われるのです。しかしそもそも、なぜ、主はモーセとアロンを通して、エジプトに様々な災いをもたらされたのでしょうか?その経緯が11章9節、10節に記されています。

 主はモーセに言われた。「ファラオは、あなたたちの言うことを聞かない。そのため、わたしはエジプトの国に大きな奇跡を行うようになる。」モーセとアロンはファラオの前でこれらの奇跡をすべて行ったが、主がファラオの心をかたくなにされたため、ファラオはイスラエルの人々を国から去らせなかった。

 ここには、主がエジプトで様々な奇跡を行ってきたのは、ファラオがモーセの言うことを聞かずに、イスラエルの民を去らせなかったからであると記されています。また、ファラオの心をかたくなにされたのは、他でもない主であられたことが記されています。ファラオは自分の意志で心を頑なにしてイスラエルの人々をエジプトから去らせないわけですが、それは同時に、主がファラオの心を頑なにされたからであるのです。そして、そのファラオの頑なな心が、大いなる審判とも呼ばれる「初子の死」をエジプトにもたらすことになるのです。

 では、今夕の御言葉、12章29節、30節をお読みします。

 真夜中になって、主はエジプトの国ですべての初子を撃たれた。王座に座しているファラオの初子から牢屋につながれている捕虜の初子まで、また家畜の初子もことごとく撃たれたので、ファラオと家臣、またすべてのエジプト人は夜中に起き上がった。死人がでなかった家は一軒もなかったので、大いなる叫びがエジプト中に起こった。

 「真夜中になって」とありますが、これはアビブの月の十四日の真夜中のことであります。イスラエルはその夕方に、過越の犠牲を屠り、小羊の血を家の入り口に塗り、その晩は小羊を食べておりました。そのように、イスラエルは主がエジプトの国ですべての初子を撃たれる真夜中に備えていたのです。モーセがそのことをイスラエルの長老に命じたこと、また、イスラエル人々がそのとおりに行ったことが、21節から28節までに記されておりました。つまり、この真夜中の出来事は、イスラエルの人々にとっては突然ではなかったのです。しかし、そのことを知らされていないファラオを初めとするエジプト人にとっては突然のことでありました。ファラオは、モーセから真夜中ごろ、エジプトの国中の初子は皆、死ぬと聞かされてはいましたが、それが何日の真夜中であるかは知らされていなかったのです。

 誰もが寝静まる真夜中に、主はエジプトの国ですべての初子を撃たれました。主は王座に座しているファラオの初子から牢屋につながれている捕虜の初子まで、また家畜の初子もことごとく撃たれました。これは主がエジプトに下された裁きであります。ファラオにとっても、そして牢屋につながれている捕虜にとっても、命の力の初穂とも言える初子を、主は撃たれることにより、御自分が生けるまことの神であることをエジプト人に示されたのです。エジプト人は多くの神々を信じておりました。しかし、主はエジプト人の初子を撃つことによって、エジプトの神々が無力であること、そして、御自分がエジプト人に対しても主であられることを示されたのです。そのようにして、主はエジプトのすべての神々に裁きを行われたのです(12:12参照)。

 私たちは、ここまでしなくてもよいのではないかと思うかも知れません。しかし、この裁きは、ファラオとその民であるエジプト人に対してふさわしい裁きであるとも言えます。なぜなら、ファラオとその民であるエジプト人は、かつて神の長子であるイスラエルの子供の命を奪ったからです(4:22節参照)。1章15節以下に、エジプトの王がヘブライ人の助産婦に、生まれてくる子供が男の子であれば殺害するように命じたことが記されておりました。また、1章22節以下には、ファラオが全国民に、ヘブライ人の「生まれた男の子は、一人残らずナイル川に放り込め」と命じたことが記されておりました。そのようにして、ファラオは神の長子であるイスラエルの子供たちの命を奪ったのでありました。そして組織的に苛酷な重労働を課すことによって、イスラエルの人々の命を脅かしているのです。ですから、この最後の災いは、主の報復であるとも言うことができるのです。

 その夜、死人が出なかった家は一軒もなかったので、大いなる叫びがエジプト中に起こりました。イスラエルの人々は、この大いなる叫びを家の中で聞いていたわけです。イスラエルの人々は、どのような気持ちでエジプト人の叫び声を聞いていたのでしょうか?彼らはおそらく厳粛な思いで、聞いていたと思います。そして、彼らは滅ぼす者が自分たちの家を過ぎ越すのをじっと待っていたのです。

 31節、32節をお読みします。

 ファラオは、モーセとアロンを夜のうちに呼び出して言った。「さあ、わたしの民の中から出て行くがよい、あなたたちもイスラエルの人々も。あなたたちが願っていたように、行って、主に仕えるがよい。羊の群れも牛の群れも、あなたたちが願っていたように、連れて行くがよい。そして、わたしをも祝福してもらいたい。」 ここで、ファラオは、何の条件もつけてはおりません。これまでファラオは、エジプトの国の中で犠牲をささげよとか、男たちだけで行くが良いとか、羊と牛は残しておけとか、いろいろな条件をつけておりましたが、ここでは無条件に、モーセとアロンが願っていたように、イスラエルの民を去らせるのです。まさしくファラオはイスラエルの民を追い出すのであります。ファラオは最後に、「わたしをも祝福してもらいたい」と言っておりますが、これはどのような意味なのでしょうか?これはエジプトの国中の初子が死ぬという災いが、他でもない主によってもたらされたことをファラオが認めたことを意味しています。ファラオは、初子の死という災いの背後に主の呪いがあると考えました。それゆえ、ファラオは、「わたしをも祝福してもらいたい」と願うのです。

 33節から36節までをお読みします。

 エジプト人は、民をせき立てて、急いで国から去らせようとした。そうしないと自分たちは皆、死んでしまうと思ったのである。民は、まだ酵母の入っていないパンの練り粉をこね鉢ごと外套に包み、肩に担いだ。イスラエルの人々は、モーセの言葉どおりに行い、エジプト人から金銀の装飾品や衣類を求めた。主は、この民にエジプト人の好意を得させるようにされたので、エジプト人は彼らの求めに応じた。彼らはこうして、エジプト人の物を分捕り物とした。

 ここには、イスラエルの人々がパンに酵母を入れなかった理由が、エジプト人が民をせき立てて、急いで国から去らせようとしたという観点から説明されています。彼らは初子ばかりではなく、自分たちも皆死んでしまうのではないかと恐れに取りつかれていたのです。その際、イスラエルの人々は、モーセに言われていたとおり、エジプト人から金銀の装飾品と衣類を求めました。そして、主がこの民にエジプト人の好意を得させられたので、エジプト人は彼らの求めに応じたのです。エジプト人からすれば、「金銀の装飾品や衣類を渡すから、はやくこの国から出て行ってくれ」といったところであったと思います。そして、この金銀の装飾品や衣類こそ、主の勝利のしるしである「分捕り物」であるのです。分捕り物とは、戦に勝った者が負けた者から奪い取る戦利品でありますが、イスラエルの人々は、勝利者として、エジプトを出て行くのです。また、彼らは奴隷としてではなく、主によって贖われた自由な者として出て行くのであります。そのような主の勝利と解放を、このエジプト人からの分捕り物は象徴しているのです。

 さて、今夕の御言葉から私たちは何を学ぶことができるでしょうか?新約時代に生きる私たちにとって、大いなる裁きは、主イエス・キリストの再臨によってもたらされる最後の審判であります。そして、それがいつの日であるかは、私たちにも知らされておりません。私たちに求められていることは、いつ主が来てもいいように、目を覚ましていることであります。これが、イスラエルの人々と私たちとの違う点ですね。また、もう一つ違う点があります。それはイスラエルの人々は、主の裁きを免れる術について、エジプト人に教えませんでしたが、私たちは、主の裁きを免れる術について、すべての人に宣べ伝えるように命じられているのです。すなわち、私たちは、主イエス・キリストを信じて救われるように、すべての人に宣べ伝えるための器とされているのです。それは私たちの意志というよりも、イエス・キリストを遣わされた神様の御意志であります。神様はすべての人がイエス・キリストを知り、救われることを望んでおられるのです。神様はすべての人が、イエス・キリストを信じて、死に勝利し、罪の奴隷状態から解放されることを望んでおられるのです。

 エジプトの国中の初子が死んでしまう。これは、主に背き続けたエジプトの王ファラオの罪が招いた裁きでありました。そして、それは、私たちに対する警告でもあるのです。「人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっている」とありますように、私たちはやがて神様によって裁かれる者たちであります(ヘブライ9:27)。私たちはやがて裁かれる者たちとして世の罪を取り除く神の小羊、イエス・キリストを信じて救われることが求められているのです(ヘブライ9:27参照)。私たちには、イエス・キリストがいつ来られるのか、また自分がいつ死ぬのかは分かりません。ですから、今日という日に、主の御声に聞き従って、イエス・キリストを信じたいと願います。

関連する説教を探す関連する説教を探す