酵母を入れないパンを食べる 2015年6月14日(日曜 夕方の礼拝)

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酵母を入れないパンを食べる

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
出エジプト記 12章15節~28節

聖句のアイコン聖書の言葉

12:15 七日の間、あなたたちは酵母を入れないパンを食べる。まず、祭りの最初の日に家から酵母を取り除く。この日から第七日までの間に酵母入りのパンを食べた者は、すべてイスラエルから断たれる。
12:16 最初の日に聖なる集会を開き、第七日にも聖なる集会を開かねばならない。この両日にはいかなる仕事もしてはならない。ただし、それぞれの食事の用意を除く。これだけは行ってもよい。
12:17 あなたたちは除酵祭を守らねばならない。なぜなら、まさにこの日に、わたしはあなたたちの部隊をエジプトの国から導き出したからである。それゆえ、この日を代々にわたって守るべき不変の定めとして守らねばならない。
12:18 正月の十四日の夕方からその月の二十一日の夕方まで、酵母を入れないパンを食べる。
12:19 七日の間、家の中に酵母があってはならない。酵母の入ったものを食べる者は、寄留者であれその土地に生まれた者であれ、すべて、イスラエルの共同体から断たれる。
12:20 酵母の入ったものは一切食べてはならない。あなたたちの住む所ではどこでも、酵母を入れないパンを食べねばならない。』」
12:21 モーセは、イスラエルの長老をすべて呼び寄せ、彼らに命じた。「さあ、家族ごとに羊を取り、過越の犠牲を屠りなさい。
12:22 そして、一束のヒソプを取り、鉢の中の血に浸し、鴨居と入り口の二本の柱に鉢の中の血を塗りなさい。翌朝までだれも家の入り口から出てはならない。
12:23 主がエジプト人を撃つために巡るとき、鴨居と二本の柱に塗られた血を御覧になって、その入り口を過ぎ越される。滅ぼす者が家に入って、あなたたちを撃つことがないためである。
12:24 あなたたちはこのことを、あなたと子孫のための定めとして、永遠に守らねばならない。
12:25 また、主が約束されたとおりあなたたちに与えられる土地に入ったとき、この儀式を守らねばならない。
12:26 また、あなたたちの子供が、『この儀式にはどういう意味があるのですか』と尋ねるときは、
12:27 こう答えなさい。『これが主の過越の犠牲である。主がエジプト人を撃たれたとき、エジプトにいたイスラエルの人々の家を過ぎ越し、我々の家を救われたのである』と。」民はひれ伏して礼拝した。
12:28 それから、イスラエルの人々は帰って行き、主がモーセとアロンに命じられたとおりに行った。出エジプト記 12章15節~28節

原稿のアイコンメッセージ

 前回、私たちは、主が過越の祭りを、代々にわたって守るべき不変の定めとされたことを学びました。14節に、「この日は、あなたたちにとって記念すべき日となる。あなたたちは、この日を不変の定めとして祝わねばならない」とありますが、これは過越の祭りのことを指しているのです。今夕の御言葉はその続きであります。

 15節から20節までをお読みします。

 七日の間、あなたたちは酵母を入れないパンを食べる。まず、祭りの最初の日に家から酵母を取り除く。この日から七日までの間酵母入りのパンを食べた者は、すべてイスラエルから断たれる。最初の日に聖なる集会を開き、第七日にも聖なる集会を開かねばならない。この両日にはいかなる仕事もしてはならない。ただし、それぞれの食事の用意は除く。これだけは行ってもよい。あなたたちは除酵祭を守らねばならない。なぜなら、まさにこの日に、わたしはあなたたちの部隊をエジプトの国から導き出したからである。それゆえ、この日を代々にわたって守るべき不変の定めとして守らねばならない。正月の十四日の夕方からその月の二十一日の夕方まで、酵母を入れないパンを食べる。七日の間、家の中に酵母があってはならない。酵母の入ったものを食べる者は、寄留者であれその土地に生まれた者であれ、すべて、イスラエルの共同体から断たれる。酵母の入ったものは一切食べてはならない。あなたたちの住む所ではどこでも、酵母を入れないパンを食べてはならない。』」

 前回学んだ8節に、過越の食事において、「酵母を入れないパンを苦菜を添えて食べる」とありましたが、今夕の御言葉では、過越の祭りから始まる七日の間、酵母を入れないパンを食べることが定められております。酵母とは、パンを膨らませるイースト菌のことでありますが、主は、イスラエルの人々に、七日の間、イースト菌の入っていない、煎餅のようなパンを食べることを定められたのです。17節に「あなたたちは除酵祭を守らねばならない」とありますように、正月(アビブの月)の14日の夕方に過越祭を行うように定められた主は、14日の夕方から21日の夕方にわたって除酵祭を祝うように定められたのです。お気づきのように、過越祭と除酵祭は重なっております。と言いますのも、過越の食事から酵母を入れないパンを食べ始めるからです。それで、ルカ福音書の22章7節を見ますと、「過越の小羊を屠るべき除酵祭が来た」と、過越祭と除酵祭が一体的に語られているのです。

 主はイスラエルの民に、過越の祭りを最初の日として、七日間、酵母を入れないパンを食べるように言われました。さらには、最初の日と第七日に聖なる集会を開くよう命じられました。なぜ、主はこのように命じられたのでしょうか?その理由が、17節後半に記されています。「なぜなら、まさにこの日に、わたしはあなたたちの部隊をエジプトの国から導き出したからである。それゆえ、この日を代々にわたって守るべき不変の定めとして守らねばならない」。主は、イスラエルの民がエジプトから導き出されたことを記念するために、除酵祭を代々に渡って守るべき不変の定めとされたのです。そのようにして、主は、イスラエルの民が世代を超えて、主の救いの御業にあずかるようになされたのであります。イスラエルの人々は、世代を超えて、代々に渡って過越祭を、また除酵祭を祝うことによって、主の救いの御業にあずかり続けたのです。そのことを教えているのが、24節から27節に記されている親と子の問答であるのです。

 あなたたちはこのことを、あなたと子孫のための定めとして、永遠に守らねばならない。また、主が約束されたとおりあなたたちに与える土地に入ったとき、この儀式を守らねばならない。また、あなたたちの子供が、『この儀式にはどういう意味があるのですか』と尋ねるときは、こう答えなさい。『これが主の過越の犠牲である。主がエジプト人を撃たれたとき、エジプトにいたイスラエルの人々の家を過ぎ越し、我々の家を救われたのである』と。」

 ここで、親は子供の質問に対して、「我々の家を救われたのである」と答えるように命じられています。主の過越を祝うことは、主が「我々の家を救われた」ことを祝うことであるのです。そのことは、エジプトにいたイスラエルの人々が、自分たちの祖先であり、主がエジプトにいたイスラエルの人々の家を過ぎ越さなければ、その子孫である「我々」は存在しないからです。エジプトにいたイスラエルの人々の救いは、我々の救いである。そのことをイスラエルの人々は血縁という絆によって知ることができたのであります。

 今夕の御言葉で、主は、主の過越を最初の日として、七日間、酵母を入れないパンを食べるように定められました。これは一週間にわたって、主がエジプトから導き出されたことを覚えるためでありますが、なぜ、主は酵母を入れないパンを食べるように命じられたのでしょうか?それも、「酵母入りのパンを食べた者は、すべてイスラエルから断たれる」と大変厳しく命じられたのでしょうか?ここには、明確な理由は記されていませんが、39節を見ますとこう記されています。「彼らはエジプトから持ち出した練り粉で、酵母を入れないパン菓子を焼いた。練り粉には酵母が入っていなかった彼らがエジプトから追放されたとき、ぐずぐずしていることはできなかったし、道中の食料を用意するいとまもなかったからである」。イスラエルの人々は、エジプトの国を去る際に、酵母を入れないパン菓子を焼きました。それは酵母によってパンが膨らむのを待っている時間がなかったからであります。また、酵母を入れたパンは腐りやすいので、道中の食料としては不向きであったからです。このようにイスラエルの人々は、過越の食事のときだけではなく、それからしばらくの間、酵母の入っていないパンを食べ続けたのです。主が、イスラエルの人々に、過越祭から七日間にわたって、酵母の入っていないパンを食べるように命じられたのは、このためであったわけですね。

 このように、主がイスラエルの人々に、酵母を入れないパンを食べるよう命じられた理由について考えてきましたが、もう少し、踏み込んで考えてみたいと思います。すなわち、新約聖書の教えに照らして考えてみたいと思います。といいますのも、イエス・キリストの使徒パウロは、第一コリント書の5章6節から8節でこう記しているからです。新約の305ページです。

 あなたがたが誇っているのは、よくない。わずかなパン種が練り粉全体を膨らませることを、知らないのですか。いつも新しい練り粉のままでいられるように、古いパン種をきれいに取り除きなさい。現に、あなたがたはパン種の入っていない者なのです。キリストが、わたしたちの過越の小羊として屠られたからです。だから、古いパン種や悪意と邪悪のパン種を用いないで、パン種の入っていない、純粋で真実のパンで過越祭を祝おうではありませんか。

 このパウロの言葉は、みだらな行いをしている教会員を教会の交わりから除外する、いわゆる教会訓練の文脈の中で語られています。ここでパウロは、教会を一つのパンにたとえて、腐敗をもたらすパン種として、みだらな行いをしている教会員を教会の交わりから除外するよう命じています。そして、純粋で真実なパンとして、神様を礼拝しようと呼びかけるのです(元の言葉には「過越祭」ではなく、「祭り」と記されている)。このパウロの教えに照らして、今夕の御言葉を考えるとき、イスラエルの人々が酵母の入っていないパンを食べるように命じられたのは、イスラエルの人々を純粋で真実な民として保つためであったと考えられるのです。そして、このことは、パウロが言っていますように、キリストが私たちの過越の小羊として屠られることによって実現したのです。イエス・キリストが十字架の上で、私たちの過越の小羊として血を流してくださったゆえに、私たちは純粋で真実のパンとして、神様を喜び祝う者たちとされたのです。ですから、私たちも「いつも新しい練り粉のままでいられるように、古いパン種を取り除」かなければならないのです。私たち一人一人が、キリストにあって新しく造られた者として、神を礼拝して歩むことが求められているのです。そのような歩みを神様が週の初めの日ごとに定めてくださっていることを、私たちは今夕はっきりと覚えたいと願います。

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