主の過越(すぎこし) 2015年5月17日(日曜 夕方の礼拝)
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主の過越(すぎこし)
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- 村田寿和 牧師
- 聖書
出エジプト記 12章1節~14節
聖書の言葉
12:1 エジプトの国で、主はモーセとアロンに言われた。
12:2 「この月をあなたたちの正月とし、年の初めの月としなさい。
12:3 イスラエルの共同体全体に次のように告げなさい。『今月の十日、人はそれぞれ父の家ごとに、すなわち家族ごとに小羊を一匹用意しなければならない。
12:4 もし、家族が少人数で小羊一匹を食べきれない場合には、隣の家族と共に、人数に見合うものを用意し、めいめいの食べる量に見合う小羊を選ばねばならない。
12:5 その小羊は、傷のない一歳の雄でなければならない。用意するのは羊でも山羊でもよい。
12:6 それは、この月の十四日まで取り分けておき、イスラエルの共同体の会衆が皆で夕暮れにそれを屠り、
12:7 その血を取って、小羊を食べる家の入り口の二本の柱と鴨居に塗る。
12:8 そしてその夜、肉を火で焼いて食べる。また、酵母を入れないパンを苦菜を添えて食べる。
12:9 肉は生で食べたり、煮て食べてはならない。必ず、頭も四肢も内臓も切り離さずに火で焼かねばならない。
12:10 それを翌朝まで残しておいてはならない。翌朝まで残った場合には、焼却する。
12:11 それを食べるときは、腰帯を締め、靴を履き、杖を手にし、急いで食べる。これが主の過越である。
12:12 その夜、わたしはエジプトの国を巡り、人であれ、家畜であれ、エジプトの国のすべての初子を撃つ。また、エジプト/のすべての神々に裁きを行う。わたしは主である。
12:13 あなたたちのいる家に塗った血は、あなたたちのしるしとなる。血を見たならば、わたしはあなたたちを過ぎ越す。わたしがエジプトの国を撃つとき、滅ぼす者の災いはあなたたちに及ばない。
12:14 この日は、あなたたちにとって記念すべき日となる。あなたたちは、この日を主の祭りとして祝い、代々にわたって守るべき不変の定めとして祝わねばならない。出エジプト記 12章1節~14節
メッセージ
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前回、私たちは、最後の災いの予告について学びました。最後の災いについては、11章4節から7節で次のように記されておりました。
モーセは言った。「主はこう言われた。『真夜中ごろ、わたしはエジプトの中を進む。そのとき、エジプトの国中の初子は皆、死ぬ。王座に座しているファラオの初子から、石臼をひく女奴隷の初子まで。また家畜の初子もすべて死ぬ。大いなる叫びがエジプト全土に起こる。そのような叫びはかつてなかったし、再び起こることもない。』しかし、イスラエルの人々に対しては、犬ですら、人に向かっても家畜に向かっても、うなり声を立てません。あなたたちはこれによって、主がエジプトとイスラエルを区別しておられることを知るでしょう」。
これまでの災いにおいても、主は御自分の民であるイスラエル人とファラオの民であるエジプト人とを区別してきました。例えば、疫病の災いにおいて、「エジプト人の家畜はすべて死んだが、イスラエルの人々の家畜は一頭も死ななかった」と記されておりました。また、雹の災いにおいても、「雹は、エジプト全土で野にいるすべてのもの、人も家畜も残らず打った。雹はまた、野のあらゆる草を打ち、野のすべての木を打ち砕いた。ただし、イスラエルの人々の住むゴシェンの地域には雹は降らなかった」と記されておりました。さらには、暗闇の災いにおいても、「三日間エジプト全土に暗闇が臨んだ」のに対して、「イスラエルの人々が住んでいる所にはどこでも光があった」と記されておりました。そして、最後の災いにおいても、主はファラオの民であるエジプト人と御自分の民であるイスラエルの人とを区別されるのです。すなわち、「エジプトの国中の初子が皆、死ぬ」のに対して、イスラエルの人々は何の被害も受けることはないのです。しかし、これまでとは違うことは、被害を受けないための準備が命じられているということであります。その準備が今夕の御言葉に記されているのです。
エジプトの国で、主はモーセとアロンにこう言われました。「この月をあなたたちの正月とし、年の初めの月としなさい。イスラエルの共同体全体に次のように告げなさい。『今月の十日、人はそれぞれ父の家ごとに、すなわち家族ごとに小羊を一匹用意しなければならない。もし、家族が少人数で小羊一匹を食べきれない場合には、隣の家族と共に、人数に見合うものを用意し、めいめいの食べる量に見合う小羊を選ばねばならない。その小羊は、傷のない一歳の雄でなければならない。用意するのは羊でも山羊でもよい。それは、この月の十四日まで取り分けておき、イスラエルの共同体の会衆が皆で夕暮れにそれを屠り、その血を取って、小羊を食べる家の入り口の二本の柱と鴨居に塗る。そしてその夜、肉を火で焼いて食べる。また、酵母を入れないパンを苦菜を添えて食べる。肉は生で食べたり、煮て食べてはならない。必ず、頭も四肢も内臓も切り離さずに火で焼かねばならない。それを翌朝まで残しておいてはならない。翌朝まで残った場合には、焼却する。それを食べるときは、腰帯を締め、靴を履き、杖を手にし、急いで食べる。これが主の過越である。その夜、わたしはエジプトの国のすべての初子を撃つ。また、エジプトのすべての神々に裁きを行う。わたしは主である。あなたたちのいる家に塗った血は、あなたたちのしるしとなる。血を見たならば、わたしはあなたたちを過ぎ越す。わたしがエジプトの国を撃つとき、滅ぼす者の災いはあなたたちに及ばない。この日は、あなたたちにとって記念すべき日となる。あなたたちは、この日を主の祭りとして祝い、代々にわたって守るべき不変の定めとして祝わねばならない」。
主はモーセとアロンに、「この月をあなたたちの正月とし、年の初めの月としなさい」と言われました。「この月」とは、13章3節によれば「アビブの月」でありました。アビブとは「大麦の穂」のことで、私たちが用いている暦でいえば、4月にあたります。主は、イスラエルの人々に、4月から、春の季節から一年を始めるように言われたのです。それはこれから起こる出来事が、イスラエルの人々にとって記念すべき出来事となるからです。主はこれから起こる出来事を記念して、代々にわたって守られるべき主の祭りを定められるです。
主が定められたこと、それは、「今月の十日、人はそれぞれ父の家ごとに、すなわち家族ごとに小羊を一匹用意しなければならない」ということでありました。その小羊は、「傷のない一歳の雄でなければ」なりませんでした。その小羊を、この月の十四日まで取り分けておき、イスラエルの共同体の会衆が皆で夕暮れに屠り、その血をとって、小羊を食べる家の入り口の二本の柱と鴨居に塗るように、主は命じられるのです。そして、この血こそが、主の民であることのしるしとなると言われるのであります。「血を見たならば、わたしはあなたたちを過ぎ越す。わたしがエジプトの国を撃つとき、滅ぼす者の災いはあなたたちに及ばない」と主は言われるのです。
この説教の始めに申しましたように、これまでの災いと同様、最後の災いにおいても、主はエジプト人とイスラエル人とを区別されるわけですが、なぜ、主はこの最後の災いにおいて、イスラエルの人々に準備をするように言われたのでしょうか?具体的に言えば、傷のない一歳の雄羊の血を二本の柱と鴨居に塗るよう命じられたのでしょうか?それは、エジプトの国中の初子がすべて死んでしまうという最後の災いが、主によって直接もたらされるからです。12節に、「その夜、わたしはエジプトの国を巡り、人であれ、家畜であれ、エジプトの国のすべて初子を撃つ。また、エジプトのすべての神々に裁きを行う。わたしは主である」とありますように、最後の災いは、主によって直接もたらされる裁きであるのです。初めの人アダムにあって罪を犯し、また自らも罪を犯している人間はだれも主の御前に立つことはできません。その点において、アブラハム、イサク、ヤコブの子孫であるイスラエルの人々も同じであります。それゆえ、主は、「あなたたちのいる家に塗った血は、あなたたちのしるしとなる。血を見たならば、わたしはあなたたちを過ぎ越す」との約束を与えられたのです。家の入り口に塗られた小羊の血そのものに、主の裁きを免れる力があるのではありません。主が、「あなたたちのいる家に塗った血は、あなたたちのしるしとなる。血を見たならば、わたしはあなたたちを過ぎ越す」と約束されたゆえに、その御言葉を信じて、そのとおりにしたイスラエルの人々は災いを免れることができたのです。つまり、イスラエルの人々は、主の御言葉を信じて従う信仰によって救われたわけです。もし、アブラハム、イサク、ヤコブの子孫であっても、御言葉に従って、傷のない一歳の雄羊を用意し、それを屠り、その血を家の入り口に塗らなかったならば、その者たちは滅ぼす者に滅ぼされていたはずであります。それは、その者たちが主の御言葉に従わないということによって、主の民であることを自ら否定したことになるからです。もちろん、イスラエルの人々の中に、モーセとアロンが告げる主の言葉に従わない人はいなかったと思います。イスラエルの人々は、主がこれまでくだされたエジプトに対する災いを通して、主がまさに自分たちと共におられる生きて働く神(ヤハウェ)であることを体験として知っていたからです。
主は、御自分の民に、主の過越を代々に守るべき不変の定めとして祝うよう言われておりました。しかし、私たちは、このような仕方で主の過越を祝ってはおりません。それは、主イエス・キリストが私たちの過越の小羊として屠られてくださったからです(一コリント5:7参照)。そして、復活して、今も活きておられるからであります。それゆえ、キリスト教会は主の過越に代わって、主イエス・キリストが制定された主の晩餐を代々に祝っているのです。今夕の御言葉で、イスラエルの人々は、主の御言葉に従って、家の入り口に小羊の血を塗ることによって救われましたが、この小羊こそ、世の罪を取り除く神の小羊であるイエス・キリストを指し示すものでありました。ですから、イスラエルの人々は、イエス・キリストの十字架の血潮によって、主の裁きから救われたと言えるのです。私たちも同じであります。私たちの主の御言葉に従って、主イエス・キリストを信じて、イエス・キリストが十字架で流してくださった血潮によって、救われているのです。世の終わりに起こる、いわゆる最後の審判において、主イエス・キリストの十字架の血潮がこの私の罪のためであったと信じる者は、主の約束の真実のゆえに、救われるのです。