最後の災いの予告 2015年5月10日(日曜 夕方の礼拝)

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最後の災いの予告

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
出エジプト記 11章1節~10節

聖句のアイコン聖書の言葉

11:1 主はモーセに言われた。「わたしは、なおもう一つの災いをファラオとエジプトにくだす。その後、王はあなたたちをここから去らせる。いや、そのときには、あなたたちを一人残らずここから追い出す。
11:2 あなたは、民に告げ、男も女もそれぞれ隣人から金銀の装飾品を求めさせるがよい。」
11:3 主はこの民にエジプト人の好意を得させるようにされた。モーセその人もエジプトの国で、ファラオの家臣や民に大いに尊敬を受けていた。
11:4 モーセは言った。「主はこう言われた。『真夜中ごろ、わたしはエジプトの中を進む。
11:5 そのとき、エジプトの国中の初子は皆、死ぬ。王座に座しているファラオの初子から、石臼をひく女奴隷の初子まで。また家畜の初子もすべて死ぬ。
11:6 大いなる叫びがエジプト全土に起こる。そのような叫びはかつてなかったし、再び起こることもない。』
11:7 しかし、イスラエルの人々に対しては、犬ですら、人に向かっても家畜に向かっても、うなり声を立てません。あなたたちはこれによって、主がエジプトとイスラエルを区別しておられることを知るでしょう。
11:8 あなたの家臣はすべてわたしのもとに下って来て、『あなたもあなたに従っている民も皆、出て行ってください』とひれ伏し頼むでしょう。その後で、わたしは出て行きます。」そして、モーセは憤然としてファラオのもとから退出した。
11:9 主はモーセに言われた。「ファラオは、あなたたちの言うことを聞かない。そのため、わたしはエジプトの国に大きな奇跡を行うようになる。」
11:10 モーセとアロンはファラオの前でこれらの奇跡をすべて行ったが、主がファラオの心をかたくなにされたため、ファラオはイスラエルの人々を国から去らせなかった。出エジプト記 11章1節~10節

原稿のアイコンメッセージ

 前回私たちは、暗闇の災いについて、また、モーセとファラオとの交渉が決裂した様子について学びました。10章28節、29節にこう記されておりました。

 ファラオが、「引き下がれ。二度とわたしの前に姿を見せないよう気をつけよ。今度会ったら、生かしてはおかない」と言うと、モーセは答えた。「よくぞ仰せになりました。二度とお会いしようとは思いません。」

 このようなやりとりの後で、モーセがすぐにファラオのもとから退出したと私たちは考えるのですが、実際、モーセがファラオの元から退出したのは、11章8節であります。11章8節に、「そして、モーセは憤然としてファラオのもとから退出した」とあるように、交渉が決裂してからもしばらく間、モーセはファラオのもとに留まるのです。そして、それは、主が示されたもう一つの災いを告げるためであったのです。

 主はモーセにこう言われました。「わたしは、なおもう一つの災いをファラオとエジプトにくだす。その後、王はあなたたちをここから去らせる。いや、そのときには、あなたたちを一人残らずここから追い出す。あなたは、民に告げ、男も女もそれぞれ隣人から金銀の装飾品を求めさせるがよい」。これまで、どのような災いによっても、ファラオはイスラエルの人々を去らせることはしませんでした。しかし、なおもう一つの災いをファラオとエジプトにくだされた後、王はイスラエルの民をエジプトから去らせるというのです。「去ってもよい」と許可を与えるだけではなく、「一人残らずエジプトから追い出す」ようになるのです。それは、主がモーセにあらかじめ告げておられた「大いなる審判」であります。7章1節から5節にこう記されておりました。

 主はモーセに言われた。「見よ、わたしは、あなたをファラオに対しては神の代わりとし、あなたの兄アロンはあなたの預言者となる。わたしが命じるすべてのことをあなたが語れば、あなたの兄アロンが、イスラエルの人々を国から去らせるよう、ファラオに語るであろう。しかし、わたしはファラオの心をかたくなにするので、わたしがエジプトの国でしるしや奇跡を繰り返したとしても、ファラオはあなたたちの言うことを聞かない。わたしはエジプトに手を下し、大いなる審判によって、わたしの部隊、わたしの民イスラエルの人々をエジプトの国から導き出す。わたしがエジプトに対して手を伸ばし、イスラエルの人々をその中から導き出すとき、エジプト人は、わたしが主であることを知るようになる。」

 このように今夕の御言葉で予告されているもう一つの災いは、主が御手をもって下される大いなる審判であり、最後の災い(打撃)であるのです。

 主は今夕の御言葉でモーセに、イスラエルの民がエジプトを去る際に、「男も女もそれぞれ隣人(のエジプト人)から金銀の装飾品を求めさせるがよい」と言っています。このことも3章21節、22節で主がモーセに言われていたことでありました。

 「そのとき、わたしは、この民にエジプト人の好意を得させるようにしよう。出国に際して、あなたたちは何も持たずに出ることはない。女は皆、隣近所や同居の女たちの金銀の装身具や外套を求め、それを自分の息子、娘の身に着けさせ、エジプト人からの分捕り物としなさい。」

 ここで、主は、イスラエルの民に金銀の装飾品を求めることだけでなく、それを「エジプト人からの分捕り物としなさい」と命じておられます。「分捕り物」とは戦いに勝利した者が敗北した者から奪う物でありますが、主はイスラエルにエジプト人の好意を得させることによって、平和のうちに、イスラエルにエジプト人からの分捕り物を与えられるのです。そして、このことは、イスラエルの民がエジプトに勝利した者として、エジプトを出て行くということを意味しているのです。

 今夕の御言葉の3節には、「モーセその人もエジプトの国で、ファラオの家臣や民に大いに尊敬を受けていた」と記されています。ファラオの家臣も、またファラオの民であるエジプト人も、モーセを偉大な人物と見なしていたのです。では、なぜ、彼らはモーセの言うことを聞かなかったのでしょうか。彼らは聞かなかったというよりも、聞けなかったのです。なぜなら、自分たちの王であるファラオが、モーセを偉大な人物とは見なしていなかったからです。そして、このことのゆえに、ファラオの家臣も、そしてファラオの民であるエジプト人も大いなる審判を受けることになるのです。

 主の御言葉を受けたモーセは、ファラオにこう言いました。「主はこう言われた。『真夜中ごろ、わたしはエジプトの中を進む。そのとき、エジプトの国中の初子は皆、死ぬ。王座に座しているファラオの初子から、石臼をひく女奴隷の初子まで。また家畜の初子もすべて死ぬ。大いなる叫びがエジプト全土に起こる。そのような叫びはかつてなかったし、再び起こることもない。』しかし、イスラエルの人々に対しては、犬ですら、人に向かっても家畜に向かっても、うなり声を立てません。あなたたちはこれによって、主がエジプトとイスラエルを区別しておられることを知るでしょう。あなたの家臣はすべてわたしのもとに下って来て、『あなたもあなたに従っている民も皆、出て行ってください』とひれ伏し頼むでしょう。その後で、わたしは出て行きます」。大いなる審判と言われる最後の災いは、直接、主なる神によってもたらされます。主は、「真夜中ごろ、わたしはエジプトの中を進む」と言われるのです。そして、「そのとき、エジプトの国中の初子は皆、死ぬ」と言うのです。「初子」とは最初の子供であり、命と力の初穂でありました(創世49:3参照)。主はエジプト人の命と力の初穂である初子を皆、撃たれるのです。そのことに身分の区別はありません。主は王座に座しているファラオの初子から、石臼をひく、最も身分の低い女奴隷の初子まで、等しく撃たれるのです。そればかりか、主は家畜の初子をも撃たれるのであります。このことは、子供のいないエジプトの人の家庭であっても、主の裁きから洩れることはないことを私たちに教えております。それゆえ、大いなる叫びはエジプト全土から起こるのです。かつてなかったし、再び起こることもないような大いなる叫びがエジプト全土に起こるのです。しかし、ここでも、主はエジプト人と御自分の民イスラエルを区別なされます。「イスラエルの人々に対しては、犬ですら、人に向かっても家畜に向かっても、うなり声を立たてない」というのです。「犬ですらうなり声を立てない」とは、「何の被害も受けない」ということであります。このような区別によって、これから起こる初子の死が、ファラオとエジプトに対する大いなる審判であることをエジプト人は知るようになるのです。そして、そのとき、ファラオの家臣たちは、ファラオに願い出ることもなく、直接、モーセのもとに来て、「あなたもあなたに従っている民も皆、出て行ってください」と頼むようになると言うのです。かつて、いなごの災いの際に、ファラオの家臣たちが王に進言したことが10章7節に記されていました。

 ファラオの家臣が王に進言した。「いつまで、この男はわたしたちを陥れる罠となるのでしょうか。即刻あの者たちを去らせ、彼らの神、主に仕えさせてはいかがでしょう。エジプトが滅びかかっているのが、まだお分かりになりませんか。」 

 このように、ファラオに伺いを立てていた家臣たちが、最後の災いの後では、ファラオをないがしろにして、直接、モーセにイスラエルの民と共にエジプトから出て行くよう、ひれ伏し頼むようになると言うのです。そして、その後で、モーセはエジプトから出て行くと言うのであります。ファラオが許さなくとも、フェラオの家臣たちの願いを受けて、自分たちは出て行くと告げるのです。

 モーセは憤然として、激しく怒って、ファラオのもとから退出するのですが、このモーセの怒りについて、ある人は、「この時、モーセを満たしてたのは神の怒りである」と解説しております。これまで主はモーセを通して、様々な奇跡を行ってきました。その奇跡によって、ファラオは悔い改めたかのように見えましたが、結局は、心を頑なにしてイスラエルの民を去らせることはありませんでした。そのように、ファラオは、「わたしの民を去らせて、わたしに仕えさせよ」という主の命令に背き続けて来たのです。そして、そのファラオの罪に対する裁きが、ファラオだけではない、ファラオの家臣とその民であるエジプト人に下ることになるのです。そのファラオの罪に対する神様の怒りがモーセの心を満たしていたと言うのであります。

 今夕の御言葉で予告されている「大いなる審判」は、世の終わりに起こる、いわゆる最後の審判を前もって指し示すものと言うことができます。聖書は、すべての人が神の御前に滅ぼされてもしかたない罪人であると教えています。私たちは神様の怒りに値する者たちであるのです。しかし、そのような私たちを救うために、神様は御子イエス・キリストをお遣わしくださり、十字架につけてくださいました。神様は私たち罪人に対する御自分の怒りを、十字架のイエス・キリストのうえに下されたのです(一テサロニケ1:10参照)。それゆえ、イエス・キリストを信じる者は、神の怒りを受けることなく、罪赦されて、神の民イスラエルの一員となることができるのです。そのようにして、私たちは、最後の審判においても何の害をも受けない者とされたのです。いや、それどころか、最後の審判を通して、罪からの完全な救いにあずかることができるのです。なぜなら、最後の審判者として来られるお方は、私たちの罪のために死んで、復活してくださった主イエス・キリストであるからです。それゆえ、主イエス・キリストを信じる者にとって、主の日は恐るべき裁きの日ではなくて、主イエスにお会いすることのできる喜びの日であるのです。この喜びを、私たちは主の日の礼拝ごとに与えられているのです。そして、この喜びを、神様は一人でも多くの人に与えたいと願っておられるのです(一ヨハネ1:1~4参照)。

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