暗闇の災い 2015年4月19日(日曜 夕方の礼拝)
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暗闇の災い
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- 村田寿和 牧師
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出エジプト記 10章21節~29節
聖書の言葉
10:21 主はモーセに言われた。「手を天に向かって差し伸べ、エジプトの地に闇を臨ませ、人がそれを手に感じるほどにしなさい。」
10:22 モーセが手を天に向かって差し伸べると、三日間エジプト全土に暗闇が臨んだ。
10:23 人々は、三日間、互いに見ることも、自分のいる場所から立ち上がることもできなかったが、イスラエルの人々が住んでいる所にはどこでも光があった。
10:24 ファラオがモーセを呼び寄せて、「行って、主に仕えるがよい。ただし、羊と牛は残しておけ。妻子は連れて行ってもよい」と言うと、
10:25 モーセは答えた。「いいえ。あなた御自身からも、いけにえと焼き尽くす献げ物をいただいて、我々の神、主にささげたいと思っています。
10:26 我々の家畜も連れて行き、ひづめ一つ残さないでしょう。我々の神、主に仕えるためにその中から選ばねばなりません。そこに着くまでは、我々自身どれをもって主に仕えるべきか、分からないのですから。」
10:27 しかし、主がまたファラオの心をかたくなにされたので、ファラオは彼らを去らせようとはしなかった。
10:28 ファラオが、「引き下がれ。二度とわたしの前に姿を見せないよう気をつけよ。今度会ったら、生かしてはおかない」と言うと、
10:29 モーセは答えた。「よくぞ仰せになりました。二度とお会いしようとは思いません。」出エジプト記 10章21節~29節
メッセージ
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今夕は、出エジプト記の10章21節から29節より、御言葉の恵みにあずかりたいと願っております。
主はモーセにこう言われました。「手を天に向かって差し伸べ、エジプトの地にやみを臨ませ、人がそれを手に感じるほどにしなさい」。ここで、主はファラオに対して何の警告もなしてに、エジプトの地に闇を臨ませるよう命じられます。このことは、ファラオが悔い改め罪の赦しを求めながらも、心を頑なにして再び罪を犯したことと関係があります。前回私たちは、「いなごの災い」について学びましたが、そこでファラオはモーセとアロンにこう言いました。10章16節、17節であります。「あなたたちの神、主に対し、またあなたたちに対しても、わたしは過ちを犯した。どうか、もう一度だけ過ちを赦して、あなたたちの神、主に祈願してもらいたい。こんな死に方だけはしないで済むように」。ファラオはこのように言っていたにもかかわらず、イスラエルの人々を去らせませんでした。ファラオはそのようにして、主に対しても、また、モーセたちに対しても、罪を重ねるのです。そのようなファラオに対する裁きとして、主はモーセに、エジプトの地に闇を臨ませるよう命じられるのであります。
モーセが手を天に向かって差し伸べると、三日間エジプト全土に暗闇が臨みました。この暗闇については、諸説がありますが、多くの研究者が「ハムシン」と呼ばれる砂嵐と結びつけて説明しています。エジプトでは、「ハムシン」という砂嵐によって太陽の光が三日ほど遮られてしまうことがあるそうです。そうかも知れませんが、しかし、私たちがここで心に留めておくべきことは、この暗闇が主によってもたらされた裁きとしての意味を持つということであります。そのことは、エジプト人が三日間、互いに見ることも、自分のいる場所から立ち上がることもできなかったのに対して、イスラエルの人々が住んでいる所にはどこでも光があったことによって分かります。これまでの災いと同じように、神様はファラオの民と御自分の民とを区別しておられるのです。
「三日間エジプト全土に暗闇が臨んだ」とありますが、これは昼から夜への一日の移り変わりが止まってしまったということではありません。何らかの仕方で、日の光が遮られてしまったのです。それは多くの研究者が推測するように砂嵐であったかもしれませんし、黒雲であったかも知れません。皆さんも、黒雲によって太陽が遮られ、真っ暗になってしまうことを体験したことがあると思います。それが三日も続いた、しかもその闇は手に感じることができるほど、互いに見ることも、自分のいる場所から立ち上がることもできないほどに、深い闇であったのです。このことは、太陽を神と信じるエジプト人にとって、大きな衝撃であったと思います。エジプト人は、多くの神々がいると信じていましたが、その中でも有力であったのが太陽の神ラーでありました。ファラオは、太陽の神ラーの息子と信じられていたのです。しかし、主はその太陽を砂嵐か黒雲によって隠してしまわれたのです。このことが偶然ではなく、主による災いであることは、イスラエルの人々が住んでいる所に光りがあったことから明らかです。ですから、暗闇の災いは、ファラオとエジプト人が信じる太陽神ラーに対する主の勝利であり、また、裁きであったのです。
この災いを受けて、ファラオはモーセを呼び寄せてこう言いました。「行って、主に仕えるがよい。ただし、羊と牛は残しておけ。妻子は連れて行ってもよい」。前回の「いなごの災い」の時に、モーセが、「若い者も年寄りも一緒に参ります。息子も娘も羊も牛も参ります。主の祭りは我々全員のものです」と言うと、ファラオは、「行くならば、男たちだけで行って、主に仕えるがよい」と言って、妻子を連れて行くことを許しませんでした。しかし、ここでは、「妻子は連れて行ってもよい」と譲歩しています。ただし、「羊と牛は残しておけ」と条件をを付けるのです。「羊と牛」は遊牧民であるイスラエルの人々にとって財産であります。ファラオは、エジプトに財産を置いて、主に仕えに行けと言うのです。このようにして、ファラオは、イスラエルの人々が主に仕えた後で、再びエジプトに戻って来るようにするのです。あるいは、エジプト人の家畜はことごとく死んでしまいましたから、イスラエルの人々の家畜を自分たちのものにしようとしたのかも知れません。しかし、モーセはこう答えました。「いいえ。あなた自身からも、いけにえと焼き尽くす献げ物をいただいて、我々の神、主にささげたいと思っています。我々の家畜も連れて行き、ひづめ一つ残さないでしょう。我々の神、主に仕えるためにその中から選ばねばなりません。そこに着くまでは、我々自身どれをもって主に仕えるべきか、分からないのですから」。ここでモーセは、ファラオに対して痛烈な皮肉を語っています。「羊と牛は残しておけ」と言って、イスラエルの人々の家畜を自分たちのものとしようとするファラオに対して、モーセは「あなたからも家畜をいただいて、主に献げたい」と言うのです。これは太陽神ラーの息子と考えられていたファラオにとっては、侮辱以外の何ものでもありませんでした。しかし、主からの暗闇によって、太陽が隠されてしまった現実を前にすれば、それは認めざるを得ないことでもあったのです。モーセは、自分たちの家畜をひずめの動物一頭も残さずに連れて行くと語ります。それは、その場所に着くまで、どれをもって主に仕えたらよいか分からないからであると言うのです。どの家畜を何頭、いけにえとしてささげればよいか分からないので、すべての家畜を連れて行くと言うのです。しかし、ファラオは、主に仕えることを口実として、イスラエルの人々が財産を携えて、エジプトから脱出しようとしていることを見抜いておりました。それで、ファラオはイスラエルの人々を去らせようとはしなかったのです。聖書は、「しかし、主がまたファラオの心をかたくなにされたので、ファラオは彼らをさらせようとはしなかった」と記しています。ファラオは自分の意志によって、イスラエルの人々を去らせないのですが、その背後には主のお働きがあったのです。主は御自分が憐れみたいと思う物を憐れみ、かたくなにしたいと思う者をかたくなにされるお方であるのです(ローマ9:18参照)。
ファラオは、モーセにこう言いました。「引き下がれ。二度とわたしの前に姿を見せないよう気をつけよ。今度会ったら、生かしてはおかない」。それに対して、モーセはこう答えました。「よくぞ仰せになりました。二度とお会いしようとは思いません」。このように長く続いたモーセとファラオの交渉は決裂という形で終わりを迎えることになるのです。そして、この交渉の決裂によって、ファラオとその民であるエジプト人は最後の災いを招くことになるのです。
今夕の「暗闇の災い」は、主が裁きによって、御自分の民とそうでない者を区別されることを視覚的に教えてくれます。そして、この区別を、主イエス・キリストが再び来られる、主の日において、全人類が目撃することになるのです。神様は今、「悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださ」います。神様は御自分の民であるか、ないかを区別することなく、共通に目恵みを与えてくださっているのです。しかし、神様は、主の日において、御自分の民とそうでない者たちとを完全に区別されるのです。神様は御子イエス・キリストを信じる御自分の民を永遠の光に、そうでない者たちを永遠の闇に引き渡されるのです。なぜ、イエス・キリストを信じる者たちは、永遠の闇に引き渡されることがないのか?それは、イエス・キリストが十字架の上で、御自分の民の罪を担い、代わって裁きを受けてくださったからです。マルコによる福音書15章33節、34節にこう記されています。「昼の十二時になると、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。三時にイエスは大声で叫ばれた。『エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。』これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である」。エジプト全土に三日間暗闇が臨んだように、イエス様が十字架につけられたとき、三時間、全地は暗くなったのです。このとき、イスラエルの住むパレスチナの地をも暗闇は臨んだのです。そのことは、十字架につけられたイエス様のうえに、イスラエルの人々を含めた全人類の罪の裁きが臨んでいたことを教えています。その全人類の罪を担って、イエス様は、神から見捨てられるという死を死んでくださったのです。そして、聖書は、神様がこのイエス・キリストを死から三日目に栄光の体で復活させられたこと、そして、イエス・キリストの十字架の死が、自分の罪のためであったことを信じる者には、死んでも生きる永遠の命が与えられることを教えているのです。ですから、私たちは心を頑なにしてはならないのです。私たちは聖霊なる主が、私たちの頑なな心を柔らかな心に変えてくださるよう祈るべきであるのです。そして、イエス様が、私たちが受けるべき罪の裁きを代わって受けてくださったことを信じて、歩むべきであるのです。私たちは世の光であるイエス・キリストを信じる光の子として、イエス・キリストの福音を証しし、宣べ伝えて行きたいと願います。