雹の災い 2015年3月15日(日曜 夕方の礼拝)
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雹の災い
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- 村田寿和 牧師
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出エジプト記 9章13節~35節
聖書の言葉
9:13 主はモーセに言われた。「明朝早く起き、ファラオの前に立って、彼に言いなさい。ヘブライ人の神、主はこう言われた。『わたしの民を去らせ、わたしに仕えさせよ。
9:14 今度こそ、わたしはあなた自身とあなたの家臣とあなたの民に、あらゆる災害をくだす。わたしのような神は、地上のどこにもいないことを、あなたに分からせるためである。
9:15 実際、今までにもわたしは手を伸ばし、あなたとあなたの民を疫病で打ち、地上から絶やすこともできたのだ。
9:16 しかしわたしは、あなたにわたしの力を示してわたしの名を全地に語り告げさせるため、あなたを生かしておいた。
9:17 あなたはいまだに、わたしの民に対して高ぶり、彼らを去らせようとしない。
9:18 見よ、明日の今ごろ、エジプト始まって以来、今日までかつてなかったほどの甚だ激しい雹を降らせる。
9:19 それゆえ、今、人を遣わして、あなたの家畜で野にいるものは皆、避難させるがよい。野に出ていて家に連れ戻されない家畜は、人と共にすべて、雹に打たれて死ぬであろう』と。」
9:20 ファラオの家臣のうち、主の言葉を畏れた者は、自分の僕と家畜を家に避難させたが、
9:21 主の言葉を心に留めなかった者は、僕と家畜を野に残しておいた。
9:22 主はモーセに言われた。「あなたの手を天に向かって差し伸べ、エジプト全土に、人にも家畜にも、野のあらゆる草の上にも雹を降らせるがよい。」
9:23 モーセが天に向かって杖を差し伸べると、主は雷と雹を下され、稲妻が大地に向かって走った。主はエジプトの地に雹を降らせられた。
9:24 雹が降り、その間を絶え間なく稲妻が走った。それは甚だ激しく、このような雹が全土に降ったことは、エジプトの国始まって以来かつてなかったほどであった。
9:25 雹は、エジプト全土で野にいるすべてのもの、人も家畜も残らず打った。雹はまた、野のあらゆる草を打ち、野のすべての木を打ち砕いた。
9:26 ただし、イスラエルの人々の住むゴシェンの地域には雹は降らなかった。
9:27 ファラオは人を遣わし、モーセとアロンを呼び寄せて言った。「今度ばかりはわたしが間違っていた。正しいのは主であり、悪いのはわたしとわたしの民である。
9:28 主に祈願してくれ。恐ろしい雷と雹はもうたくさんだ。あなたたちを去らせよう。これ以上ここにとどまることはない。」
9:29 モーセは言った。「町を出たら、早速両手を広げて主に祈りましょう。雷はやみ、雹はもう降らないでしょう。あなたはこうして、大地が主のものであることを知るでしょう。
9:30 しかし、あなたもあなたの家臣も、まだ主なる神を畏れるに至っていないことを、わたしは知っています。」
9:31 亜麻と大麦は壊滅した。大麦はちょうど穂の出る時期で、亜麻はつぼみの開く時期であったからである。
9:32 小麦と裸麦は壊滅を免れた。穂の出る時期が遅いからである。
9:33 モーセは、ファラオのもとから退出し町を出ると、両手を広げて主に祈った。すると、雷も雹もやみ、大地に注ぐ雨もやんだ。
9:34 ファラオは、雨も雹も雷もやんだのを見て、またもや過ちを重ね、彼も彼の家臣も心を頑迷にした。
9:35 ファラオの心はかたくなになり、イスラエルの人々を去らせなかった。主がモーセを通して仰せになったとおりである。出エジプト記 9章13節~35節
メッセージ
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前回、私たちは、「疫病の災いとはれ物の災い」について学びました。今夕は、第七の災いである「雹の災い」についてご一緒に学びたいと願います。
主はモーセにこう言われました。「明朝早く起き、ファラオの前に立って、彼に言いなさい。ヘブライ人の神、主はこう言われた。『わたしの民を去らせ、わたしに仕えさせよ。今度こそ、わたしはあなた自身とあなたの家臣とあなたの民に、あらゆる災害をくだす。わたしのような神は、地上のどこにもいないことを、あなたに分からせるためである。実際、今までにもわたしは手を伸ばし、あなたとあなたの民を疫病で打ち、地上から絶やすこともできたのだ。しかしわたしは、あなたにわたしの力を示してわたしの名を全地に語り告げさせるため、あなたを生かしておいた。あなたはいまだに、わたしの民に対して高ぶり、彼らを去らせようとしない。見よ、明日の今ごろ、エジプト始まって以来、今日までかつてなかったほどの甚だ激しい雹を降らせる。それゆえ、今、人を使わして、あなたの家畜で野にいるものは皆、非難させるがよい。野に出ていて家に連れ戻されない家畜は、人と共にすべて、雹に打たれて死ぬであろう』と」。
「わたしの民を去らせ、わたしに仕えさせよ」。これはこれまでに何度も語られてきたファラオに対する主の命令であります。そして、主はファラオがこの命令に従うように、「今度こそ、わたしはあなた自身とあなたの家臣とあなたの民に、あらゆる災害をくだす」と言われるのです。前回、「はれ物の災い」のところ見ましたように、はれ物の災いはファラオにはおよびませんでした。しかし、主は、これからはファラオ自身にも災害をくだすと言われるのです。それは、ヘブライ人の神、主のような神が、地上のどこにもいないことを、ファラオに分からせるためでありました。すなわち、主なる神は、一民族の神に留まるお方ではなく、全世界の民の神でもあられるのです。それにしても、なぜ、主なる神は、ファラオに対して、何度も災いをくだされ、説得しようとされるのでしょうか?そのような問いに、15、16節は答えてくれています。「実際、今までにもわたしは手を伸ばし、あなたとあなたの民を疫病で打ち、地上から絶やすこともできたのだ。しかしわたしは、あなたにわたしの力を示してわたしの名を全地に語り告げさせるため、あなたを生かしておいた」。神様は生殺与奪の権を持つお方として、ファラオと民を疫病で滅ぼすことができるお方であります。しかし、そうしなかったのは、ファラオに御自分の力を示し、御自分の名を全地に語り告げさせるためであったのです。主はこれまで、血の災い、蛙の災い、ぶよの災い、あぶの災い、疫病の災い、はれ物の災いをくだすことによって、御自分の力を示してきたわけです。しかし、ファラオはいまだに、主の民であるイスラエルに対して高ぶり、彼らを去らせようとはしないのです。イスラエルは主の民であるにもかかわらず、ファラオはイスラエルを自分の奴隷にし続けようとするのです。それゆえ、主は、明日の今ごろ、エジプト始まって以来の激しい雹を降らせられるのです。雹とは、積乱雲から降る直径5ミリメートル以上の氷の粒のことでありますが、このときの雹はどうやら大きい雹であったようです。と言いますのも、この雹によって打たれた家畜や人は死ぬであろうと警告されているからであります。ちなみに、日本でも1917年に現在の熊谷市で、直径約30センチメートル、重さ3.4キログラムの雹が降ったとの記録が残されています。かぼちゃぐらいの大きさの雹が降って来たのです。そこまで大きくなくても、ゴルフボールぐらいの雹が激しく降って来たのではないかと思います。主は、雹の災いを告げると共に、「人を遣わして、あなたの家畜で野にいるものは皆、避難させるがよい。野に出ていて家に連れ戻されない家畜は、人と共にすべて、雹に打たれて死ぬであろう」と言われました。これまでの災いは人が死ぬということはありませんでした。しかし、この雹の災いでは、人の死がもたらされるのです。それゆえ、主は、エジプトの民であっても、御自分を畏れる者たちを救おうとなされるのであります。ここから私たちは、主なる神がイスラエルの民族だけの神ではなく、全世界の民の神であられることを教えられるのです。そして、この主の言葉を畏れた者は、自分の僕と家畜を家に避難させることにより、雹の被害で僕と家畜の命を失うことはなかったのです。
次の日となり、主はモーセにこう言われました。「あなたの手を天に向かって差し伸べ、エジプト全土に、人にも家畜にも、野のあらゆる草の上にも雹を降らせるがよい」。そして、モーセが天に向かって杖を差し伸べると、主は雷と雹をくだされ、稲妻が大地に向かって走りました。雹は積乱雲から降ってくるわけですから、そこには雷が伴ったわけです。「それは甚だ激しく、このような雹が全土に降ったことは、エジプトの国始まって以来かつてなかったほどであった」と記されていますが、エジプトはその気候から言って、あまり雹が降らなかったと言われています。そのようなエジプトに住む人々にとって、天から降ってくる雹は、神様からくだされる災いであったのです。雹は、エジプト全土で野にいるすべてのもの、人も家畜も残らず撃ちました。それによって負傷者や死者が出たかもしれません。また、雹は野のあらゆる草を打ち、すべての記を打ち砕きました。ただし、イスラエルの人々が住むゴシェンの地域には雹は降らなかったのです。このことは、この雹が、神様によってくだされた裁きであったことを私たちに教えているのです。
ファラオは人を遣わし、モーセとアロンを呼び寄せてこう言いました。「今度ばかりはわたしが間違っていた。正しいのは主であり、悪いのはわたしとわたしの民である。主に祈願してくれ。恐ろしい雷と雹はもうたくさんだ。あなたたちを去らせよう。これ以上ここにとどまることはない」。ここでファラオは、「わたしが間違っていた」と自分の罪を認めております。「正しいのは主であり、悪いのはわたしとわたしの民である」とさえ言うのです。これは大きな変化であります。ファラオは恐ろしい雷と雹に恐れ、「あなたたちを去らせよう」と約束するのです。ちなみに、ここで「雷」と訳されている元の言葉は「神の声」であります。日本語の雷も「神鳴」でありまして、雷は神の声として恐れられていたのです。雷と雹、これは神様の顕現と裁きを現しているわけです。それにファラオは耐えきれず、自分の罪を認め、モーセに執り成しの祈りを願うのです。
それに対して、モーセはこう言いました。「町を出たら、早速両手を広げて主に祈りましょう。雷はやみ、雹はもう降らないでしょう。あなたはこうして、大地が主のものであることを知るでしょう。しかし、あなたもあなたの家臣も、まだ主なる神を畏れるに至っていないことを、わたしは知っています」。モーセは、ファラオの願いを聞き入れ、主に祈ることを約束しました。しかし、それはファラオが主なる神を畏れるに至ったと考えたからではありません。むしろ、そのことによって、ファラオに、大地が主のものであることを示すためであったのです。雷と雹を下される神様は、雷と雹をやめさせるお方であるのです。
モーセは、ファラオのもとから退出し町を出ると、両手を広げて主に祈りました。すると、雷も雹もやみ、大地に注ぐ雨もやみました。ファラオは、雨も雹も雷もやんだのを見て、またもや過ちを重ね、彼も彼の家臣も心を頑なにしたのです。「今度ばかりはわたしが間違っていた」と語ったファラオは、またもや間違いを犯すのです。ファラオは、「あなたたちを去らせよう。これ以上ここにとどまることはない」と約束しながら、またもやイスラエルの人々を去らせなかったのです。そのようにして、ファラオは、モーセが言ったとおり、自分が主なる神を畏れるに至っていないことを暴露してしまったのです。
今夕の御言葉から私たちが考えさせられますことは、「主なる神を畏れる」とはどのようなことか?ということです。そのことを考える手がかりとなるのは、20節、21節の御言葉であります。「ファラオの家臣のうち、主の言葉を畏れた者は、自分の僕と家畜を家に避難させたが、主の言葉を心に留めなかった者は、僕と家畜を残しておいた」。ここから教えられることは、主なる神を畏れるとは主なる神の言葉を畏れることであり、その言葉に従うことであるということです。私たちが神様を畏れる者であるかどうか、それは私たちが主の御言葉に従う者であるかどうかによって示されるのです。ファラオは、自分の罪を告白いたしました。ファラオは、「今度ばかりはわたしが間違っていた。正しいのは主であり、悪いのはわたしとわたしの民である」と罪を告白しました。そして、「あなたたちを去らせよう」と主の命令に聞き従うことを約束したのです。しかし、実際には、雷と雹がやむと、彼は心をかたくなにし、主の言葉に従うことを拒絶するのです。そのようにして、罪に罪を重ねるのであります。このファラオの姿は、私たちの姿でもないでしょうか?主の言葉に従うことを約束しながらも、心を頑なにして主の言葉に聞き従おうとしないのは、私たちも同じではないかと思わされるのです。そのような私たちのために、神様は、御子イエス・キリストを与えてくださいました。イエス様は、十字架に上げられることによって、私たちに対する神の愛を示してくださいました。そして、私たちに御自分の聖霊を与えることによって、神様への愛を私たちにも与えてくださったのです。そのようにして、私たちを神様を畏れる者、神様の御言葉に従う者としてくださったのです。それは、私たちが神様の御言葉に完全に従うことができるということではありません。しかし、それでも、私たちはイエス・キリストの愛、父なる神への愛をいただいたものとして、神様の御言葉に従って行こうとするのです。罪を犯しては悔い改め、何度も主に従って歩もうと努力する者となるのです。そのような主を畏れる心を、私たちはイエス・キリストを通して与えられているのです。