疫病の災いとはれ物の災い 2015年3月08日(日曜 夕方の礼拝)
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疫病の災いとはれ物の災い
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- 村田寿和 牧師
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出エジプト記 9章1節~12節
聖書の言葉
9:1 主はモーセに言われた。「ファラオのもとに行って彼に告げなさい。ヘブライ人の神、主はこう言われた。『わたしの民を去らせ、わたしに仕えさせよ』と。
9:2 もしあなたが去らせるのを拒み、なおも彼らをとどめておくならば、
9:3 見よ、主の手が甚だ恐ろしい疫病を野にいるあなたの家畜、馬、ろば、らくだ、牛、羊に臨ませる。
9:4 しかし主は、イスラエルの家畜とエジプトの家畜とを区別される。イスラエルの人々の家畜は一頭たりとも死ぬことはない。
9:5 主はまた時を定め、明日、この地でこの事を行われる。」
9:6 翌日、主はこの事を行われたので、エジプト人の家畜はすべて死んだが、イスラエルの人々の家畜は一頭も死ななかった。
9:7 ファラオが人を遣わして見させたところ、イスラエルの家畜は一頭といえども死んではいなかった。それでも、ファラオの心は頑迷になり民を去らせなかった。
9:8 主はモーセとアロンに言われた。「かまどのすすを両手にいっぱい取って、モーセはそれをファラオの前で天に向かってまき散らすがよい。
9:9 それはエジプト全土を覆う細かい塵となって、エジプト全土の人と家畜に降りかかり、膿の出るはれ物となるであろう。」
9:10 二人はかまどのすすを取ってファラオの前に立ち、モーセがそれを天に向かってまき散らした。すると、膿の出るはれ物が人と家畜に生じた。
9:11 魔術師もこのはれ物のためにモーセの前に立つことができなかった。はれ物は魔術師のみならず、エジプト人すべてに生じた。
9:12 しかし、主がファラオの心をかたくなにされたので、彼は二人の言うことを聞かなかった。主がモーセに仰せになったとおりである。出エジプト記 9章1節~12節
メッセージ
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前回、私たちは第四の災いである「あぶの災い」について学びました。ファラオは、「よし、わたしはあなたたちを去らせる。荒れ野であなたたちの神、主に犠牲をささげるがよい」と言ったにもかかわらず、あぶが飛び去り、一匹もいなくなると、今度もまた心を頑迷にして民を去らせませんでした。モーセから、「二度と、主に犠牲をささげるために民を去らせないなどと言って、我々を欺かないでください」と釘を刺されていたにもかかわらず、ファラオは今度もまた心を頑なにして民を去らせなかったのです。今夕の御言葉はその続きであります。
主はモーセにこう言われました。「フェラオのもとに行って彼に告げなさい。ヘブライ人の神、主はこう言われた。『わたしの民を去らせ、わたしに仕えさせよ』と。もしあなたが去らせるのを拒み、なおも彼らをとどめておくならば、見よ、主の手が甚だ恐ろしい疫病を野にいるあなたの家畜、馬、ろば、らくだ、牛、羊に臨ませる。しかし主は、イスラエルの家畜とエジプトの家畜とを区別される。イスラエルの人々の家畜は一頭たりとも死ぬことはない。主はまた時を定め、明日、この地でこの事を行われる」。神様はかつて何度もモーセを説得したように、エジプトの王ファラオをも説得なされます。神様は、ファラオが二度もイスラエルの民を去らせるという約束を破ったにもかかわらず、再び、モーセを通して、「わたしの民を去らせ、わたしに仕えさせよ」と言われるのです。そして、もしファラオが主の民であるイスラエルの人々を去らせず、自分のもとにとどめておくならば、疫病を野にいる家畜に臨ませると警告なされるのです。ここでは、エジプト人の家畜が災いの対象とされております。家畜は大切な財産でありましたから、エジプト人の財産が災いの対象とされていると言えるのです。ここでも、主はイスラエルの家畜とエジプトの家畜を区別なされます。主は、イスラエルの家畜は一頭たりとも死ぬことはないと言われるのです。そのことは、エジプトの家畜は死ぬことを意味しております。エジプトの家畜に臨む疫病は、死に至る病であるということであります。このような甚だ恐ろしい疫病が主の御手によってもたらされるのです。主はこのことが偶然に起こったことでないことを示すために、明日という時を定められました。そして、ここには記されておりませんが、モーセはファラオの宮殿に行って、この主の言葉を語り、そして、ファラオは、一日の猶予を与えられていたにもかかわらず、イスラエルの民を去らせようとはしませんでした。それで、翌日、主は、御自分の御言葉どおりに事を行われたのです。主の御手によってもたらされた甚だ恐ろしい疫病により、エジプトの人の家畜はすべて死に、イスラエルの人々の家畜は一頭も死ななかったのです。このことは、「あぶ」と訳されていた「有害な昆虫の群れ」がイスラエルの人々の住むゴシェン地方に入り込まなかったことと関係しているのかも知れません。この甚だ恐ろしい疫病が家畜の血を吸うあぶなどの有害な昆虫を媒介として広まったとすれば、エジプト人の家畜がすべて死んだのに対して、イスラエルの人々の家畜が一頭も死ななかったのも頷けるのではないかと思います。そのようにして、主はイスラエルの家畜とエジプトの家畜とを区別されたとも考えられるのです。
ファラオは、人を遣わして、モーセが言ったとおりであるかを調べさせました。そして、ファラオはモーセの言ったとおり、イスラエルの家畜が一頭とえいども死んでいなかったことを知ったのです。ファラオが二度も自分の言葉を偽り、イスラエルの民を去らせなかったのに対して、主はモーセを通して語られたとおり事を起こされたのでありました。しかし、それでも、ファラオの心は頑迷になり民を去らせなかったのです。
そのような事があった後で、主はモーセとアロンにこう言われました。「かまどのすすを両手にいっぱい取って、モーセはそれをファラオの前で天に向かってまき散らすがよい。それはエジプト全土を襲う細かい塵となって、エジプト全土の人と家畜に降りかかり、膿の出るはれ物となるであろう」。ここには、ファラオに対する「わたしの民を去らせよ」という言葉も、その言葉に従わなかったら、このような災いが起こるという警告の言葉も記されていません。主の民を去らせるのを拒み、自分のもとにとどめておこうとするファラオへの災いがモーセとアロンの二人に語られているだけであります。ただし、この災いは、他ならぬファラオの前で、実行するよう命じられているのです。かまどのすすを天に向かってまき散らすと、それはエジプト全土を覆う細かい塵となり、エジプト全土の人と家畜にふかかかり、膿の出るはれ物となると言うのです。ここには、イスラエルの人々が区別されることが記されていませんが、この災いも、エジプト人とその家畜だけに臨んだと思われます。ここでは、家畜だけではなく、エジプト人も災いの対象とされています。疫病の災いによって、「エジプト人の家畜はすべて死んだ」と記されておりましたが、これは誇張法でありまして、生き残っていたものもいたようです。しかし、その生き残っていた家畜もはれ物の災いを被ることになるのです。
モーセとアロンは、主に言われたとおり、かまどのすすを取ってファラオの前に立ち、モーセがそれを天に向かってまき散らしました。すると膿の出るはれ物が人と家畜とに生じたのです。11節に、「魔術師もこのはれ物のためにモーセの前に立つことができなかった」とありますが、この魔術師たちはファラオによって召し出されたものと思われます(7:11参照)。ファラオは、魔術師たちにも同じ業をさせて、エジプトの神々もヘブライ人の神に劣るものではないことを示したかったのでありましょう。しかし、魔術師は、このはれ物のためにモーセの前に立つことさえできなかったのです。「はれ物は魔術師のみならず、エジプト人すべてに生じた」とありますが、どうやらファラオには、はれ物は生じなかったようであります。主の言葉を拒み、イスラエルの人々を去らせないファラオに対する裁きは、ファラオの民であるエジプト人とその家畜にくだるのであって、ファラオは直接、はれ物に苦しむことはなかったのです。それでは、ファラオは主から何の裁きも受けずに済んでいるのでしょうか?わたしは、そんなことはないと思います。といいますのも、12節にこう記されているからです。「しかし、主がファラオの心をかたくなにされたので、彼は二人の言うことを聞かなかった。主がモーセに仰せになったとおりである」。主がファラオの心をかたくなにされたこと、それは、4章21節で、また、7章3節で、主がモーセに仰せになったことでありました。しかし、このような言葉が、災いの後に記されているのは、この「はれ物の災い」が初めてであります。ファラオの心がかたくなになったことはこれまでも記されておりましたが、しかし、このはれ物の災いの後では、はっきりと「主がファラオの心をかたくなにされた」と記されているのです。これは、ファラオに対する主の裁きであります。といいますのも、ローマの信徒への手紙1章28節にこう記されているからです。「彼らは神を認めようとしなかったので、神は彼らを無価値な思いに渡され、そのため、彼らはしてはならないことをするようになりました」。主は、御自分の言葉に従わないかたくななファラオをそのかたくなな思いへと渡されたのです。そのような主の裁きとして、ファラオのかたくなさが、このところに記されているのであります。私たちが心をかたくなにして、主に背き続けるならば、主はその私たちをかたくなな思いへと渡されます。そのようにして私たちに罰を与えられるのです。ですから、聖書は、御言葉を聞いた今日という日に、従わなければならないと教えているのです(詩編95:7、二コリント6:2参照)。また、神は決して人から侮られることはないお方であり、生ける神の手に落ちることは恐ろしいことであると警告しているのです(ガラテヤ6:7、ヘブライ10:31参照)。私たちは自分の意志で、神様に背いているつもりであっても、それが主の刑罰となっていることがあることを、心に刻みたいと思います。そして、主が私たちに命に至る悔い改めを与えてくださるように、正気になって、祈り求めたいと願います。