あぶの災い 2015年2月08日(日曜 夕方の礼拝)

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あぶの災い

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
出エジプト記 8章16節~28節

聖句のアイコン聖書の言葉

8:16 主はモーセに言われた。「明朝早く起きて、水辺に下りて来るファラオを出迎えて、彼に言いなさい。主はこう言われた。『わたしの民を去らせ、わたしに仕えさせよ。
8:17 もしあなたがわたしの民を去らせないならば、見よ、わたしはあなたとあなたの家臣とあなたの民とあなたの家にあぶを送る。エジプトの人家にも人が働いている畑地にもあぶが満ちるであろう。
8:18 しかし、その日、わたしはわたしの民の住むゴシェン地方を区別し、そこにあぶを入り込ませない。あなたはこうして、主なるわたしがこの地のただ中にいることを知るようになる。
8:19 わたしは、わたしの民をあなたの民から区別して贖う。明日、このしるしが起こる』と。」
8:20 主がそのとおり行われたので、あぶの大群がファラオの王宮や家臣の家に入り、エジプトの全土に及んだ。国はあぶのゆえに荒れ果てた。
8:21 ファラオがモーセとアロンを呼び寄せて、「行って、あなたたちの神にこの国の中で犠牲をささげるがよい」と言うと、
8:22 モーセは答えた。「そうすることはできません。我々の神、主にささげる犠牲は、エジプト人のいとうものです。もし、彼らの前でエジプト人のいとうものをささげれば、我々を石で打ち殺すのではありませんか。
8:23 我々の神、主に犠牲をささげるには、神が命じられたように、三日の道のりを荒れ野に入らねばなりません。」
8:24 ファラオが、「よし、わたしはあなたたちを去らせる。荒れ野であなたたちの神、主に犠牲をささげるがよい。ただし、あまり遠くへ行ってはならない。わたしのためにも祈願してくれ」と言うと、
8:25 モーセは答えた。「では、あなたのもとから退出しましたら、早速主に祈願しましょう。明日になれば、あぶはファラオとその家臣と民の間から飛び去るでしょう。ただ、二度と、主に犠牲をささげるために民を去らせないなどと言って、我々を欺かないでください。」
8:26 モーセはファラオのもとから退出すると、主に祈願した。
8:27 主はモーセの願いどおりにされ、あぶはファラオと家臣と民の間からすべて飛び去り、一匹も残らなかった。
8:28 しかし、ファラオは今度もまた心を頑迷にして民を去らせなかった。出エジプト記 8章16節~28節

原稿のアイコンメッセージ

 今夕は出エジプト記8章16節から28節より御言葉の恵みにあずかりたいと願います。

 主はモーセにこう言われました。「明朝早く起きて、水辺に下りて来るファラオを出迎えて、彼に言いなさい。主はこう言われた。『わたしの民を去らせ、わたしに仕えさせよ。もしあなたがわたしの民を去らせないならば、見よ、わたしはあなたとあなたの家臣とあなたの民とあなたの家にあぶを送る。エジプトの人家にも人が働いている畑地にもあぶが満ちるであろう。しかし、その日、わたしはわたしの民の住むゴシェン地方を区別し、そこにあぶを入り込ませない。あなたはこうして、主なるわたしがこの地のただ中にいることを知るようになる。わたしは、わたしの民をあなたの民から区別して贖う。明日、このしるしが起こる』と」。

 ここで「あぶを送る」とありますが、もとの言葉は「有害な昆虫の群れ」と記されています。「有害な昆虫の群れ」の中に「あぶ」が含まれていたかも知れませんが、あぶだけに特定できない「有害な昆虫の群れ」のことが言われているのです。ここで主は、モーセを通して、エジプトの王ファラオに、「わたしの民をさらせ、わたしに仕えさせよ」と命じられます。そして、もしファラオがイスラエルの民を去らせないならば、有害な昆虫の群れをエジプト全土に送ると言われたのです。しかし、例外がありました。それが、主の民、イスラエルが住むゴシェンの地であります。エジプトの人家にも人が働いている畑地にも有害な昆虫の群れが満ちるのでありますが、その日、主は御自分の民の住むゴシェンの地方を区別して、そこに有害な昆虫の群れを入り込ませないのです。そのようにして、主はファラオに、御自分がゴシェンの地の只中にいることを示されるのです。

 今夕の「あぶの災い」は四番目の災いでありますが、ここで初めて、ファラオの民であるエジプト人と主なる神の民であるイスラエル人との間に区別が置かれます。主は、御自分の民をファラオの民から区別して贖うことにより、御自分がイスラエルの民の只中にいることをお示しになるのです。そのようにして、御自分がイスラエルの神であることを示されるのであります。

 ファラオは、モーセを通して語られた主の命令に聞き従いませんでした。それゆえ、主は言われたとおりに事を行われたのです。すなわち、有害な昆虫の大群がファラオの王宮や家臣の家に入り、エジプト全土に及んだのであります。その国土は有害な昆虫の群れのゆえに荒れ果てたのです。どうやら、この有害な昆虫の群れには植物に害をもたらす昆虫も含まれていたようであります。あぶは、人の血を吸い、病気の感染などを引き起こす害をもたらしますが、この有害な昆虫の群れには、国土を荒廃させる害をもたらす昆虫もいたのです。これにはファラオも参ってしまったようであります。それで、ファラオはモーセとアロンを呼び寄せてこう言うのです。「行って、あなたたちの神にこの国の中で犠牲をささげるがよい」。主は、モーセを通して、「わたしの民を去らせ、わたしに仕えさせよ」と言われたのですが、ファラオは、「この国の中であなたたちの神に犠牲をささげるがよい」と言うのです。このファラオの言葉は、主がイスラエル人の住むゴシェンの地にいることを見たことと関係しているかも知れません。「わたしはある。わたしはあると言う者だ」と言われる主なる神は、御自分の民といつも共にいてくださるお方であります。そのことを、主は、ゴシェンの地方を区別し、そこに有害な昆虫の群れを入り込ませないことによって示されたのです。そうであれば、荒れ野に行って犠牲をささげなくとも、この国の中で犠牲をささげればよいではないかとファラオは考えたわけです。そのようにして、ファラオは労働力であるイスラエルの人々をエジプトから去らせようとはしないのです。

 それに対してモーセはこう答えました。「そうすることはできません。我々の神、主にささげる犠牲は、エジプト人のいとうものです。もし、彼らの前でエジプト人のいとうものをささげれば、我々を石で撃ち殺すのではありませんか。我々の神、主に犠牲をささげるには、神が命じられたように、三日の道のりを荒れ野に入らねばなりません」。創世記の43章32節に、エジプト人にとってヘブライ人と共に食事をすることはいとうことであったことが記されていました。また、創世記の46章34節に、羊飼いはすべて、エジプト人のいとうものであったことが記されておりました。今夕の御言葉では、イスラエルの神、主にささげる犠牲がエジプト人のいとうものであると言われています。エジプト人は神々への犠牲として植物や鳥や動物の肉片をささげたと言われたいますが、イスラエル人のように、牛一頭を、また羊一匹を丸ごとささげることはありませんでした。エジプトには牛や羊の頭を持った神々もおりましたから、牛や羊を丸ごとささげることは、神々への冒涜と見なされ、処刑される恐れもあったのです。それゆえ、モーセはエジプト人がいる所で主に犠牲をささげることはできないと言うのです。そして、それは何よりも主の命令に背くことでありました。イスラエルの神、主が命じられたことは、三日の道のりを荒れ野に入り、そこで主に仕えることであったのです。つまり、主にささげる犠牲は、エジプトの奴隷状態から解放され、自由となった暁にささげられるべきものであるのです。

 ファラオが、「よし、わたしはあなたたちを去らせる。荒れ野であなたたちの神、主に犠牲をささげるがよい。ただし、あまり遠くへ行ってならない。わたしのためにも祈願してくれ」と言うと、モーセはこう答えました。「では、あなたのもとから退出しましたら、早速主に祈願しましょう。明日になれば、あぶはファラオとその家臣と民の間から飛び去るでしょう。ただ、二度と、主に犠牲をささげるために民を去らせないと行って、我々を欺かないでください」。

 かつて、ファラオは、蛙の災いの際、モーセとアロンを呼んで、「主に祈願して、蛙がわたしとわたしの民のもとから退くようにしてもらいたい。そうすれば、民を去らせ、主に犠牲をささげさせよう」と約束しました。しかし、その約束をファラオは果たしませんでした。そのことを踏まえて、モーセは、「ただ、二度と、主に犠牲をささげるために民を去らせないなどと言って、我々を欺かないでください」と釘を刺すのです。

 モーセはファラオのもとから退出すると、主に祈願しました。主はモーセの願いどおりにされ、有害な昆虫の群れはファラオと家臣と民の間から飛び去り、一匹も残りませんでした。しかし、ファラオは今度もまた心を頑なにしてイスラエルの民を去らせることはしませんでした。そのようにして、再び、ファラオは自分のした約束を破り、モーセとアロンを欺いたのです。

 今夕の御言葉から教えられますことは、主に犠牲をささげることと、奴隷の国エジプトから脱出することが一つのことであるということであります。主に犠牲をささげることとエジプトから脱出することが一つのことであるゆえに、主はエジプトの国の中ではなく、エジプトを去って三日の道のりを荒れ野に入り、犠牲をささげるよう命じられるのです。イスラエルの人々は、主の力強い御手により、エジプトの奴隷状態から解放されることによって、喜びと感謝をもって主を礼拝する者たちとされるのです。このことは、主イエス・キリストによって、罪の奴隷状態から解放された私たちにも言えることであります。生まれながらの人間は罪の奴隷状態にあり、そのままでは主なる神様を礼拝することはできません。むしろ、罪の奴隷状態にある人間は、主なる神様をいとうのです。神様を嫌い、遠ざかるのです。そのような人間が、神様を礼拝するようになるには、主イエス・キリストによって、罪の奴隷状態から解放していただく必要があるのです。主イエス・キリストによって、罪の奴隷状態から解放されて初めて、人はまことの神様を礼拝することができるのです。ですから、私たちが今、主イエス・キリストを信じて、神様を父と呼び、礼拝していることは、私たちが罪の奴隷状態から解放され、神の子とされていることを示しているのです。

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