蛙の災い 2014年11月23日(日曜 夕方の礼拝)
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蛙の災い
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- 村田寿和 牧師
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出エジプト記 7章25節~8章11節
聖書の言葉
7:25 主がナイル川を打たれてから七日たつと、
7:26 主はモーセに言われた。「ファラオのもとに行って、彼に言いなさい。主はこう言われた。『わたしの民を去らせ、わたしに仕えさせよ。
7:27 もしあなたが去らせることを拒むならば、わたしはあなたの領土全体に蛙の災いを引き起こす。
7:28 ナイル川に蛙が群がり、あなたの王宮を襲い、寝室に侵入し、寝台に上り、更に家臣や民の家にまで侵入し、かまど、こね鉢にも入り込む。
7:29 蛙はあなたも民もすべての家臣をも襲うであろう』と。」
8:1 主は更にモーセに言われた。「アロンにこう言いなさい。杖を取って、河川、水路、池の上に手を伸ばし、蛙をエジプトの国に這い上がらせよ。」
8:2 アロンがエジプトの水の上に手を差し伸べると、蛙が這い上がってきてエジプトの国を覆った。
8:3 ところが、魔術師も秘術を用いて同じことをし、蛙をエジプトの国に這い上がらせた。
8:4 ファラオはモーセとアロンを呼んで、「主に祈願して、蛙がわたしとわたしの民のもとから退くようにしてもらいたい。そうすれば、民を去らせ、主に犠牲をささげさせよう」と言うと、
8:5 モーセはファラオに答えた。「あなたのお望みの時を言ってください。いつでもあなたとあなたの家臣と民のために祈願して、蛙をあなたとあなたの家から断ち、ナイル川以外には残らぬようにしましょう。」
8:6 ファラオが、「明日」と言うと、モーセは答えた。「あなたの言われるとおりにしましょう。あなたは、我々の神、主のような神がほかにいないことを知るようになります。
8:7 蛙はあなたとあなたの王宮、家臣や民の間から退いて、ナイル川以外には残らなくなるでしょう。」
8:8 モーセとアロンがファラオのもとから出て来ると、モーセはファラオを悩ました蛙のことで主に訴えた。
8:9 主はモーセの願いどおりにされ、蛙は家からも庭からも畑からも死に絶えた。
8:10 人々はその死骸を幾山にも積み上げたので、国中に悪臭が満ちた。
8:11 ファラオは一息つく暇ができたのを見ると、心を頑迷にして、また二人の言うことを聞き入れなくなった。主が仰せになったとおりである。出エジプト記 7章25節~8章11節
メッセージ
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前回、私たちは、ナイル川の水が血に変えるという「血の災い」について学びました。それに続く今夕の御言葉には、「蛙の災い」が記されています。
主がナイル川を打たれて七日たつと、主はモーセにこう言われました。「ファラオのもとに行って、彼に言いなさい。主はこう言われた。『わたしの民を去らせ、わたしに仕えさせよ。もしあなたが去らせることを拒むならば、わたしはあなたの領土全体に蛙の災いを引き起こす。ナイル川に蛙が群がり、あなたの王宮を襲い、寝室に侵入し、寝台に上り、更に家臣や民の家にまで侵入し、かまど、こね鉢にも入り込む。蛙はあなたもその民もすべての家臣をも襲うであろう』と」。
主は、モーセに王宮にいるファラオのもとへ行き、「わたしの民を去らせ、わたしに仕えさせよ」という主の命令を伝えます。この主の命令は、すでに二度語られました。第5章1節、2節にこう記されておりました。「その後、モーセとアロンはファラオのもとに出かけて行き、言った。『イスラエルの神、主がこう言われました。「わたしの民を去らせて、荒れ野でわたしのために祭りを行わせなさい」と。』ファラオは、『主とは一体何者なのか。どうして、その言うことをわたしが聞いて、イスラエルを去らせねばならないのか。わたしは主など知らないし、イスラエルを去らせはしない』と答えた」。
また、7章16節、17節にもこう記されておりました。「彼(ファラオ)に言いなさい。ヘブライ人の神、主がわたしをあなたのもとに遣わして、『わたしの民を去らせ、荒れ野でわたしに仕えさせよ』と命じられたのに、あなたは今に至るまで聞き入れない。主はこう言われた。『このことによって、あなたは、わたしが主であることを知る』と。見よ、わたしの手にある杖でナイル川の水を打つと、水は血に変わる」。
そして、今夕の御言葉でも、主はモーセを通して、ファラオに、「わたしの民を去らせ、わたしに仕えさせよ」と命じるのです。また続けて「もしあなたが去らせることを拒むならば、わたしはあなたの領土全体を蛙で撃つ」と言われるのであります。新共同訳聖書は、「わたしはあなたの領土全体に蛙の災いを引き起こす」と翻訳していますが、新改訳聖書は、「見よ、わたしは、あなたの全領土を、かえるをもって、打つ」と翻訳しています。ちなみに、ここで「打つ」と翻訳される言葉は、12章23節で、「主がエジプトを撃つために巡るとき」の「撃つ」と訳されるのと同じ言葉であります。主は、初子の死をもってエジプトを撃たれるのに先立って、蛙をもってエジプトを撃たれるのです。
前回学んだ、ナイル川の水が血に変わるという血の災いのときは、ファラオの王宮には飲み水があったようであります(7:23,24参照)。しかし、蛙の災いは、まずファラオにのぞむのです。ナイル川に群がった蛙は、ファラオの王宮を襲い、寝室に侵入し、寝台に上るのです。そして、更に家臣や民の家にまで侵入し、かまど、こね鉢にも入り込むと言うのであります。蛙はファラオも民もすべての家臣の体にはい上がるのです(口語訳参照)。エジプトではナイル川が氾濫する時期に蛙が群がったと言われます。ですから、蛙が群がることは自然現象であると言えます。しかし、ここまで沢山の蛙が群がるのは異常現象であります。それゆえ、蛙が群がり、蛙があらゆる所に入り込む、さらには人の体にもはい上がるようになることは、神様の力ある業、奇跡であると言えるのです。
このような主の言葉を聞いても、ファラオはイスラエルの民を去らせなかったようであります。それで、主は更にモーセにこう言われるのです。「アロンにこう言いなさい。杖を取って、河川、水路、池の上に手を伸ばし、蛙をエジプトの国に這い上がらせよ」。ここでも、モーセは神の代わりをし、アロンは預言者の働きをしております。蛙は水のある河川や水路や池にいるのですが、神様の権威と力によって、エジプトの国に這い上がってくると言うのです。そして実際、アロンがエジプトの水の上に手を差し伸べると、蛙が這い上がってきてエジプトの国を覆ったのです。それだけでも大変なのですが、3節を見ますと、「ところが、魔術師も秘術を用いて同じことをし、蛙をエジプトの国に這い上がらせた」と記されています。ここでも、エジプトの魔術師たちはモーセとアロンと張り合っています。魔術師たちは、モーセとアロンと同じことをすることによって、エジプトの神々がヘブライ人の神に劣るものではないことを証明しようとするのです。彼らは秘術を用いて、何かのトリックを用いて、蛙をエジプトの国に這い上がらせたのです。そして、これによってエジプトの国はますます蛙に覆われることになったのです。魔術師たちは蛙を退かせることはできず、その災いを増すことしかできないのです。
それで、ファラオは、モーセとアロンを呼んでこう言いました。「主に祈願して、蛙がわたしとわたしの民のもとから退くようにしてもらいたい。そうすれば、民を去らせ、主に犠牲をささげさせよう」。これまでは、モーセとアロンがファラオのもとに押しかけておりましたが、ここでは、ファラオの方から、モーセとアロンを自分のもとに呼んでおります。そして、ファラオは、主の存在を認めて、主に祈願するよう言うのです。ファラオは、5章1節で、「主とは一体何者なのか」「わたしは主など知らない」と言っておりました。ファラオはモーセとアロンに現れた主の存在を認めていなかったのです。そのファラオが、モーセとアロンに、「主に祈願して、蛙がわたしとわたしの民のもとから退くようにしてもらいたい」と言ったのです。このことは、ファラオが蛙の異常発生を主の御業として認めたこと、さらには、モーセとアロンが主から使わされた者たちであると認めたことを表しています。ファラオは、「そうすれば、民を去らせ、主に犠牲をささげさせよう」と言っておりますが、多くの研究者は、このファラオの約束は真剣なものではなかったと言っております。ファラオは、今、自分を困らせている蛙の異常発生が、本当に主によるものであるのかどうかを知ろうとして、このような約束をしたのです。
モーセはファラオにこう答えました。「あなたのお望みの時を言ってください。いつでもあなたとあなたの家臣と民のために祈願して、蛙をあなたとあなたの家から断ち、ナイル川以外には残らぬようにしましょう」。モーセは、主によって蛙が断たれることを、明らかにするために、ファラオに望みのときを尋ねました。ファラオは「明日」と言いますが、これは「一番早い時に」という意味でありましょう。モーセはこう答えました。「あなたの言われるとおりにしましょう。あなたは、我々の神、主のような神がほかにいないことを知るようになります。蛙はあなたとあなたの王宮、家臣や民の間から退いて、ナイル川以外には残らなくなるでしょう」。前回の血の災いでは、モーセがナイル川の水を血に変えることによって、「あなたは、わたしが主であることを知る」と言われていました(7:17)。しかし、ここでは、蛙をファラオの王宮や家臣や民の間から退かせることによって、「あなたは、我々の神、主のような神がほかにいないことを知るようになります」と言われています。それは先程も申しましたように、エジプトの魔術師たちが蛙を這い上がらせることはできても、退かせることはできないからです。モーセは、ファラオの言われるとおりに、蛙を退かせることよって、イスラエルの神が、生きて働かれる唯一の神であることを示すのです。
モーセとアロンがファラオのもとから出て来ると、モーセはファラオを悩ました蛙のことで主に叫びました。そして、主はそのモーセの願いどおりにされ、蛙は家からも庭からも畑からも死に絶えたのです。「人々はその死骸を幾山にも積み上げたので、国中に悪臭が満ちた」とありますが、そのことは、蛙の災いが確かに起こったことを示しています。もし、蛙がナイル川に退いてしまったならば、蛙の災いが夢のように思われたかも知れませんが、その死骸を幾山にも積みあげ、その悪臭をかぐことによって、このことが確かに起こったことを強く印象づけられるのです。しかし、ファラオは一息つく暇ができたの見ると、心を頑なにして、また二人の言うことを聞き入れなくなりました。そしてこのことは、主があらかじめ仰せになっていたとおりであったのです。
ファラオは、「そうすれば、民を去らせ、主に犠牲をささげさせよう」と言ったにもかかわらず、その約束を果たそうとはしませんでした。ファラオは、蛙が死に絶えたのを見、その悪臭をかいでも、イスラエルの神、主のような神がほかにいないことを知ることができないのです。それほどまでに、ファラオの心は頑なであるのです。そして、それはファラオだけではなく、すべての人に言えることなのです。自分を王とする、いや、自分を神とする人間は心を頑なにして、イスラエルの神であり、イエス・キリストの父である神を今も拒み続けているのです。