血の災い 2014年11月16日(日曜 夕方の礼拝)
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血の災い
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- 村田寿和 牧師
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出エジプト記 7章14節~24節
聖書の言葉
7:14 主はモーセに言われた。「ファラオの心は頑迷で、民を去らせない。
7:15 明朝、ファラオのところへ行きなさい。彼は水辺に下りて来る。あなたは蛇になったあの杖を手に持ち、ナイル川の岸辺に立って、彼を待ち受け、
7:16 彼に言いなさい。ヘブライ人の神、主がわたしをあなたのもとに遣わして、『わたしの民を去らせ、荒れ野でわたしに仕えさせよ』と命じられたのに、あなたは今に至るまで聞き入れない。
7:17 主はこう言われた。『このことによって、あなたは、わたしが主であることを知る』と。見よ、わたしの手にある杖でナイル川の水を打つと、水は血に変わる。
7:18 川の魚は死に、川は悪臭を放つ。エジプト人はナイル川の水を飲むのを嫌がるようになる。」
7:19 主は更にモーセに言われた。「アロンに言いなさい。『杖を取り、エジプトの水という水の上、河川、水路、池、水たまりの上に手を伸ばし、血に変えなさい』と。エジプトの国中、木や石までも血に浸るであろう。」
7:20 モーセとアロンは、主の命じられたとおりにした。彼は杖を振り上げて、ファラオとその家臣の前でナイル川の水を打った。川の水はことごとく血に変わり、
7:21 川の魚は死に、川は悪臭を放ち、エジプト人はナイル川の水を飲めなくなった。こうして、エジプトの国中が血に浸った。
7:22 ところが、エジプトの魔術師も秘術を用いて同じことを行ったのでファラオの心はかたくなになり、二人の言うことを聞かなかった。主が仰せになったとおりである。
7:23 ファラオは王宮に引き返し、このことをも心に留めなかった。
7:24 エジプト人は皆、飲み水を求めて、ナイル川の周りを掘った。ナイルの水が飲めなくなったからである。出エジプト記 7章14節~24節
メッセージ
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前回、私たちは、モーセとアロンが、主の御言葉に従って、杖を蛇に変えたこと、さらには、アロンの杖がエジプトの魔術師たちの杖をことごとく飲み込んだことを学びました。そのようにして、モーセとアロンは、自分たちに主が現れたことを示したのでありますが、ファラオは心をかたくなにして、彼らの言うことを聞きませんでした。今夕の御言葉はその続きであります。
主はモーセにこう言われました。「ファラオの心は頑迷で、民を去らせない。明朝、ファラオのところへ行きなさい。彼は水辺に下りて来る。あなたは蛇になったあの杖を手に持ち、ナイル川の岸辺に立って、彼を待ち受け、彼に言いなさい。ヘブライ人の神、主がわたしをあなたのもとに遣わして、『わたしの民を去らせ、荒れ野でわたしに仕えさせよ』と命じられたのに、あなたは今に至るまで聞き入れない。主はこう言われた。『のことによって、あなたは、わたしが主であることを知る』と。見よ、わたしの手にある杖でナイル川の水を打つと、水は血に変わる。川の魚は死に、川は悪臭を放つ。エジプト人はナイル川の水を飲むのを嫌がるようになる」。主は、ファラオが心をかたくなにして、イスラエルの民を去らせないのに対して、さらなる奇跡を行われます。しかもそれは「災い」とも呼べる奇跡でありました。前回学んだ、杖を蛇に変えるという奇跡は、エジプトに何の災いももたらしませんでしたが、今夕のナイル川の水を血に変えるという奇跡は、エジプトに災いをもたらすのです。主は、エジプトに災いをもたらすことによって、御自分が主、生きて働く神であることを知らせ、御自分の民イスラエルをエジプトから去らせ、荒れ野で仕えさせようとされるのです。モーセは、「見よ、わたしの手にある杖でナイル川の水を打つと、水は血に変わる」と言いましたが、ここで「杖」は主の権威と力の象徴であります。杖でナイル川を打つことは、主のエジプトへの裁きを意味しているのです。また、エジプトにおいて、ナイル川は命の源とも言える川でありまして、河の神ハピと呼ばれ、礼拝の対象となっておりました。そのナイル川を打つことにより、河の神ハピではなく、ヘブライ人の神、主こそが命の源であり、仕えるべきお方であることが示されるのです。ナイル川は、エジプト国中の水源でありましたから、その水が血に変わり、さらには川の魚が死に、悪臭を放つことは、エジプト人にとって、命に関わる危機的状況でありました。人間は水を飲まなければ生きていけないわけですが、その悪臭のゆえに、エジプト人はナイル川の水を飲むのを嫌がるようになると言うのです。
主は更にモーセに言われました。「アロンに言いなさい。『杖を取り、エジプトの水という水の上に、河川、水路、池、水たまりの上に手を伸ばし、血に変えなさい』と。エジプトの国中、木や石までも血に浸るであろう」。かつて、主は、モーセに、「見よ、わたしは、あなたをファラオに対しては神の代わりとし、あなたの兄アロンはあなたの預言者となる」と言われましたが、ここでも、主はモーセに御自分の代理人として、預言者アロンに語るべき言葉を授けておられます。ここで、「エジプトの水という水の上に、河川、水路、池、水たまりの上に手を伸ばし」とありますが、これは、文字通り、アロンがエジプトの国中を巡り歩いて、あらゆる水を打ったということではなくて、ナイル川を血に変えることに、その災いがエジプトの国中に及ぶことを表しています。現に、20節を見ますと、アロンが打ったのはナイル川の水だけでありました。ナイル川はエジプトの水源でありますから、その水が血に変わることは、エジプトの水という水が血に変わることであったのです。それによって、「エジプトの国中、木や石までも血に浸るであろう」と主は言われるのです。新改訳聖書の翻訳によれば、「エジプト全土にわたって、木の器や石の器にも、血があるようになる」のです。
モーセとアロンは、主の命じられたとおり、杖を振り上げて、ファラオとその家臣の前でナイル川の水を打ちました。すると、主の言われていたとおり、川の水はことどとく血に変わり、川の魚は死に、川は悪臭を放ち、エジプト人はナイル川の水を飲めなくなったのです。ある研究者(R・アラン・コール)は、水が文字通りに血に変わったのではなく、血のように変わっただけであると言っております。つまり、ナイル川の水が血のように赤くなったと言うのです。そして、その原因を、「エチオピアから洗い流されて来た赤粘土か、赤色の浮遊生物」であろうと推測するのです。確かに、水が血に変わるという災いは、プランクトンの異常増殖によって水が赤く染まる「赤潮」のような現象であったとも考えられます。赤潮によって、魚が死んでしまったとも考えられるのです。しかし、そうであったとしても、モーセとアロンがナイル川の水を打ったときに、赤潮が発生したこと事態が力ある業であります。赤潮という現象は、自然現象かもしれませんが、それを自由に引き起こされるゆえに、モーセとアロンの業は奇跡であると言えるのです。
私は今、水を血に変えるという災いは、赤潮のような現象ではなかったかと申しました。しかし、聖書は水がことごとく血に変わったと記していることに心を留めるべきであると思います。なぜなら、そこには主なる神様からのメッセージが込められているからです。エジプトの国中が血に浸ること、これはまことに不吉なことであります。今夕の御言葉は、十の災いの最初の災いでありますが、その最後の災いは、エジプト中の初子が死ぬという災いであります。今夕の「血の災い」は、すでに、この最後の災い、エジプト中の初子が死ぬという災いを予告しているのです。主は、ファラオに、イスラエルの民を去らせなければ、どのようなことが起こるかを、エジプト中を血に浸すということによって、前もって警告されたのです。
ところが、エジプトの魔術師も秘術を用いて同じことを行ったので、ファラオの心はかたくなになり、モーセとアロンの言うことを聞きませんでした。おそらく、エジプトの魔術師は何かのトリックを用いて、同じことをしたように見せかけたのでしょう。そして、それを見て、ファラオは心をかたくなにしたのです。エジプトの魔術師も同じことができるのなら、モーセとアロンがしたことは、必ずしも、ヘブライ人の神である主の御業であると言うことはできないと言うわけです。しかし、ファラオが心をかたくなにして、二人の言うことを聞かなかったことは、主が前もって仰せになったとおりでありました。ファラオは王宮に引き返し、このことを心に留めなかったのに対して、「エジプト人は皆、飲み水を求めて、ナイル川の周りを掘った」と記されています。王は民のために心を配るべき者でありますが、ファラオは、自分の民が飲み水に困っていても、このことを心に留めなかったのです。
今夕の御言葉には、モーセとアロンがナイル川の水を杖で打ち、血に変えた災いが記されておりましたが、ある研究者(T・E・フレットハイム)は、「水の中にある血は誰の血か」と問いかけておりました。先程、わたしは、この血は、最後の災いであるエジプト中の初子の死を表していると申しました。しかし、改めて、「水の中にある血は誰の血か」と問われるならば、それは、エジプトの王ファラオによって、ナイル川に放り込まれたイスラエルの男の子の血ではなかったかと思わされるのです(1:22「ファラオは全国民に命じた。「生まれた男の子は、一人残らずナイル川にほうり込め。女の子は生かしておけ。」参照)。神様は、ファラオがイスラエルの男の子をナイル川に放り込んだことを思い起こさせるために、ナイル川の水を血に変えられたのであります。そのようにして、神様はエジプトの王ファラオの罪を告発なされるのです。先程、私は、ナイル川の水が血のように赤くなったのは赤潮ではないかと申しました。赤潮は公害の一つでありますが、そのような公害を通しても、神様は私たち人間の罪を告白されているのではないでしょうか?