アロンの杖 2014年11月09日(日曜 夕方の礼拝)
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アロンの杖
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- 村田寿和 牧師
- 聖書
出エジプト記 7章8節~13節
聖書の言葉
7:8 主はモーセとアロンに言われた。
7:9 「もし、ファラオがあなたたちに向かって、『奇跡を行ってみよ』と求めるならば、あなたはアロンに、『杖を取って、ファラオの前に投げよ』と言うと、杖は蛇になる。」
7:10 モーセとアロンはファラオのもとに行き、主の命じられたとおりに行った。アロンが自分の杖をファラオとその家臣たちの前に投げると、杖は蛇になった。
7:11 そこでファラオも賢者や呪術師を召し出した。エジプトの魔術師もまた、秘術を用いて同じことを行った。
7:12 それぞれ自分の杖を投げると、蛇になったが、アロンの杖は彼らの杖をのみ込んだ。
7:13 しかし、ファラオの心はかたくなになり、彼らの言うことを聞かなかった。主が仰せになったとおりである。出エジプト記 7章8節~13節
メッセージ
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6章1節において、主はモーセにこう言われておりました。「今や、あなたはわたしがファラオにすることを見るであろう。わたしの強い手によって、ファラオはついに彼らを去らせる。わたしの強い手によって、ついに彼らを国から追い出すようになる」。この主の強い手とは、これから行われる十の災いのことでありますが、今夕の御言葉は、十の災いの序章ともいえる御言葉であります。
主は、モーセとアロンにこう言われました。「もし、ファラオがあなたたちに向かって、『奇跡を行ってみよ』と求めるならば、あなたはアロンに、『杖を取って、ファラオの前に投げよ』と言うと、杖は蛇になる」。主は、ファラオとの最初の交渉の際には、奇跡を行うことについては言われてませんでした。5章に、モーセとアロンがファラオと交渉したことが記されていますが、そこで、命じられていたことは、主が命じられた言葉を語ることでありました。しかし、主は、モーセとアロンがファラオと再び交渉するに当たって、奇跡を行うことを命じられるのです。すなわち、主は言葉だけではなく、奇跡によっても、御自分が何者であるかを示すように、モーセに命じられたのです。
主は、「もし、ファラオがあなたたちに向かって、『奇跡を行ってみよ』と求めるならば」と言っておりますが、ファラオは、奇跡を行わせることによって、モーセとアロンの言ったことが本当であるのかを確かめようとするのです。最初の交渉のとき、モーセとアロンは、ファラオにこう言いました。「イスラエルの神、主がこう言われました。『わたしの民を去らせて、荒れ野でわたしのために祭りを行わせなさい』と」。それに対して、ファラオは、こう答えたのです。「主とは一体何者なのか。どうして、その言うことをわたしが聞いて、イスラエルを去らせねばならないのか。わたしは主など知らないし、イスラエルを去らせはしない」。このように言っていたファラオは、モーセとアロンに奇跡を行わせることによって、ヘブライ人の神が本当に出現したのかどうかを試そうとするのです。そして、そのとき、主は、モーセに対して、「あなたはアロンに、『杖を取って、ファラオの前に投げよ』と言うと、杖は蛇になる」と言われたのです。この杖が蛇になるという奇跡は、4章に記されていた奇跡であります。そこでは、モーセに主が現れたことを、イスラエルの人々が信じるために与えられたしるしとして記されておりました。しかし、今夕の御言葉では、モーセとアロンに主が現れたことを、ファラオが信じるためのしるしとして与えられるのです。しかし、よく読むと、4章とは違うところもあります。4章では、主がモーセに命じ、モーセが杖を地面に投げますが、今夕の御言葉では、モーセがアロンに命じ、アロンが杖を地面に投げて、アロンの杖が蛇になるのです。今夕の御言葉において、モーセはまさしく神の代理人として振る舞っているのです。
10節に、「モーセとアロンはファラオのもとに行き、主の命じられたとおりに行った」とありますから、ファラオを、奇跡を行うことによって、ヘブライ人の神が現れたことを証明して見よと求めたようです。アロンが自分の杖をファラオとその家臣たちの前に投げると、杖は蛇になりました。古代エジプトにおいて蛇は神の使いと考えられておりました。蛇は知恵や豊かさの象徴であり、礼拝の対象でもあったのです。ですから、杖を蛇に変えるということは、モーセとアロンの背後に神の力が働いていることを示すしるしとなったわけです。しかし、ファラオは、アロンの杖が蛇になったのを見ても、飛びのきませんでした(4:3参照)。ファラオも賢者や呪術師を召し出し、エジプトの魔術師たちもまた、秘術を用いて同じことを行ったのです。モーセとアロンは、杖を蛇に変えることによって、自分たちにイスラエルの神が現れたことを示したわけですが、そのようなことならエジプトの魔術師でもできることを、ファラオは証明したのです。ここで、私たちが疑問に思うことは、アロンの杖が蛇になったのと同じように、エジプトの魔術師たちの杖も蛇になったのであろうか、ということであります。ある研究者は、蛇が硬直して杖のようになっていたものを投げて、あたかも杖が蛇になったように見せかけただけであると推測しております(C・F・ファイファー、『出エジプトの時代』67頁)。ともかく、聖書の記述によれば、エジプトの魔術師たちの杖も蛇になったのです。しかし、話はここで終わりません。アロンの杖は彼らの杖を飲み込んだのです。アロンの蛇が、魔術師たちの蛇をことごとく飲み込んでいった。これはまことに異様な光景であったと思います。そして、このことは、エジプトの王ファラオにとって、不吉な光景でもあったのです。今夕の御言葉で、「蛇」と訳されている言葉(タンニーン)は、実は4章の「蛇」と訳されていた言葉(ナーハーシュ)とは別の言葉であります。今夕の御言葉で「蛇」と訳されている言葉は、「ワニ」とも訳すことができるのです。そして、エゼキエル書29章によれば、エジプトの王ファラオは、「ナイル川の真ん中に横たわる巨大なワニ」に譬えられているのです。ですから、アロンの蛇、ワニが、エジプトの魔術師の蛇、ワニを飲み込んだという今夕の御言葉は、ファラオが大地に飲み込まれてしまうことを暗示しているのです(15:12参照)。しかし、ファラオの心はかたくなになり、彼らの言うことを聞きませんでした。ファラオは、アロンの杖が蛇になり、魔術師の蛇をことごとく飲み込んだ光景を目の当たりにしても、主の御言葉どおりに、イスラエルの人々をエジプトの国から去らせようとはしなかったのです。そして、それは主がモーセとアロンにあらかじめ仰せになったとおりであったのです。モーセとアロンは、ファラオの心がかたくなであるゆえに、さらなるしるしを行うことになります。そして、それはファラオにとって、自分の心をかたくなにすることによって招いてしまう災いとなるのです。
今夕の御言葉を読む時、福音書において、ファリサイ派の人々や律法学者たちが、イエス様にしるしを求めた理由がよく分かるのではないかと思います。ファリサイ派の人々が、イエス様にしるしを求めたのは、イエス様が神から遣わされたお方であるかどうかを知るためでありました。そして、イエス様は、御自分が救い主であることのしるしとして、悪霊を追い出し、病人を癒されたのです。しかし、それを見ても、ファリサイ派の人々は、イエス様が神から遣わされたお方であることを信じませんでした。そして、そのような彼らに対して、イエス様は十字架の死からの復活というしるしが与えられるのです。この十字架の死からの復活というしるしは、十の災いの最後である初子の死の災いに匹敵するものであります。この十字架の死からの復活というしるしを受け入れない者は、自らの罪のために滅びることとなるのです。しかし、イエス・キリストが自分の罪のために十字架に死に、自分を正しい者とするために復活されたと信じる者は、罪からの救いにあずかることができるのです。それゆえ、私たちは心をかたくなにすることなく、今日という日に、福音を受け入れなければならないのです(ヘブライ3:12~15参照)。