しるしを与えられる主 2014年9月21日(日曜 夕方の礼拝)
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しるしを与えられる主
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- 村田寿和 牧師
- 聖書
出エジプト記 4章1節~17節
聖書の言葉
4:1 モーセは逆らって、「それでも彼らは、『主がお前などに現れるはずがない』と言って、信用せず、わたしの言うことを聞かないでしょう」と言うと、
4:2 主は彼に、「あなたが手に持っているものは何か」と言われた。彼が、「杖です」と答えると、
4:3 主は、「それを地面に投げよ」と言われた。彼が杖を地面に投げると、それが蛇になったのでモーセは飛びのいた。
4:4 主はモーセに、「手を伸ばして、尾をつかめ」と言われた。モーセが手を伸ばしてつかむと、それは手の中で杖に戻った。
4:5 「こうすれば、彼らは先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、主があなたに現れたことを信じる。」
4:6 主は更に、「あなたの手をふところに入れなさい」と言われた。モーセは手をふところに入れ、それから出してみると、驚いたことには、手は重い皮膚病にかかり、雪のように白くなっていた。
4:7 主が、「手をふところに戻すがよい」と言われたので、ふところに戻し、それから出してみると、元の肌になっていた。
4:8 「たとえ、彼らがあなたを信用せず、最初のしるしが告げることを聞かないとしても、後のしるしが告げることは信じる。
4:9 しかし、この二つのしるしのどちらも信ぜず、またあなたの言うことも聞かないならば、ナイル川の水をくんできて乾いた地面にまくがよい。川からくんできた水は地面で血に変わるであろう。」
4:10 それでもなお、モーセは主に言った。「ああ、主よ。わたしはもともと弁が立つ方ではありません。あなたが僕にお言葉をかけてくださった今でもやはりそうです。全くわたしは口が重く、舌の重い者なのです。」
4:11 主は彼に言われた。「一体、誰が人間に口を与えたのか。一体、誰が口を利けないようにし、耳を聞こえないようにし、目を見えるようにし、また見えなくするのか。主なるわたしではないか。
4:12 さあ、行くがよい。このわたしがあなたの口と共にあって、あなたが語るべきことを教えよう。」
4:13 モーセは、なおも言った。「ああ主よ。どうぞ、だれかほかの人を見つけてお遣わしください。」
4:14 主はついに、モーセに向かって怒りを発して言われた。「あなたにはレビ人アロンという兄弟がいるではないか。わたしは彼が雄弁なことを知っている。その彼が今、あなたに会おうとして、こちらに向かっている。あなたに会ったら、心から喜ぶであろう。
4:15 彼によく話し、語るべき言葉を彼の口に託すがよい。わたしはあなたの口と共にあり、また彼の口と共にあって、あなたたちのなすべきことを教えよう。
4:16 彼はあなたに代わって民に語る。彼はあなたの口となり、あなたは彼に対して神の代わりとなる。
4:17 あなたはこの杖を手に取って、しるしを行うがよい。」出エジプト記 4章1節~17節
メッセージ
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前回、私たちは、神様がモーセに、「わたしはある」という言葉に由来する主、ヤハウェという御名前をお示しになったことを学びました。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神は、「わたしはある」という方として、モーセを遣わし、イスラエルの人々をエジプトの地から約束の地カナンへと導き出すよう命じられるのです。しかし、モーセは逆らって、こう言いました。「それでも彼らは、『主がお前などに現れるはずがない』と言って、信用せず、わたしの言うことを聞かないでしょう」。主は、3章18節で、「彼ら(イスラエルの人々)は、あなたの言葉に従うであろう」と言われましたが、モーセは、「それでも彼らは、『主がお前などに現れるはずがない』と言って信用せず、わたしの言うことを聞かないでしょう」と言うのです。神様は3章15節で、モーセにこう命じておりました。「イスラエルの人々にこう言うがよい。あなたたちの先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である主(ヤハウェ)がわたしをあなたたちに遣わされた」。しかし、モーセは、このように語っても、イスラエルの人々は自分のことを信頼せず、自分の言うことを聞かないでしょう、と言うのです。このようなモーセの心配は当然のことかも知れません。なぜなら、モーセは、エジプトから40年もの間、離れていたからです。そのようなモーセが、「あなたたちの先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である主がわたしをあなたたちのもとに遣わされた」と言っても、人々がその言葉を信用せずに聞かないことは十分考えられることであるのです。主はそのようなモーセに対して、「あなたが手に持っているものは何か」と言われました。モーセが「杖です」と答えると、主は、「それを地面に投げよ」と言われました。彼が杖を地面に投げると、杖は蛇になったのでモーセは飛びのきました。主はモーセに、「手を伸ばして、尾をつかめ」と言われました。モーセが手を伸ばしてつかむと、それは手の中で杖に戻ったのです。そして、主はモーセにこう言われたのです。「こうすれば、彼らは先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、主があなたに現れたことを信じる」。投げた杖が蛇になり、蛇の尾をつかむと杖に戻るという不思議な出来事は、主がモーセに与えられたしるしでありました。イスラエルの人々が、モーセを信用し、その言葉を聞くことができるように、神様は、モーセに杖を蛇に変え、蛇を杖に戻すことができるようにされたのです。古代近東において、蛇は知恵、豊穣、いやしのシンボルであり、特にエジプトでは神の使いと考えられ、礼拝の対象とされておりました。ですから、杖を蛇に変えたり、蛇を杖に戻すことは、イスラエルの人々がモーセに主が現れたことを信じさせるしるしとなったのです。
更に、主はモーセに、「あなたの手をふところに入れなさい」と言われました。モーセが手をふところに入れ、そこから出してみると、驚いたことに、手は重い皮膚病にかかり、雪のように白くなっていました。主が、「手をふところに戻すがよい」と言われたので、ふところに戻し、そこから出してみると、元の肌になっていました。そして、主はモーセにこう言われるのです。「たとえ、彼らがあなたを信用せず、最初のしるしが告げることを聞かないとしても後のしるしが告げることは信じる」。重い皮膚病は、神様の裁きとして恐れられておりました。その重い皮膚病を自由にすることができることは、モーセに主が現れたことの更に強力なしるしであるのです。
主は更にモーセにこう言われます。「しかし、この二つのしるしのどちらも信ぜず、またあなたの言うことも聞かないならば、ナイル川の水をくんできて乾いた地面にまくがよい。川からくんできた水は地面で血に変わるであろう」。このように主は、第三のしるしをも与えられるわけですが、これは、ここでは行われません。なぜなら、モーセは、今、ナイル川が流れるエジプトではなく、ミディアンの地にいるからです。エジプト人にとって、ナイル川はすべての良き物の源でありました。そのナイル川の水を血に変えるということは、モーセに主が現れたことの更に更に強力なしるしであったのです。
このように、主は、モーセを遣わすにあたって、モーセに主が現れたことを信じることができるように、三つのしるしを与えられたのです。しかし、それでもなお、モーセは主にこう言います。「ああ、主よ。わたしはもともと弁が立つ方ではありません。あなたが僕にお言葉をかけてくださった今でもやはりそうです。全くわたしは口が重く、舌が重い者なのです」。どうやらモーセには、発音器官の調整がうまくできずに言葉がつかえてしまう「どもり」があったようです。そのためモーセは口が重い、訥弁であったようです。モーセは自分が言葉の人ではないことを知っておりました。そして、そのことは、主にお会いしている今も変わっていなかったのです。モーセは、自分が口が重く、舌が重いことを理由に、主の命令を断ろうとするのです。しかし、主はモーセにこう言われました。「一体、誰が人間に口を与えたのか。一体、誰が口を利けないようにし、耳を聞こえないようにし、目を見えるようにし、また、見えなくするのか。主なるわたしではないか。さあ、行くがよい。このわたしがあなたの口と共にあって、あなたが語るべきことを教えよう」。主は、自分こそが、人間に口を与えた方であり、口を利けないようにし、耳を聞こえないようにし、目を見えるようにし、目を見えなくさせる方であると言われます。ここで、主は何を言われたいのでしょうか?それは、モーセの口が重く、舌が重いことなど、主は、初めから知っておられるということです。主は、モーセの口が重いことを承知のうえで、モーセに現れ、イスラエルの人々をエジプトから導き出すよう命じられたのです。神様は口が重く、舌が重いモーセをそのまま受け入れ、御自分の御業へと用いられるのです。そして、神様は御自分がモーセの口と共にあって、語るべきことを教えるという約束を与えて、モーセを、エジプトへ送り出そうとされるのです。しかし、モーセはなおもこう言いました。「ああ主よ。どうぞ、だれかほかの人を見つけてお遣わしください」。これまで、モーセは様々な理由をつけて、エジプトに行くことを拒んできましたが、ここには何の理由も記されていないのです。つまり、モーセは、エジプトに行きたくないのです。これを受けて、主はついに、モーセに向かって怒りを発しました。主は、これまで、モーセの心配を取り除くという仕方で、エジプトに行くように説得してきましたが、ついにモーセに向かって怒りを発しこう言われるのです。「あなたにはレビ人アロンという兄弟がいるではないか。わたしは彼が雄弁なことを知っている。その彼が今、あなたに会おうとして、こちらに向かっている。あなたに会ったら、心から喜ぶであろう。彼によく話し、語るべき言葉を彼の口に託すがよい。わたしはあなたの口と共にあり、また彼の口と共にあって、あなたたちのなすべきことを教えよう。彼はあなたに代わって民に語る。彼はあなたの口となり、あなたは彼に対して神の代わりとなる。あなたはこの杖を手に取って、しるしを行うがよい」。主は、自分の命令を断ろうとするモーセに、雄弁な兄アロンの存在を思い起こさせます。しかも、アロンは、モーセに会おうと、今、ミディアンの地に向かっているというのです。主は兄アロンを、モーセに代わって語る者として立てることをよしとされるのです。16節に、「神はあなたに代わって民に語る。彼はあなたの口となり、あなたは彼に対して神の代わりとなる」とありますが、これは主がモーセだけにお語りになるからです。アロンは、直接、主から言葉を託されることはなく、必ずモーセを通して託されました。それゆえ、アロンはモーセの口となり、モーセはアロンに対して神の代わりとなると言われるのです。主は、モーセに、「あなたはこの杖を手に取って、しるしを行うがよい」と言われましたが、モーセこそ、主が遣わされる、イスラエルをエジプトから導き出す者であるのです。
今夕の御言葉で、主は、モーセに御自分が現れたことをイスラエルの人々が信じられるように、しるしをお与えになりました。それらは、モーセにおいてこそ、先祖の神が、生きて働く神として共におられることのしるしであります。イエス様はヨハネ福音書の8章で、「『わたしはある』ということを信じないならば、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる」と言われました。イエス様においてこそ、主は、生きて働く神として御自身を現されたのです。そして、そのしるしが、イエス様が口の利けない人を話せるようにし、耳の聞こえない人を聞こえるようにし、目の見えない人を見えるようにするという力ある業であったのです。主はモーセに、「一体、誰が口を利けないようにし、耳を聞こえないようにし、目を見えるようにし、また見えなくするのか」と言われましたが、口を利けるようにし、耳を聞こえるようにし、目が見えるようにすることができるのも、主であられるのです。それゆえ、イエス様が、なされた癒やしの御業は、イエス様が主から遣わされたお方であること、いや、主、その方であることのしるしであるのです。