「わたしはある」という方 2014年9月14日(日曜 夕方の礼拝)

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「わたしはある」という方

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
出エジプト記 3章13節~22節

聖句のアイコン聖書の言葉

3:13 モーセは神に尋ねた。「わたしは、今、イスラエルの人々のところへ参ります。彼らに、『あなたたちの先祖の神が、わたしをここに遣わされたのです』と言えば、彼らは、『その名は一体何か』と問うにちがいありません。彼らに何と答えるべきでしょうか。」
3:14 神はモーセに、「わたしはある。わたしはあるという者だ」と言われ、また、「イスラエルの人々にこう言うがよい。『わたしはある』という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと。」
3:15 神は、更に続けてモーセに命じられた。「イスラエルの人々にこう言うがよい。あなたたちの先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である主がわたしをあなたたちのもとに遣わされた。これこそ、とこしえにわたしの名/これこそ、世々にわたしの呼び名。
3:16 さあ、行って、イスラエルの長老たちを集め、言うがよい。『あなたたちの先祖の神、アブラハム、イサク、ヤコブの神である主がわたしに現れて、こう言われた。わたしはあなたたちを顧み、あなたたちがエジプトで受けてきた仕打ちをつぶさに見た。
3:17 あなたたちを苦しみのエジプトから、カナン人、ヘト人、アモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人の住む乳と蜜の流れる土地へ導き上ろうと決心した』と。
3:18 彼らはあなたの言葉に従うであろう。あなたはイスラエルの長老たちを伴い、エジプト王のもとに行って彼に言いなさい。『ヘブライ人の神、主がわたしたちに出現されました。どうか、今、三日の道のりを荒れ野に行かせて、わたしたちの神、主に犠牲をささげさせてください。』
3:19 しかしわたしは、強い手を用いなければ、エジプト王が行かせないことを知っている。
3:20 わたしは自ら手を下しあらゆる驚くべき業をエジプトの中で行い、これを打つ。その後初めて、王はあなたたちを去らせるであろう。
3:21 そのとき、わたしは、この民にエジプト人の好意を得させるようにしよう。出国に際して、あなたたちは何も持たずに出ることはない。
3:22 女は皆、隣近所や同居の女たちに金銀の装身具や外套を求め、それを自分の息子、娘の身に着けさせ、エジプト人からの分捕り物としなさい。」出エジプト記 3章13節~22節

原稿のアイコンメッセージ

 前回、私たちは、神様がモーセに現れ、イスラエルをエジプトから導き出すように命じられたことを学びました。神様はモーセを遣わすしるしとして、「わたしは必ずあなたと共にいる」と約束してくださったのでありました。今夕の御言葉はその続きであります。

 モーセは神様にこう尋ねます。「わたしは、今、イスラエルの人々のところへ参ります。彼らに、『あなたたちの先祖の神が、わたしをここに遣わされたのです」と言えば、彼らは、『その名は一体何か』と問うにちがいありません。彼らに何と答えるべきでしょうか」。モーセは、神様から遣わされる者として、自分を遣わす神様の御名前を求めております。神様は6節で、「わたしはあなたの父の神である。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」と御自分をお示しになりましたが、ここでモーセは、新しい神様の御名前を求めているのです。なぜなら、神様は、モーセを通して、イスラエルをエジプトから導き出すという新しい御業をなそうとしておられるからです。それに対して、神様はモーセに、「わたしはある。わたしはあるという者だ」と言われました。これはまことに力強い宣言であります。エジプトの神々がないもの、死んだものであるのに対して、神様は、生きて働くお方としてイスラエルと共にあるのです。また、神様はモーセにこう言われました。「イスラエルの人々にこう言うがよい。『わたしはある』という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと」。さらに神様は、モーセにこう命じられるのです。「イスラエルの人々にこう言うがよい。あなたたちの先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である主がわたしをあなたたちのもとに遣わされた。これこそ、とこしえにわたしの名/これこそ、世々にわたしの呼び名」。ここで、「主」という神様の御名前が記されていますが、これは元のヘブライ語ですとヤハウェであります。ヤハウェという御名前が主と訳されるようになったのは、十戒の第三戒と関係があります。十戒の第三戒は「あなたはヤハウェの名をみだりに唱えてはならない」でありますが、ユダヤ人たちはこの掟を守るために、ヤハウェという御名前を一切口にしなくなりました。聖書を読んでいて、ヤハウェという御名前が出て来ても、アドナイ、主と読み替えたのです。ヤハウェを英語のアルファベットで表すと、YHWHとなるのですが、いつの間にか、これをどのように発音してよいかが分からなくなってしまいました。少し前に、YHWHにアドナイの母音記号を付けてエホバと呼んでいましたが、これは間違いで、今ではヤハウェと呼ぶのが正しいと考えられております。新改訳聖書を見ますと、主という言葉が時々、太字で記されていますが、これはヤハウェを表しています。ヤハウェも、アドナイも、主と訳されるのですが、ヤハウェの場合は、主を太字で記しているのです。新共同訳聖書は、そのような工夫をしておりませんので、ヤハウェもアドナイもどちらも主と訳しています。ですから、原文をあたらないと分からないわけです。主と訳される「ヤハウェ」の語源ですが、「わたしはある」と訳されている「エヒウェー」にあると考えられています。ヤハウェという御名前は、「わたしはある」という言葉に由来しているのです。

 15節で、神様は「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」という呼び名と、モーセに示された主、ヤハウェという呼び名を結びつけておられます。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神は、今や「わたしはある」という方として、モーセを遣わされるのです。「わたしはある」。これはヘブライ語のハヤーという動詞の未完了形であります。未完了形は動作の継続を表します。つまり、神様はいつも、イスラエルと共にいてくださるお方であるのです。また、ヘブライ語の動詞は、現在形にも未来形にも訳すことができます。このことは、神様が、現在だけではく、将来も、イスラエルと共にいることを示しているのです。それゆえ、神様は、「わたしはある」という言葉に由来する主、ヤハウェという御名前について、「これこそ、とこしえにわたしの名、これこそ、世々にわたしの呼び名」と言われるのであります。

 アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である主は、16節、17節で、モーセにこう言われます。「さあ、行って、イスラエルの長老たちを集め、言うがよい。『あなたたちの先祖の神、アブラハム、イサク、ヤコブの神である主がわたしに現れて、こう言われた。わたしはあなたたちを顧み、あなたたちがエジプトで受けてきた仕打ちをつぶさに見た。あなたたちを苦しみのエジプトから、カナン人、ヘト人、アモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人の住む乳と蜜の流れる土地へ導き上ろうと決心した』と」。イスラエルの子孫たちに「カナン人、ヘト人、アモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人の住む乳と蜜の流れる土地」を与えることは、かつて神様が、アブラハム、イサク、ヤコブに約束されていたことでありました。その約束を、神様は、エジプトの奴隷状態にあったイスラエルの息子たちにお与えになるのです。それも、苦しみのエジプトから導き上るという仕方で、その約束を実現してくださるのです。

 さらに主は、18節から22節で、モーセにこう言います。「彼らはあなたの言葉に従うであろう。あなたはイスラエルの長老たちを伴い、エジプト王のもとに行って彼に言いなさい。『ヘブライ人の神、主がわたしたちに出現されました。どうか、今、三日の道のりを荒れ野に行かせて、わたしたちの神、主に犠牲をささげさせてください。』しかしわたしは、強い手を用いなければ、エジプト王が行かせないことを知っている。わたしは自ら手を下しあらゆる驚くべき業をエジプトの中で行い、これを打つ。その後初めて、王はあなたたちを去らせるであろう。そのとき、わたしは、この民にエジプト人の好意を得させるようにしよう。出国に際して、あなたたちは何も持たずに出ることはない。女は皆、隣近所や同居の女たちに金銀の装身具や外套を求め、それを自分の息子、娘の身に着けさせ、エジプト人からの分捕り物としなさい」。神様は、ここで、これから起こることを、あらかじめ告げておられます。イスラエルの人々がモーセの言葉に従うのに対して、エジプト王はモーセの言葉に従わないのです。それゆえ、神様は、強い手をもって、エジプトの中で驚くべき業をなされるのであります。それによって、ようやく、エジプトの王はイスラエルの人々を去らせるのであります。イスラエルの人々は、報酬の品を受け取る解放された奴隷として、さらには分捕り物を得る勝利者として、エジプトを出て行くのです。

 今夕の御言葉には、神様の固有の御名前である主、「ヤハウェ」がモーセに示されました。エジプトの奴隷状態にあって、先祖の神を遠く感じていたイスラエルの人々に、「わたしはある」というお方として、神様は御自分を示されたのです。現代に生きる多くの人々にとって、神様は遠いお方であります。遠すぎて、もはやいないのではないかと考えられているほどであります。しかし、神様は、「わたしはある。わたしはあるという者だ」と、聖書を通して、御自身をお示しになるのです。神などいない、と言う人間に対して、神様は「わたしはある」と言われるのです。「わたしはある」。それは、どのような存在よりも確かな存在としてある、ということであります。天地万物を造られた神様こそ、「わたしは有って有る者」と言われる、何者にも依存しない自存の方であるのです。私たちは、いや、すべてのものは、「わたしはある」という神様に依存して、存在しているのです。ですから、「わたしはある」という神様の存在を否定することは、自分の存在を否定することになるわけであります。「わたしはある」と言われるお方を「ない」と言い張るとき、その人の存在そのものが不確かなものとなるのです。

 アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神は、モーセに「わたしはある。わたしはあるという者だ」と言われました。これと同じことを、イエス様は、ユダヤ人たちに言われたことがあります。ヨハネによる福音書の8章で、イエス様は次のように言われています。「『わたしはある』ということを信じないならば、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる。」(8:24b)。「あなたたちは、人の子を上げたときに初めて、『わたしはある』ということ、また、わたしが自分勝手に何もせず、ただ、父に教えられたとおりに話していることが分かるだろう」(8:28)。イエス様は、御自分こそ、「わたしはある。わたしはあるという者だ」と言われた主なる神その方であると言われております。神様は、イエス様においてこそ、生きて働くお方として、御自分の民と共にいてくださるのです。神様はイエス様を十字架へと上げられることによって、御自分の民を罪の奴隷状態から天の御国へと導き上ってくださるのであります。神様が「わたしはある。わたしはあるという者だ」と言ってくださるのは、イエス・キリストにおいてであります。ですから、イエス・キリストから目を背けるならば、私たちは、神様がおられるということ、それも生きて働くお方として、共におられるということが分からなくなるのです。そのとき、私たちは自分の罪のゆえに死ぬことになるのです。そのようなことがないように、私たちは、イエス・キリストにおいて、「わたしはある。わたしはあるという者だ」と語りかけてくださる主に従う者でありたいと願います。

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