男児殺害の命令 2014年7月13日(日曜 夕方の礼拝)
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男児殺害の命令
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- 村田寿和 牧師
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出エジプト記 1章15節~21節
聖書の言葉
1:15 エジプト王は二人のヘブライ人の助産婦に命じた。一人はシフラといい、もう一人はプアといった。
1:16 「お前たちがヘブライ人の女の出産を助けるときには、子供の性別を確かめ、男の子ならば殺し、女の子ならば生かしておけ。」
1:17 助産婦はいずれも神を畏れていたので、エジプト王が命じたとおりにはせず、男の子も生かしておいた。
1:18 エジプト王は彼女たちを呼びつけて問いただした。「どうしてこのようなことをしたのだ。お前たちは男の子を生かしているではないか。」
1:19 助産婦はファラオに答えた。「ヘブライ人の女はエジプト人の女性とは違います。彼女たちは丈夫で、助産婦が行く前に産んでしまうのです。」
1:20 神はこの助産婦たちに恵みを与えられた。民は数を増し、甚だ強くなった。
1:21 助産婦たちは神を畏れていたので、神は彼女たちにも子宝を恵まれた。出エジプト記 1章15節~21節
メッセージ
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今夕は出エジプト記1章15節から21節より、御言葉の恵みにあずかりたいと願います。
前回、私たちは、ヨセフのことを知らない新しいエジプトの王がイスラエルの人々の増加を食い止めようと、イスラエルの人々に重労働を課して虐待したことを学びました。エジプトの王は、イスラエルの人々に重労働を課して虐待すれば、これ以上の増加を食い止められると考えたのですが、イスラエルの人々は虐待されればされるほど増え広がったのです。そこで、エジプトの王はイスラエルの人々がこれ以上増え広がらないように、ある命令を助産婦に命じました。それが「男児殺害の命令」であります。
15節から17節までをお読みします。
エジプトの王は二人のヘブライ人の助産婦に命じた。一人はシフラといい、もう一人はプアといった。「お前たちがヘブライ人の女の出産を助けるときは、子供の性別を確かめ、男の子なら殺し、女の子ならば生かしておけ。」助産婦はいずれも神を畏れていたので、エジプト王が命じたとおりにはせず、男の子も生かしておいた。
助産婦の働きは、女の出産を助けることでありますが、エジプトの王は、その助産婦に、産まれてきた子供の性別を確かめ、男の子なら死産に見せかけて殺すようにと命じます。このようにして、エジプトの王は、二人のヘブライ人の助産婦によって、秘密裏にイスラエル人の増加を食い止めようとしたのです。ここに、二人の助産婦の名前が記されていますが、「シフラ」とは「美しさ」を意味し、「プア」とは輝きを意味します。この二人の助産婦はエジプトの王から、同胞のヘブライ人の男の子を殺害するように命じられたのです。これはエジプトの王の命令でありますから、従わなければ身の危険を招くことになります。それこそ、死刑に処せられるかも知れないのです。しかし、助産婦たちはいずれも神を畏れていたので、エジプトの王の命じたとおりにはせず、男の子も生かしておきました。なぜなら、神様は「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ」と言われる命の主であられるからです。子供が産まれてくることの背後には、「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ」という神様の祝福があるのです。それゆえ、神を畏れる助産婦たちは、エジプトの王の命令に従わずに、男の子も生かしておいたのです。使徒言行録の5章29節に、「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません」とありますが、まさしく、二人の助産婦は人間に従うよりも、神に従ったのです。私たちは人間の命令と神の命令が対立するとき、人間ではなく神に従わなくてはならないのです。
18節から21節までをお読みします。
エジプト王は彼女たちを呼びつけて問いただした。「どうしてこのようなことをしたのだ。お前たちは男の子を生かしているではないか。」助産婦はファラオに答えた。「ヘブライ人の女はエジプト人の女性とは違います。彼女たちは丈夫で、助産婦が行く前に産んでしまうのです。」神はこの助産婦たちに恵みを与えられた。民は数を増し、甚だ強くなった。助産婦たちは神を畏れていたので、神は彼女たちにも子宝を恵まれた。
ここで、助産婦たちは、自分たちの身を守るために、知恵を用いて答えております。箴言に「主を畏れることは知恵の初め」とありますように、神を畏れる助産婦たちは知恵を用いるのです。「お前たちは男の子を生かしているではないか」と問いただすエジプトの王に対して、助産婦たちはこう答えました。「ヘブライ人の女はエジプト人の女性とは違います。彼女たちは丈夫で、助産婦が行く前に産んでしまうのです」。彼女たちはこのように答えることによって、自分たちがエジプトの王の命令に背いているのではないことを釈明するのです。これに対して、エジプトの王は何の反論もしておりません。おそらく何の反論もできなかったのだと思います。なぜなら、エジプトの王は、エジプト人の男であるからです。ヘブライ人の女の出産についてとやかく言うことなど、エジプトの王であってもできなかったのです。それにしても、この婦人たちの言葉は本当でしょうか?そのような事例ももしかしたらあったかも知れませんが、いつもそうであったわけではないでしょう。と言いますのも、創世記の35章には、ヤコブの妻ラケルが難産であったことが記されていたからです。ですから、助産婦たちが言ったようなこともあったかも知れませんけれども、いつもそうであったわけではないと思います。そうすると、ここで彼女たちは嘘をついたことになります。神を畏れる助産婦たちは、男の子を殺さず生かしておくために嘘をついたのです。しかも、エジプトの王がこれ以上問いただすことができないほどの嘘をついたのです。私たちは、このことをどのように考えればよいのでしょうか?これは、いわゆる「状況倫理」の問題であると言えます。嘘をつくことは罪ですが、しかし、男の子を殺すことはもっと大きな罪です。彼女たちは神を畏れる知恵によって嘘をつくにより、男の子を殺すというもっと大きな罪を犯さないことを選択したわけです。そのようにして彼女たちはすべてのものの造り主であり、命の主である神の意志に従ったのです。そして、そのような助産婦たちに神様は恵みを与えられました。21節に、「神は彼女たちにも子宝を恵まれた」とありますように、神様は彼女たちにも子孫を与え、家を繁栄させてくださったのです。このことは、私たちに、子供は神様からの授かりものであることを改めて教えてくれます。子供が産まれること、それは神様から夫婦に与えられる祝福であり、恵みであるのです。その神の祝福であり、恵みである子供を、エジプトの王は殺そうとしたのです。これは、明らかに命の主である神様に対する反逆であります。しかし、神様は、御自分を畏れる二人の助産婦によってイスラエルの男の子の命を救われたのです。そのようにして、イスラエルの民は数を増し、甚だ強くなったのでありました。
今夕の御言葉において、神様は御自分を畏れる二人の助産婦を用いて、エジプトの王の悪しき企てを阻止されました。それと同じように、現代の社会においても、神様はイエス・キリストを信じる私たちを用いて、人間の悪しき企てを阻止しようとしておられます。そのことを覚えて、私たちは知恵を働かせて、天の父の御心をなしていきたいと願います。