神の怒りを盛った七つの鉢② 2018年9月23日(日曜 夕方の礼拝)

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神の怒りを盛った七つの鉢②

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ヨハネの黙示録 16章10節~21節

聖句のアイコン聖書の言葉

16:10 第五の天使が、その鉢の中身を獣の王座に注ぐと、獣が支配する国は闇に覆われた。人々は苦しみもだえて自分の舌をかみ、
16:11 苦痛とはれ物のゆえに天の神を冒涜し、その行いを悔い改めようとはしなかった。
16:12 第六の天使が、その鉢の中身を大きな川、ユーフラテスに注ぐと、川の水がかれて、日の出る方角から来る王たちの道ができた。
16:13 わたしはまた、竜の口から、獣の口から、そして、偽預言者の口から、蛙のような汚れた三つの霊が出て来るのを見た。
16:14 これはしるしを行う悪霊どもの霊であって、全世界の王たちのところへ出て行った。それは、全能者である神の大いなる日の戦いに備えて、彼らを集めるためである。
16:15 ――見よ、わたしは盗人のように来る。裸で歩くのを見られて恥をかかないように、目を覚まし、衣を身に着けている人は幸いである。――
16:16 汚れた霊どもは、ヘブライ語で「ハルマゲドン」と呼ばれる所に、王たちを集めた。
16:17 第七の天使が、その鉢の中身を空中に注ぐと、神殿の玉座から大声が聞こえ、「事は成就した」と言った。
16:18 そして、稲妻、さまざまな音、雷が起こり、また、大きな地震が起きた。それは、人間が地上に現れて以来、いまだかつてなかったほどの大地震であった。
16:19 あの大きな都が三つに引き裂かれ、諸国の民の方々の町が倒れた。神は大バビロンを思い出して、御自分の激しい怒りのぶどう酒の杯をこれにお与えになった。
16:20 すべての島は逃げ去り、山々も消えうせた。
16:21 一タラントンの重さほどの大粒の雹が、天から人々の上に降った。人々は雹の害を受けたので、神を冒涜した。その被害があまりにも甚だしかったからである。

ヨハネの黙示録 16章10節~21節

原稿のアイコンメッセージ

 『ヨハネの黙示録』の16章には、最後の災いとして七つの鉢の災いが記されています。1節にこう記されていました。「また、わたしは大きな声が神殿から出て、七人の天使にこう言うのを聞いた。『行って、七つの鉢に盛られた神の怒りを地上に注ぎなさい』」。七人の天使たちによって、鉢に盛られた神の怒りが注がれるごとに、災いがもたらされます。そして、この災いは、前回学びましたように、神の真実で正しい裁きであるのです。前回は、第一の天使から第四の天使までを学びましたので、今夕は第五の天使から第七の天使までを学びたいと思います。

1 第五の天使

 10節、11節をお読みします。

 第五の天使が、その鉢の中身を獣の王座に注ぐと、獣が支配する国は闇に覆われた。人々は苦しみもだえて自分の舌をかみ、苦痛とはれ物のゆえに天の神を冒涜し、その行いを悔い改めようとはしなかった。

 第五の天使は、金の鉢の中にある神の怒りを獣の王座に注ぎました。「獣」とは、自らを神として、教会を迫害するローマ皇帝のことです。第五の天使は、鉢の中にある神の怒りをローマ皇帝の玉座に注いだのです。これによって、ローマ皇帝が支配する国は闇に覆われたのです。「人々は苦しみもだえて自分の舌をかみ」とありますが、人々は何によって苦しみもだえたのでしょうか。11節に「苦痛とはれ物のゆえに」とありますから、はれ物のゆえに苦しみもだえたのではないようです。考えられる一つのことは、9章に記されていた第五のラッパによってもたらされる「いなごの災い」が背後にあるということです。さそりのような力を持ついなごによって苦しみもだえ、人々は自分の舌をかんで死のうとするのですが、死は逃げて行く。それゆえ、彼らは苦痛とはれ物のゆえに天の神を冒涜するのです。彼らは自分の信仰態度、生活態度を悔い改めることをしなかったのです。

2 第六の天使

 12節から16節までをお読みします。

 第六の天使が、その鉢の中身を大きな川、ユーフラテスに注ぐと、川の水がかれて、日の出る方角から来る王たちの道ができた。わたしはまた、竜の口から、獣の口から、そして、偽預言者の口から、蛙のような汚れた三つの霊が出て来るのを見た。これはしるしを行う悪霊どもの霊であって、全世界の王たちのところへ出て行った。それは、全能者である神の大いなる日の戦いに備えて、彼らを集めるためである。-見よ、わたしは盗人のように来る。裸で歩くのを見られて恥をかかないように、目を覚まし、衣を身に着けている人は幸いである。-汚れた霊どもは、ヘブライ語で「ハルマゲドン」と呼ばれる所に、王たちを集めた。

 第六の天使が、鉢の中にある神の怒りを大きな川、ユーフラテスに注ぐと、川の水がかれました。『聖書』巻末の「聖書地図」の「1 聖書の古代世界」を見ると、ユーフラテス川の位置を確認することができます。ユーフラテス川は、ローマ帝国にとって、東の国境であり、自然の防壁のようなものでした。しかし、ユーフラテス川の水がかわくことによって、東から来る王たちの道ができたのです。このことは、ローマ帝国にとって脅威となることです。しかし、このことに、悪霊どもは目をつけます。悪霊どもは、神に逆らう全世界の王たちを集めて、神様に戦いを挑むチャンスとするのです。竜の口、獣の口、偽預言者の口からそれぞれ出て来た汚れた三つの霊は、全世界の王たちのもとへ行き、全能者である神の大いなる日の戦いに備えて、彼らを集めるのです。

 15節に、やがて来られるイエス様の言葉が記されています。これは、唐突な印象を受けますが、どういう意味でしょうか。これはおそらく、イエス様が再臨することによって、全能者である神の大いなる日の戦いが起こることを教えているのだと思います。悪霊どもが全世界の王を集めて準備ができたことによって、「全能者である神の大いなる日の戦い」が始まるのではありません。そうではなくて、主導権は、盗人のように来られる栄光の主イエスが握っておられるのです。

 15節のイエス様の御言葉は、当時の人々が裸で眠っていたことを前提としています。ですから眠っていたら、裸でイエス様をお迎えすることになってしまいます。そのような恥をかくことがないように、目を覚まし、衣を身に着けている人は幸いだ、とイエス様は言われるのです。もちろん、これは譬えでありますから、「目を覚まし」とは「祈っている」こと、「衣を身に着ける」とは「信仰を保持している」ことを現しているのです。イエス様は、全能者である神の大いなる日の戦いに備えて、私たちにも準備するようにと警告しておられるのです。そして、その戦いが、信仰の戦い、霊的な戦いであることを私たちに教えているのです(エフェソ6:10~18参照)。

 16節に、「汚れた霊どもは、ヘブライ語で『ハルマゲドン』と呼ばれる所に、王たちを集めた」とあります。「ハルマゲドン」という言葉の意味については諸説があります。一番有力であるのは「メギドの山」という意味です。『聖書』巻末の「聖書地図」の「3 カナンへの定住」を見ると、イサカルの割り当て地に、「メギド」があります。旧約聖書を読みますと、メギドで大きな戦いがあったことが記されています。女の士師であったデボラは、メギドでカナンの王たちと戦い勝利しました(士師5:19)。また、ユダの王ヨシヤがエジプトの王ネコと戦ったのもメギドでした(列王下23:29)。しかし、一つ問題がありまして、メギドは平野で山はないのだそうです。それで、ある研究者は、メギドに近いカルメル山のことではないかと考えるのですが、厳密に場所を特定する必要なないと思います。ヨハネの黙示録は黙示文学ですから、象徴として、メギドの山、ハルマゲドンという言葉を用いているのです。

3 第七の天使

 17節から21節までをお読みします。

 第七の天使が、その鉢の中身を空中に注ぐと、神殿の玉座から大声が聞こえ、「事は成就した」と言った。そして、稲妻、さまざまな音、雷が起こり、また、大きな地震が起きた。それは、人間が地上に現れて以来、いまだかつてなかったほどの大地震であった。あの大きな都が三つに引き裂かれ、諸国の民の方々の町が倒れた。神は大バビロンを思い出して、御自分の激しい怒りのぶどう酒の杯をこれにお与えになった。すべての島は逃げ去り、山々も消えうせた。一タラントンの重さほどの大粒の雹が、天から人々の上に降った。人々は雹の害を受けたので、神を冒涜した。その被害があまりにも甚だしかったからである。

 第七の天使は、鉢の中にある神の怒りを空中に注ぎました。すると、神殿の玉座から「事は成就した」という神様の大きな声がありました。稲妻、さまざまな音、雷、地震、これらは神様の御臨在をあらわすものであります(出エジプト19章参照)。神様が地に降って来られるとき、かつてなかったほどの大地震が起こるのです。

 19節の「あの大きな都」とは、次の文にある「大バビロン」であるローマのことです。ローマが三つに引き裂かれることにより、その支配下にあった諸国の町も倒されることになります。神様は、大バビロンであるローマに、御自分の激しい怒りのぶどう酒の杯を与えられるのです。この様子が、続く17章から19章に渡って詳しく記されていきます。

 神様が地に降って来られることによって、古い世界は過ぎ去ります。そして、一タラントン(25キログラム)ほどの大粒の雹が天から降るのです。これは、ローマ軍が用いていた投石機の石の大きさと同じであると言われています。そのような大粒の雹が天から降って来たのです。人々は雹による被害があまりにも大きかったので、神を冒涜しました。ここでの人々は、2節にあるように、「獣の刻印を押されている人間たち、獣の像を礼拝する者たち」のことです。彼らは最後まで、その行いを悔い改めようとはしなかったのです。

 前回にも申し上げましたが、最後の災いのとき、人は悔い改めることができません。神様の怒りによって災いをもたらされるとき、人はその被害があまりにも大きいゆえに、神様を冒涜するのです。神様の怒りが徹底化されるとき、人もこれまでの態度を徹底化するのです。

 近年は大きな自然災害が世界でも、日本でも起こっています。ある人は、その自然災害に神様の怒りを見るかも知れません。しかし、わたしは、近年の自然災害は、最後の災いではなくて、人々を悔い改めへと招くためのものであると思います。なぜ、そう言えるのかといいますと、キリストの教会も被害にあっているからです。最後の災いは、神の怒りによってもたらされ、その対象は獣の刻印を受けた者と獣の像を拝む者たちでありました。ですから、キリスト者も被害にあっている近年の災害は、最後の災いではなく、神様からの悔い改めの招きであると言えるのです。そのことを覚えて、私たちは、今日という日に、神様のもとに立ち返り、イエス・キリストを信じたいと願います。

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