第七の天使がラッパを吹く 2018年5月27日(日曜 夕方の礼拝)

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第七の天使がラッパを吹く

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ヨハネの黙示録 11章15節~19節

聖句のアイコン聖書の言葉

11:15 さて、第七の天使がラッパを吹いた。すると、天にさまざまな大声があって、こう言った。「この世の国は、我らの主と、/そのメシアのものとなった。主は世々限りなく統治される。」
11:16 神の御前で、座に着いていた二十四人の長老は、ひれ伏して神を礼拝し、
11:17 こう言った。「今おられ、かつておられた方、/全能者である神、主よ、感謝いたします。大いなる力を振るって統治されたからです。
11:18 異邦人たちは怒り狂い、/あなたも怒りを現された。死者の裁かれる時が来ました。あなたの僕、預言者、聖なる者、/御名を畏れる者には、/小さな者にも大きな者にも/報いをお与えになり、/地を滅ぼす者どもを/滅ぼされる時が来ました。」
11:19 そして、天にある神の神殿が開かれて、その神殿の中にある契約の箱が見え、稲妻、さまざまな音、雷、地震が起こり、大粒の雹が降った。ヨハネの黙示録 11章15節~19節

原稿のアイコンメッセージ

序 神の秘められた計画

 今夕の御言葉には、「第七の天使がラッパを吹いた」ことが記されています。神の御前に立つ七人の天使に、七つのラッパが与えられたことは、8章2節に記されていました。小羊であるイエス様が、巻物の第七の封印を開いたことによって、七人の天使に七つのラッパが与えられました。天使がラッパを吹くことによって、地上に災いがもたらされます。第一の天使から第六の天使までのラッパの災いについては、8章7節から9章21節までに記されていました。10章1節から11章14節までは、第七の天使がラッパを吹くまでの間のことが記されています。その10章5節から7節にこう記されていました。

 すると、海と地の上に立つのをわたしが見たあの天使が、右手を天に上げ、世々限りなく生きておられる方にかけて誓った。すなわち、天とその中にあるもの、地とその中にあるもの、海とその中にあるものを創造された方にかけてこう誓った。「もはや時がない。第七の天使がラッパを吹くとき、神の秘められた計画が成就する。それは、神が御自分の僕である預言者たちに良い知らせとして告げられたとおりである。」

 今夕の御言葉には、第七の天使がラッパを吹くとき成就する「神の秘められた計画」が記されているのです。そして、それは神様が御自分の僕である預言者たちに良い知らせとして告げられたことであるのです。

1 主は世々限りなく統治される

 第七の天使がラッパを吹くと、天にさまざまな大声がありました。これは無数の天使たちの声であります(5:11、12参照)。ですから、ヨハネは、天上の様子を描いているようです。無数の天使たちは、「この世の国は、我らの主と、そのメシアのものとなった。主は世々限りなく統治される」と大声で言いました。これは、これから起こることの先取りであります。地上では、このあとにも様々なことが起こるのですが、天上では、無数の天使たちが、「この世の国は、我らの主と、そのメシアのものとなった。主は世々限りなく統治される」と賛美するのです。そして、このことは、神様が御自分の僕である預言者たちに良い知らせとして告げていたことであるのです。主はイスラエルの王であるだけではなく、すべての国の王であられる。それゆえ、預言者たちは、イスラエルに対する裁きの言葉だけではなく、周辺の諸外国(アッシリアやバビロンやモアブやエジプトなど)に対する裁きの言葉を記しているのです。また、詩編には、「国々にふれて言え。主こそ王と。・・・主は諸国の民を公平に裁かれる」と記されています(詩96:10)。ただ、ここで注意したことは、「この世の国は、我らの主と、そのメシアのものとなった」と記されていることです。「我らの主」とは、「主なる神」のことであります。「そのメシア」とは、「彼のキリスト」(直訳)のことで、神様から油を注がれて王とされたイエス・キリストのことであります。ダニエル書の7章に、「人の子」のような者が、「日の老いたる者」から権威、威光、王権を受けたという幻が記されています。その預言の完全な実現として、イエス・キリストは神様と共に、この世界を王として統治されるのです。

 無数の天使たちの賛美に続いて、24人の長老たちも、ひれ伏して神を礼拝し、こう言いました。「今おられ、かつておられた方、全能者である神、主よ、感謝いたします。大いなる力を振るって統治されたからです」。24人の長老たちについては、4章4節に、「玉座の周りに24の座があって、それらの座の上には白い衣を着て、頭に金の冠をかぶった24人の長老が座っていた」と記されておりました。24人の長老たちは、高い位の天使たちと思われます。ここで長老たちは、神様のことを「今おられ、かつておられた方」と言っていますが、1章8節では、「今おられ、かつておられ、やがて来られる方」と記されていました。11章17節では、「やがて来られる方」という言葉が記されていないのです。それは、神様がすで来られているからです。このことからも分かりますように、今夕の御言葉は、神の秘められた計画が実現したことの先取りとして記されているのです。主がこの世界を王として世々限りなく統治されることは、21章、22章に記されておりますが、天上においては、それが既に起こったこととして、神様に感謝がささげられるのです。

2 死者の裁かれる時

 神様がこの世界を王として統治されるとき、世界は王である神様の義によって裁かれます。神様の統治と神様の裁きは一体的な関係にあるのです。それゆえ、長老たちは、神様の統治を語った後で、神様の裁きについて語るのです。「異邦人たちは怒り狂い、あなたも怒りを現された。死者の裁かれる時が来ました。あなたの僕、預言者、聖なる者、御名を畏れる者には、小さな者にも大きな者にも/報いをお与えになり、地を滅ぼす者どもを/滅ぼされる時が来ました」。ここでの「異邦人たち」は、イエス・キリストを信じない者たちのことであります。「異邦人たちは怒り狂い」とありますが、イエス・キリストを信じない者たちの怒りは、イエス・キリストを信じる者たちを迫害するという仕方で表されます。その異邦人たちの怒りに対して、神様も怒りをもって報いられるのです。「死者の裁かれる時が来ました」とありますように、ここでの裁きは、世の終わりの裁き、いわゆる最後の審判であります。世の終わりの裁きにおいては、死者も裁かれるのです。死者の裁きについては、20章13節に記されていますが、ここでもそのことが先取りされているわけです。死者の裁き、それは地上に存在したすべての人間が裁かれるということを教えています。そして、このことは、神様が預言者たちに告げていたことであるのです。ダニエル書の12章2節に、こう記されています。「多くの者が塵の中の眠りから目覚める。ある者は永遠の生命に入り、ある者は永久に続く恥と憎悪の的となる」。死者の裁かれる、最後の審判において、神様は、イエス・キリストを信じるすべての者に、報いを与えられます。イエス・キリストを信じる者たちは、21章に記されている「新しい天と新しい地の祝福」にあずかることができるのです。しかし、神様は、地を滅ぼす者、地上の人々を道徳的に荒廃させる者を滅ぼされるのです。19章20節には、「獣と偽預言者の両者は、生きたまま硫黄の燃えている火の池に投げ込まれた」と記されています。ここで注目したいことは、イエス・キリストを信じないで教会を迫害する者たちに、神様は応報の原則をもって裁かれるということです。怒りに対しては怒りで報い。滅びに対しては滅びで報いられます。しかし、イエス・キリストを信じる者たちには、小さな者にも、大きな者にも、恵みとしての報いを与えられるのです(ハイデルベルク問63参照)。すなわち、神様は、私たちを主イエスに結ばれた者として、主イエスと同じ報いを与えてくださるのです。使徒パウロは、ガラテヤ書の3章27節でこう記しています。「洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです」。キリストに結ばれている私たちは、キリストの義をまとって、神の御前に立つことができるのです。それゆえ、私たちはキリストと同じ栄光の体で復活させられ、新しい天と新しい地の祝福に生きることができるのです。

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