二人の証人 2018年5月13日(日曜 夕方の礼拝)
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二人の証人
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- 村田寿和 牧師
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ヨハネの黙示録 11章1節~14節
聖書の言葉
11:1 それから、わたしは杖のような物差しを与えられて、こう告げられた。「立って神の神殿と祭壇とを測り、また、そこで礼拝している者たちを数えよ。
11:2 しかし、神殿の外の庭はそのままにしておけ。測ってはいけない。そこは異邦人に与えられたからである。彼らは、四十二か月の間、この聖なる都を踏みにじるであろう。
11:3 わたしは、自分の二人の証人に粗布をまとわせ、千二百六十日の間、預言させよう。」
11:4 この二人の証人とは、地上の主の御前に立つ二本のオリーブの木、また二つの燭台である。
11:5 この二人に害を加えようとする者があれば、彼らの口から火が出て、その敵を滅ぼすであろう。この二人に害を加えようとする者があれば、必ずこのように殺される。
11:6 彼らには、預言をしている間ずっと雨が降らないように天を閉じる力がある。また、水を血に変える力があって、望みのままに何度でも、あらゆる災いを地に及ぼすことができる。
11:7 二人がその証しを終えると、一匹の獣が、底なしの淵から上って来て彼らと戦って勝ち、二人を殺してしまう。
11:8 彼らの死体は、たとえてソドムとかエジプトとか呼ばれる大きな都の大通りに取り残される。この二人の証人の主も、その都で十字架につけられたのである。
11:9 さまざまの民族、種族、言葉の違う民、国民に属する人々は、三日半の間、彼らの死体を眺め、それを墓に葬ることは許さないであろう。
11:10 地上の人々は、彼らのことで大いに喜び、贈り物をやり取りするであろう。この二人の預言者は、地上の人々を苦しめたからである。
11:11 三日半たって、命の息が神から出て、この二人に入った。彼らが立ち上がると、これを見た人々は大いに恐れた。
11:12 二人は、天から大きな声があって、「ここに上って来い」と言うのを聞いた。そして雲に乗って天に上った。彼らの敵もそれを見た。
11:13 そのとき、大地震が起こり、都の十分の一が倒れ、この地震のために七千人が死に、残った人々は恐れを抱いて天の神の栄光をたたえた。
11:14 第二の災いが過ぎ去った。見よ、第三の災いが速やかにやって来る。ヨハネの黙示録 11章1節~14節
メッセージ
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序 第六のラッパと第七のラッパとの間
10章1節から11章14節までは、第六のラッパと第七のラッパとの間に記されています。以前に学んだ第六の封印と第七の封印との間に、7章が記されていたように、第六のラッパと第七のラッパとの間に、10章1節から11章14節までが記されているのです。前回は10章1節から11節までを学びましたので、今夕は11章1節から14節までをご一緒に学びたいと願います。
1 礼拝している者たちを数えよ
3節に、「わたしは、自分の二人の証人に」とありますように、ヨハネに杖のような物差しを与え、語られたのは、天上のイエス様であります。ヨハネは、イエス様から杖のような物差しを与えられ、神の神殿と祭壇と礼拝している者たちを測るように命じられました。新共同訳聖書は、「神殿と祭壇を測り、礼拝している者を数えよ」と翻訳していますが、元の言葉では、「神殿と祭壇と礼拝している者を測れ」と記されています。この所は、エゼキエル書の40章から42章に記されている「新しい神殿の幻」を背景にして記されています。そこには、神様が幻によってエゼキエルをイスラエルに連れて行き、新しい神殿を示されたこと。また、青銅のように輝いている人が物差しで、その神殿の寸法を測ったことが記されています。そのようにして神様は、イスラエルの地に新しい神殿が再建されることを幻によって示されたのです。しかし、ヨハネの黙示録において、主イエスが「神の神殿…を測れ」と言われるとき、それは文字通りの、建物の神殿のことではなく、イエス・キリストを信じる者たちの群れである教会のことであるのです(一コリント3:17参照)。また、「祭壇」とありますが、これは神殿の内庭にある焼き尽くす献げ物をささげる「祭壇」のことで、2節の「神殿の外の庭」との対比でここに記されています。神殿と祭壇に表される聖域で神様を礼拝している者たちとは、イエス・キリストを信じて礼拝をささげている私たちのことであります。ここで、主イエスがヨハネに、私たちの数を数えるように命じているのは、私たちを保護するためであります。イエス様を礼拝する者たちが一人も失われることのないように数えておくよう、ヨハネは命じられたのです。それに対して、イエス様は、「神殿の外の庭は測ってはいけない」と言われました。ここでヨハネは、ヘロデ大王が増築した第二神殿を念頭において記しています。神殿の外庭までは異邦人も入ることができました。その外庭を測ることが禁じられていることは、異邦人が、イエス様の保護のもとには置かれていないということであります。ここでの異邦人は、ユダヤ人以外の民族のことではなく、イエス・キリストを信じない者たちのことです。「異邦人たちは、42か月の間、聖なる都を踏みにじるであろう」とありますが、「聖なる都」も象徴的な意味で用いられています。つまり、イエス・キリストを信じない者たちが踏み荒らす聖なる都とは、教会のことであるのです。また、「42か月の間」とは、3年半のことです。この年数は、ダニエル書の記述を背景にしています。ダニエル書の7章23節から27節までをお読みします。旧約の1393ページです。
さて、その人はこう言った。「第四の獣は地上に興る第四の国/これはすべての国に異なり/全地を食らい尽くし、踏みにじり、打ち砕く。十の角はこの国に立つ十人の王/そのあとにもう一人の王が立つ。彼は十人の王と異なり、三人の王を倒す。彼はいと高き方に敵対して語り/いと高き方の聖者を悩ます。彼は時と法を変えようとたくらむ。聖者らは彼の手に渡され/一時期、二時期、半時期がたつ。やがて裁きの座が開かれ/彼はその権威を奪われ/滅ぼされ、絶やされて終わる。天下の全王国の王権、権威、支配の力は/いと高き方の聖なる民に与えられ/その国はとこしえに続き/支配者はすべて、彼らに仕え、彼らに従う。」
このダニエル書の記述は、ギリシャ帝国の王アンティオコス・エピファネスのことを背景にして記されています。中間時代に記された旧約聖書続編の中にマカバイ記という書物がありますが、それを読みますと、ギリシャの王アンティオコス・エピファネスが、律法に従う者たちを迫害したことが記されています。このアンティオコス・エピファネスの迫害の期間が、3年半と言われています。25節の最後に、「一時期、二時期、半時期がたつ」とありますが、これを合計すると3年半となりますが、これはアンティオコス・エピファネスの迫害の期間と関係があると考えられているのです。また、3年半は、完全数である7の半分ですから、迫害の期間は長くは続かない、一時的なものであることを示しているのです。
では、今夕の御言葉に戻ります。新約の464ページです。
3節に、「わたしは、自分の二人の証人に粗布をまとわせ、1260日の間、預言させよう」とありますが、1260日も、42か月、3年半を表します。異教徒が教会を迫害する期間、主イエスは二人の証人に粗布をまとわせ、預言させるのです。この二人の証人については、4節以下に詳しく記されていますが、結論を先取りすれば、この二人の証人とは私たち教会のことです。異教徒によって教会が迫害を受ける期間は、教会にとって証しをする期間であるのです。そして、その期間、私たち教会はイエス様の保護のもとにあるのです。
2 二人の証人
4節に、「この二人の証人とは、地上の主の御前に立つ二本のオリーブの木、また二つの燭台である」とあります。この所は、ゼカリヤ書の4章を背景にして記されています。ゼカリヤ書の4章には、一つの金の燭台とその傍らにある二本のオリーブの木の幻が記されています。その意味するところは、金の燭台が主なる神であり、二本のオリーブの木が二人の油を注がれた人でありました。ゼカリヤ書において、二人の油注がれた人、二人のメシアとは、政治的指導者であるゼルバベルと大祭司ヨシュアのことであります。ゼカリヤに示された幻によれば、王と祭司の二人のメシアが立てられるのです。そのことを念頭において、ヨハネは教会のことを、二人の証人、二本のオリーブの木、二つの燭台と呼んでいるのです。そのことは、私たちがイエス・キリストによって油を注がれて、王とされ、また祭司とされたことを暗示しています。ヨハネは、1章20節において、「七つの燭台は七つの教会である」と記しておりますから、「二つの燭台」も、教会のことを暗示しているのです。
教会が二人の証人にたとえられるのは、裁判において二人以上の一致した証言が真実とみなされたことと関係しています。この二人の証人は、法廷において、イエス・キリストについて証しする者であるでのです(申命19:15参照)。ここで二人の証人は大きな力が与えられています。「この二人に害を加えようとする者があれば、彼らの口から火が出て、その敵で滅ぼすであろう」とありますが、これはその昔、主が預言者エレミヤに言われたことであります。エレミヤ書5章14節にこう記されています。「見よ、わたしはわたしの言葉を/あなたの口に授ける。それは火となり/この民を薪とし、それを焼き尽くす」。教会は預言する者として、エレミヤと同じように敵を滅ぼす火の言葉を授けられているのです。そして、「この二人に害を加えようとする者があれば、必ずこのように殺される」とあるように、二人の証人は絶対的にまさった位置にあるのです。また、この二人には、エリヤとモーセの力も与えられております。エリヤに雨が降らないように天を閉じる力が与えられていたように、また、モーセに水を血に変える力が与えられていたように、二人の証人にも、同じ力が与えられているのです(ヤコブ5:16〜18参照)。
二人がその証しを終えると、一匹の獣が底なしの淵から出て来て、彼らと戦って勝ち、二人を殺してしまいます。この「獣」については、13章に詳しく記されていますが、ローマ帝国のことであります。神様は、獣が二人の証人に戦って勝ち、彼らを殺してしまうことをお許しになりました。彼らの死体はたとえれば(霊的には)ソドムとかエジプトとか呼ばれる大きな都の大通りに取り残されます。「この二人の証人の主も、その都で十字架につけられたのである」とありますから、ここではエルサレムのことが考えられているようです。神の都エルサレムは、霊的には、神様と関係からすれば、悪の巣窟であるソドムと神の民を虐待したエジプトと等しいものとなっているのです(イザヤ1:10参照)。なぜなら、エルサレムに代表されるユダヤ人たちは、イエス様を十字架につけて殺したばかりか、その弟子たちをも迫害していたからです。そして、このことは、ユダヤ人だけに限りません。9節に、「さまざまの民族、種族、言葉の違う民、国民に属する人々は、三日の間、彼らの死体を眺め、それを墓に葬ることは許さないであろう」とありますように、全世界の人々が、二人の証人に敵意をもっていたのです。死体を墓に葬らないことは、死者に対するこの上ない侮辱であります。地上の人々は、彼らのことで大いに喜び、贈り物をやりとりするとあります。「地上の人々」とは、イエス・キリストを信じない者たちのことです。もっと言えば、イエス・キリストを信じる者を迫害する者たちのことであります。彼らは、自分たちではできなかったことを獣がしてくれたので、大いに喜び、贈り物をやりとりするのです。
三日半たって、命の息が神から出て、この二人に入りました。そして、彼らは立ち上がった(復活した)のです。この所は、エゼキエル書37章の記述を背景に記されています。エゼキエル書の37章には、「枯れた骨の復活」の幻が記されています。主の言葉によって、多くの枯れた骨に筋と肉が生じ、皮膚がその上をすっかり覆います。しかし、その中に霊はありませんでした。主はエゼキエルに、「霊よ、四方から吹き来たれ。霊よ、これらの殺されたものの上に吹きつけよ」と預言して言うように命じます。すると、霊が彼らの中に入り、彼らは生き返って自分の足で立ったのです。エゼキエル書において、これらの骨はイスラエルの全家でありますが、ヨハネの黙示録では、二人の証人、キリストの教会であるのです(ガラテヤ6:16参照)。「三日半」は「七日」の半分であり、二人が死んだのは一時的であることを示しています。このことは、教会が滅ぼされたように見えても、それは一時的であり、必ず神によって復活させられ、高く上げられることを教えています。私たちの主イエス・キリストが十字架につけられたように、私たちは十字架につけられるかも知れません。そのように、自分の命をもって、主イエス・キリストを証言するときが来るかもしれません。しかし、その私たちを、神様は復活させられ、栄光へと上げられるのです。私たちの主イエス・キリストが復活させられ、天へと上げられたように、私たちも復活させられ、天へと上げられるのです。ここで言われていることは、教会は迫害を免れることができるということではありません。教会は迫害の中にあっても、預言する務めを全うすることができるということです。証言するために、自分の命を失うことになっても、復活させられて、天へと上げられるということです。そのように、私たちはイエス様によって守られているのです。イエス様は、ヨハネによる福音書の10章27節、28節でこう言われています。「わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない」。今夕の御言葉は、私たちが迫害の中にあっても、また、殉教の死を遂げることになっても、イエス様の守りのうちにあることを教えています(ローマ8:35〜39参照)。キリストを信じる者は無残な死で終わることなく、必ず復活させられ、栄光へと上げられることを教えているのです。