甘くて苦い神の言葉 2018年4月15日(日曜 夕方の礼拝)
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甘くて苦い神の言葉
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- 村田寿和 牧師
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ヨハネの黙示録 10章1節~11節
聖書の言葉
10:1 わたしはまた、もう一人の力強い天使が、雲を身にまとい、天から降って来るのを見た。頭には虹をいただき、顔は太陽のようで、足は火の柱のようであり、
10:2 手には開いた小さな巻物を持っていた。そして、右足で海を、左足で地を踏まえて、
10:3 獅子がほえるような大声で叫んだ。天使が叫んだとき、七つの雷がそれぞれの声で語った。
10:4 七つの雷が語ったとき、わたしは書き留めようとした。すると、天から声があって、「七つの雷が語ったことは秘めておけ。それを書き留めてはいけない」と言うのが聞こえた。
10:5 すると、海と地の上に立つのをわたしが見たあの天使が、/右手を天に上げ、
10:6 世々限りなく生きておられる方にかけて誓った。すなわち、天とその中にあるもの、地とその中にあるもの、海とその中にあるものを創造された方にかけてこう誓った。「もはや時がない。
10:7 第七の天使がラッパを吹くとき、神の秘められた計画が成就する。それは、神が御自分の僕である預言者たちに良い知らせとして告げられたとおりである。」
10:8 すると、天から聞こえたあの声が、再びわたしに語りかけて、こう言った。「さあ行って、海と地の上に立っている天使の手にある、開かれた巻物を受け取れ。」
10:9 そこで、天使のところへ行き、「その小さな巻物をください」と言った。すると、天使はわたしに言った。「受け取って、食べてしまえ。それは、あなたの腹には苦いが、口には蜜のように甘い。」
10:10 わたしは、その小さな巻物を天使の手から受け取って、食べてしまった。それは、口には蜜のように甘かったが、食べると、わたしの腹は苦くなった。
10:11 すると、わたしにこう語りかける声が聞こえた。「あなたは、多くの民族、国民、言葉の違う民、また、王たちについて、再び預言しなければならない。」ヨハネの黙示録 10章1節~11節
メッセージ
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序 第六のラッパと第七のラッパの間で
今夕の御言葉は、第六のラッパと第七のラッパとの間に記されています。以前学んだ第六の封印と第七の封印との間に、7章が記されていたように、第六のラッパと第七のラッパとの間に、10章1節から11章14節までが記されているのです。今夕は、その前半、10章1節から11節までをご一緒に学びたいと願っております。
1 力強い天使と七つの雷
1節から4節までをお読みします。
わたしはまた、もう一人の力強い天使が、雲を身にまとい、天から降って来るのを見た。頭には虹をいただき、顔は太陽のようで、足は火の柱のようであり、手には開いた小さな巻物を持っていた。そして、右足で海を、左足で地を踏まえて、獅子がほえるような大声で叫んだ。天使が叫んだとき、七つの雷がそれぞれの声で語った。七つの雷が語ったとき、わたしは書き留めようとした。すると、天から声があって、「七つの雷が語ったことは秘めておけ。それを書き留めてはいけない」と言うのが聞こえた。
ヨハネは、もう一人の力強い天使が、雲を身にまとい、天から降って来るのを見ました。「天から降って来るのを見た」とありますから、このとき、ヨハネは地上にいたようであります。「もう一人の力強い天使」とは、5章2節に記されていた「一人の力強い天使」とは別の力強い天使ということであります。5章2節に、「また、一人の力強い天使が、『封印を解いて、この巻物を開くのにふさわしい者はだれか』と大声で告げるのを見た」とあります。その力強い天使とは別の、もう一人の力強い天使が天から降って来るのをヨハネは見たのです。この天使がどれほど力強い天使であったかは、その姿からも分かります。力強い天使は、雲を身にまとっていました。雲は神様の御臨在を表します。「頭には虹をいただき」とありますが、4章3節によれば、神様の玉座の周りにはエメラルドのような虹が輝いておりました。「顔は太陽のようで」とありますが、1章16節には、天上におられるキリストの顔が「強く照り輝く太陽のようであった」と記されています。「足は火の柱のようであり」とありますが、「火の柱」も神様の御臨在を表します。このように力強い天使は、神様とキリストに似せて、その属性を帯びる者として描かれているのです。
力強い天使は、手に開いた小さな巻物を持っていました。「開いた小さな巻物」とあるよう、これは5章に記されていた巻物とは別の巻物であります。5章には、玉座に座っておられる方(神様)の右手に、七つの封印された巻物があったと記されていました。その七つの封印がイエス様によって一つずつと解かれ、救いの歴史は進展していったのです。しかし、力強い天使が持っている小さな巻物は開いておりますので、すぐにでも実現することが記されていたようです。
力強い天使は、右足で海を、左足で地を踏まえて、獅子がほえるような大声で叫びました。当時の人々は、世界を海と地からなると考えておりました。また、旧約聖書には、神様が「獅子のようにほえる」との記述があります(ホセア11:10)。よって、力強い天使は、世界を統治する者として、神の言葉を大声で告げたのです。
天使が叫んだとき、七つの雷がそれぞれの声で語りました。黙示録において、七という数字は完全数であります。また、旧約聖書において、雷は神様の御声を表します(詩29:3参照)。ですから、七つの雷の声は、天上の神様の御声であります。ヨハネはそれを書き留めようとするのですが、禁じられます。ヨハネは、「七つの雷が語ったことは秘めておけ。それを書き留めてはならない」という天の声を聞くのです。ですから、私たちは、七つの雷が何を語ったのかを知ることはできません。その内容は、ヨハネだけが知っているのです。聖書には、私たち人間が救われるための十分な知識が記されています。しかし、神様のすべてことが記されているわけではないのです。
2 もはや時がない
5節から7節までをお読みします。
すると、海と地の上に立つのをわたしが見たあの天使が、右手を天に上げ、世々限りなく生きておられる方にかけて誓った。すなわち、天とその中にあるもの、地とその中にあるもの、海とその中にあるものを創造された方にかけてこう誓った。「もはや時がない。第七の天使がラッパを吹くとき、神の秘められた計画が成就する。それは、神が御自分の僕である預言者たちに良い知らせとして告げられたとおりである。」
力強い天使は、右手を上げて、世々限りなく生きておられる神様、すべてのものの造り主である神様にかけて誓っています。これは、迫害の中にある教会を励ますための誓いです。「もはや時がない」とは「もはや時が延ばされることはない」ということであります(新改訳参照)。ここで「神の秘められた計画」と訳されている言葉は「神のミュステーリオン」で、「神の奥義」とも訳すことができます(新改訳)。神の奥義は、第七の天使がラッパを吹くとき、必ず成就するのです。では、神の秘められた計画とは、どのようなものなのでしょうか?11章15節から18節に、その内容が記されています。
さて、第七の天使がラッパを吹いた。すると、天にさまざまな大声があって、こう言った。「この世の国は、我らの主と、そのメシアのものとなった。主は世々限りなく統治される。」神の御前で、座に着いていた二十四人の長老は、ひれ伏して神を礼拝し、こう言った。「今おられ、かつておられた方、全能者である神、主よ、感謝いたします。大いなる力を振るって統治されたからです。異邦人たちは怒り狂い、あなたも怒りを現された。死者の裁かれる時が来ました。あなたの僕、預言者、聖なる者、御名を畏れる者には、小さな者にも大きな者にも/報いをお与えになり、地を滅ぼす者どもを/滅ぼされる時が来ました。」
第七の天使がラッパを吹くとき、成就する神の秘められた計画とは、この世の国を神とキリストが世々限りなく統治されること。そして、神様の裁きによって、聖なる者には、小さな者にも大きな者にも報いが与えられることであるのです。そして、このことは、神様が旧約の預言者によって約束されていたことであり、イエス・キリストを信じて聖なる者とされた私たちにとって、福音(良い知らせ)であるのです。
3 甘くて苦い神の言葉
8節から11節までをお読みします。
すると、天から聞こえたあの声が、再びわたしに語りかけて、こう言った。「さあ行って、海と地の上に立っている天使の手にある、開かれた巻物を受け取れ。」そこで、天使のところへ行き、「その小さな巻物をください」と言った。すると、天使はわたしに言った。「受け取って、食べてしまえ。それは、あなたの腹には苦いが、口には蜜のように甘い。」わたしは、その小さな巻物を天使の手から受け取って、食べてしまった。それは、口には蜜のように甘かったが、食べると、わたしの腹は苦くなった。すると、わたしにこう語りかける声が聞こえた。「あなたは、多くの民族、国民、言葉の違う民、また、王たちについて、再び預言しなければならない。」
ヨハネが巻物を食べてしまうという記述は、エゼキエル書を背景にして記されています。旧約の1289頁。エゼキエル書の2章8節から3章3節までをお読みします。
人の子よ、わたしがあなたに語ることを聞きなさい。あなたは反逆の家のように背いてはならない。口を開いて、わたしが与える者を食べなさい。」わたしが見ていると、手がわたしに差し伸べられており、その手に巻物があるではないか。彼がそれをわたしの前に開くと、表にも裏にも文字が記されていた。それは哀歌と、呻きと、嘆きの言葉であった。彼はわたしに言われた。「人の子よ、目の前にあるものを食べなさい。この巻物を食べ、行ってイスラエルの家に語りなさい。」わたしが口を開くと、主は巻物をわたしに食べさせて、言われた。「人の子よ、わたしが与えるこの巻物を胃袋に入れ、腹を満たせ。」わたしがそれを食べると、それは蜜のように口に甘かった。
巻物を食べるとは、その巻物に記されていることを知り、自分のものとすることを表しています。エゼキエルも、ヨハネも巻物を食べました。そして、それは預言者として神の言葉を人々に語るためであったのです。
今夕の御言葉に戻ります。新約の464頁です。
エゼキエルもヨハネも巻物を食べましたが、一つ異なっている点があります。それは、エゼキエルが食べた巻物は、「蜜のように口に甘かった」と記されていたのに対して、ヨハネが食べた巻物は、「口には蜜のように甘かったが、食べると、わたしの腹は苦くなった」と記されていることです。なぜ、このような違いが生じているのでしょうか?考えられる一つのことは、エゼキエル書が神の言葉の性質から「口に甘い」と記しているのに対して、ヨハネの黙示録はその内容から「口に甘いが、腹に苦い」と記しているということです。詩編の19編に、神の御言葉は、「蜜よりも、蜂の巣の滴りよりも甘い」と記されています(119編103節「あなたの仰せを味わえば/わたしの口に蜜よりも甘いことでしょう」も参照)。そのような神の言葉の性質から、エゼキエル書では、「蜜のように口に甘かった」と記されているのです。他方、ヨハネの黙示録では、巻物に記されている内容から、「口には甘く、腹には苦い」と記されているのです。私たちも福音を宣べ伝える者たちとして、その内容が「口には甘く、腹には苦い」ことを知っていると思います。福音の甘さ、それはイエス・キリストを信じるならば、罪と死の支配から救われるという甘さであります。私たちはその甘さを味わってイエス・キリストを神の御子、救い主と信じたのです。しかし、そのことを宣べ伝えるとき、その甘さは、腹の中で苦くなるのです。腹の中で苦くなるとは、心の内に悲しみや嘆きを抱くようになるということです。なぜなら、多くの人がイエス・キリストを信じようとしないからです。神の言葉は口には甘いが、腹には苦い。このことをよく知っていたのは、使徒パウロであります。パウロはキリストの十字架に敵対して歩んでいる多くの者たちに、涙を流しながら福音を宣べ伝えました。なぜなら、イエス・キリストを信じないのであれば、その人は自分の罪のゆえに滅んでしまうからです。そのことを、ヨハネも、また私たちも知っているのです。ですから、私たちは、悲しみの心を抱きながら、すべての人に福音を宣べ伝えなければならないのです。