災いは悔い改めの機会である 2018年3月18日(日曜 夕方の礼拝)
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災いは悔い改めの機会である
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- 村田寿和 牧師
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ヨハネの黙示録 9章13節~21節
聖書の言葉
9:13 第六の天使がラッパを吹いた。すると、神の御前にある金の祭壇の四本の角から一つの声が聞こえた。
9:14 その声は、ラッパを持っている第六の天使に向かってこう言った。「大きな川、ユーフラテスのほとりにつながれている四人の天使を放してやれ。」
9:15 四人の天使は、人間の三分の一を殺すために解き放された。この天使たちは、その年、その月、その日、その時間のために用意されていたのである。
9:16 その騎兵の数は二億、わたしはその数を聞いた。
9:17 わたしは幻の中で馬とそれに乗っている者たちを見たが、その様子はこうであった。彼らは、炎、紫、および硫黄の色の胸当てを着けており、馬の頭は獅子の頭のようで、口からは火と煙と硫黄とを吐いていた。
9:18 その口から吐く火と煙と硫黄、この三つの災いで人間の三分の一が殺された。
9:19 馬の力は口と尾にあって、尾は蛇に似て頭があり、この頭で害を加えるのである。
9:20 これらの災いに遭っても殺されずに残った人間は、自分の手で造ったものについて悔い改めず、なおも、悪霊どもや、金、銀、銅、石、木それぞれで造った偶像を礼拝することをやめなかった。このような偶像は、見ることも、聞くことも、歩くこともできないものである。
9:21 また彼らは人を殺すこと、まじない、みだらな行い、盗みを悔い改めなかった。ヨハネの黙示録 9章13節~21節
メッセージ
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序.ラッパの災い
小羊であるイエス様が第七の封印を開きますと、7人の天使に7つのラッパが与えられました。天使がラッパを吹くごとに、地上に災いがもたらされます。第一から第四までの災いは、陸地や海や川や天体の異変によって、地上に住む者たちに災いがもたらされました。先週学んだ第五の災いでは、いなごによって、直接、人間に災いがもたらされました。人間はいなごによって死にたいと思うほどの苦痛を与えられたのです。そして、今夕の御言葉、第六のラッパの災いでは、おびただしい騎兵によって、人間の三分の一が殺されるのです。以前にラッパの災いは、出エジプト記に記されているエジプトでの十の災いを暗示していると申しました。エジプトでの災いの被害は、だんだんと大きくなっていきました。エジプトのでの最後の災いは、エジプト中の初子が死んでしまうという災いであったのです。ラッパの災いの被害も、だんだんと大きくなっていることが分かります。第六の災いにおいて、人間の三分の一が死ぬのです。三分の一という比率は、第一から第四の災いにおいても記されていました。神様は人間の三分の一がおびただしい騎兵によって殺されることをよしとされました。それは、生き残っている人間に、悔い改める機会を与えるためであったのです
1.報復としての災い
13節から19節までをお読みします。
第六の天使がラッパを吹いた。すると、神の御前にある金の祭壇の四本の角から一つの声が聞こえた。その声は、ラッパを持っている第六の天使に向かってこう言った。「大きな川、ユーフラテスのほとりにつながれている四人の天使を放してやれ。」四人の天使は、人間の三分の一を殺すために解き放たれた。この天使たちは、その年、その月、その日、その時間のために用意されていたのである。その騎兵の数は二億、わたしはその数を聞いた。わたしは幻の中で馬とそれに乗っている者たちを見たが、その様子はこうであった。彼らは、炎、紫、および硫黄の色の胸当てを着けており、馬の頭は獅子の頭のようで、口からは火と煙と硫黄とを吐いていた。その口から吐く火と煙と硫黄、この三つの災いで人間の三分の一が殺された。馬の力は口と尾にあって、尾は蛇に似て頭があり、この頭で害を加えるのである。
第六の天使がラッパを吹くと、神の御前にある金の祭壇の四本の角から一つの声が聞こえました。この祭壇は七人の天使が、多くの香を聖なる者たちの祈りに添えてささげた祭壇であります。8章3節にこう記されていました。「また、別の天使が来て、手に金の香炉を持って祭壇のそばに立つと、この天使に多くの香が渡された。すべての聖なる者たちの祈りに添えて、玉座の前にある金の祭壇にささげるためである」。また、6章9節、10節にはこう記されておりました。「小羊が第五の封印を開いたとき、神の言葉と自分たちがたてた証のために殺された人々の魂を、わたしは祭壇の下で見た。彼らは大声でこう叫んだ。『真実で聖なる主よ、いつまで裁きを行わず、地に住む者にわたしたちの血の復讐をなさらないのですか』」。ヨハネが、今夕の御言葉で、「第六の天使がラッパを吹いた。すると、神の御前にある金の祭壇の四本の角から一つの声が聞こえた」と記しているのは、これからもたらされる災いが、殺された聖なる者たちの祈りに応えるものであることを教えているのです。神様は聖なる者たちを殺した地上の者たちの三分の一を殺すことによって、報復してくださるのです。先程、エジプトでの最後の災いは、エジプト中の初子が死んでしまうという災いであったと申しました。実は、この災いもエジプトがイスラエルの民にしたことでありました。エジプトの王ファラオは助産婦に、イスラエル人の生まれてきた男の子を殺すよう命じました(出エジプト1章)。また、ファラオは全国民に、イスラエル人の生まれた男の子をナイル川に放り込むよう命じました(出エジプト1章)。そのようなエジプト人の初子を神様は滅ぼされたのです。神様は、エジプト人がご自分の民にしたことにふさわしい罰を与えられたのです。それと同じように、神様は、聖なる者たちを殺した地上の者の三分の一を殺されるのです。ですから、殺される三分の一の人間はキリスト者ではありません。イエス・キリストを信じない者たち、イエス・キリストを信じる者を迫害する者たちであるのです(8:13参照)。
2.四人の天使と二億の騎兵
神の御前にある金の祭壇の四本の角から聞こえた声、これは神様の声であります。神様は、ラッパを持っている第六の天使に向かってこう言いました。「大きな川、ユーフラテスのほとりにつながれている四人の天使を放してやれ」。ユーフラテス川の場所については、聖書巻末の聖書地図で確認することができます(第一図)。ユーフラテス川は神様がアブラハムに約束された土地の東の境界線であります(創世15:18参照)。また、ユーフラテス川のある地方から、かつてイスラエルを苦しめたアッシリア帝国やバビロン帝国が起こりました。そのユーフラテス川のほとりにつながれている四人の天使を放してやれと神様は言われるのです。「この天使たちは、その年、その月、その日、その時間のために用意されていたのである」と記されています。神様は殉教者の数を定められていたように、殉教者に報復する天使たちをも定められていたのです(6:11参照)。
16節以下には、おびただしい騎兵の姿が描かれています。四人の天使たちがおびただしい騎兵であるのか。それとも、四人の天使たちの指揮のもとに、おびただしい騎兵がいるのかは分かりません。ともかく、人間の三分の一を殺すのは、このおびただしい騎兵、特に馬であります。「馬の頭は獅子の頭のようで、口からは火と煙と硫黄とを吐いていた」とありますが、この記述は、かつて神様が天から硫黄の火を降らせて、ソドムとゴモラを滅ぼされたことを思い起こさせます。三分の一の人間が、火と煙と硫黄によって殺されることは、その死が神様の裁きであることを教えているのです。また、馬の尾が蛇に似ており、噛み付いて害を加えることは、このおびただしい騎兵が、悪魔的な軍勢であることを示しています。そうであれば、ユーフラテスのほとりにつながれている四人の天使は、堕落した天使、悪魔であったのかも知れません。
3.災いは悔い改めの機会である
20節、21節をお読みします。
これらの災いに遭っても殺されずに残った人間は、自分の手で造ったものについて悔い改めず、なおも、悪霊どもや、金、銀、銅、石、木それぞれで造った偶像を礼拝することをやめなかった。このような偶像は、見ることも、聞くことも、歩くこともできないものである。また彼らは人を殺すこと、まじない、みだらな行い、盗みを悔い改めなかった。
人間の三分の一が殺されるという災いは、殺されずに残った人間にどのような影響を与えたでしょうか?生き残った人間は、殺された人間に自分たちを重ねて、悔い改めたでしょうか?いいえ、彼らは悔い改めることをしませんでした。彼らは異教の神々、手で作った偶像を礼拝することをやめなかったのです。また、彼らは人を殺すこと、まじない、みだらな行い、盗みを悔い改めることをしなったのです。災いが悔い改めの機会であることは、イエス様が教えていることでもあります。新約の134頁。ルカによる福音書13章1節から5節までをお読みします。
ちょうどそのとき、何人かの人が来て、ピラトがガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜたことをイエスに告げた。イエスはお答えになった。「そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い者だったからだと思うのか。決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。また、シロアムの塔が倒れて死んだあの十八人は、エルサレムに住んでいたほかのどの人々よりも、罪深い者だったと思うのか。決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。
ここでイエス様が求めておられることは、災いに神の裁きを見て、悔い改めることであります。災いは、私たち人間の力を越えたものの一つであります。人間の力を越えた災いに神の裁きを見て、まことの神に立ち返ることを、私たちは求められているのです。では、まことの神に立ち返るとはどのようなことでしょうか?それは、人間が造った神々を拝むのではなく、人間を造った神を拝むことです。イエス・キリストによって、ご自身を現してくださった神様を礼拝することです。また、神様の御意思の表れである十戒に従って生きることであります。神様は、災いを通して、地上の者たちが、ご自分へと立ち帰ることを求めておられるのです。