悪霊に従う者は悪霊に滅ぼされる 2018年3月11日(日曜 夕方の礼拝)
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悪霊に従う者は悪霊に滅ぼされる
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- 村田寿和 牧師
- 聖書
ヨハネの黙示録 9章1節~12節
聖書の言葉
9:1 第五の天使がラッパを吹いた。すると、一つの星が天から地上へ落ちて来るのが見えた。この星に、底なしの淵に通じる穴を開く鍵が与えられ、
9:2 それが底なしの淵の穴を開くと、大きなかまどから出るような煙が穴から立ち上り、太陽も空も穴からの煙のために暗くなった。
9:3 そして、煙の中から、いなごの群れが地上へ出て来た。このいなごには、地に住むさそりが持っているような力が与えられた。
9:4 いなごは、地の草やどんな青物も、またどんな木も損なってはならないが、ただ、額に神の刻印を押されていない人には害を加えてもよい、と言い渡された。
9:5 殺してはいけないが、五か月の間、苦しめることは許されたのである。いなごが与える苦痛は、さそりが人を刺したときの苦痛のようであった。
9:6 この人々は、その期間、死にたいと思っても死ぬことができず、切に死を望んでも、死の方が逃げて行く。
9:7 さて、いなごの姿は、出陣の用意を整えた馬に似て、頭には金の冠に似たものを着け、顔は人間の顔のようであった。
9:8 また、髪は女の髪のようで、歯は獅子の歯のようであった。
9:9 また、胸には鉄の胸当てのようなものを着け、その羽の音は、多くの馬に引かれて戦場に急ぐ戦車の響きのようであった。
9:10 更に、さそりのように、尾と針があって、この尾には、五か月の間、人に害を加える力があった。
9:11 いなごは、底なしの淵の使いを王としていただいている。その名は、ヘブライ語でアバドンといい、ギリシア語の名はアポリオンという。
9:12 第一の災いが過ぎ去った。見よ、この後、更に二つの災いがやって来る。ヨハネの黙示録 9章1節~12節
メッセージ
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小羊であるイエス様によって、巻物の第七の封印が開かれると、天は半時間ほど沈黙に包まれました。そして、ヨハネは、神の御前に立つ七人の天使に七つのラッパが与えられたの見たのであります。前回、私たちは、第一の天使から第四の天使がラッパを吹いたことによって、もたらされた災いについて学びました。この災いは、聖なる者たちの祈りに応えるものとして、もたらされたものであります。8章3節から5節にこう記されていました。「また、別の天使が来て、手の金の香炉をもって祭壇のそばに立つと、この天使に多くの香が渡された。すべての聖なる者たちの祈りに添えて、玉座の前にある金の祭壇に献げるためである。香の煙は、天使の手から、聖なる者たちの祈りと共に神の御前へ立ち上った。それから、天使が香炉を取り、それに祭壇の火を満たして地上へ投げつけると、雷、さまざまな音、稲妻、地震が起こった」。このように、天使がラッパを吹くことによって、もたらされる災いは、「聖なる者たちの祈り」に応えるものとして、もたらされるのです。では、「聖なる者たちの祈り」とはどのような祈りなのでしょうか?6章10節を見ますと、神の言葉と自分たちがたてた証しのために殺された人の魂が、祭壇の下から大声でこう叫んでおりました。「真実で聖なる主よ、いつまで裁きを行わず、地に住む者にわたしたちの血の復讐をなさらないのですか」。主は、この聖なる者たちの祈りに応えて、教会を迫害する地に住む者たちに、災いをもたらされるのです。前回も申しましたが、ラッパの災いは、地に住む者たちには悔い改めを迫り、聖なる者たちには解放の時が近いことを告げるものであるのです。
ここまでは前回の振り返りですが、今夕の御言葉は、第五の天使がラッパを吹いたことによって、もたらされる災いについて記しています。
9章1節から6節までをお読みします。
第五の天使がラッパを吹いた。すると、一つの星が天から地上へ落ちてくるのが見えた。この星に、底なしの淵に通じる穴を開く鍵が与えられ、それが底なしの淵の穴を開くと、大きなかまどから出るような煙が穴から立ち上り、太陽も空も穴からの煙のために暗くなった。そして、煙の中から、いなごの群れが地上へ出て来た。このいなごには、地に住むさそりが持っているような力が与えられた。いなごは、地の草やどんな青物も、またどんな木も損なってはならないが、ただ、額に神の刻印を押されていない人には害を加えてもよい、と言い渡された。殺してはいけないが、五ヶ月の間、苦しめることは許されたのである。いなごが与える苦痛は、そさりが人を刺したときの苦痛のようであった。この人々は、その期間、死にたいと思っても死ぬことができず、切に死を望んでも、死の方が逃げて行く。
第五の天使がラッパを吹くと、ヨハネは、一つの星が天から地上へ落ちてくるのを見ました。この「一つの星」には、「底なしの淵に通じる穴を開く鍵が与えられ」ており、そして、実際に、底なしの淵の穴を開いておりますから、人格的な存在、天使であると考えられます。ヨブ記の38章に、神様が大地の基を据えたとき、「夜明けの星はこぞって喜び歌い/神の子らは皆、喜びの声をあげた」と記されています。ユダヤ人たちは、夜空の星を天使と考えていたのです(1:20も参照)。「底なしの淵」とは、悪霊を罰するための地下の牢獄のことです。ルカによる福音書の8章に、イエス様が、悪霊に取りつかれたゲラサの人から悪霊を追い出されたお話が記されています。この人にはたくさんの悪霊が入っていたのですが、その悪霊どもは、「底なしの淵へ行けという命令を自分たちに出さないように」とイエス様に願いました(ルカ8:31)。また、ペトロの手紙二の2章4節に、こう記されています。「神は、罪を犯した天使たちを容赦せず、暗闇という縄で縛って地獄に引き渡し、裁きのために閉じ込められました」。このように、「底なしの淵」とは、罪を犯した天使たちである悪霊を罰するために閉じ込めておく地下の牢獄のことであるのです。天使が底なしの淵の穴を開くと、大きなかまどから出るような煙が立ち上りました。太陽も空も暗くなるほどの煙が立ち上ったのです。この煙は、創世記19章に記されている、ソドムとゴモラを焼き尽くした天からの火を思い起こさせます(創世19:28「ソドムとゴモラ、および低地一帯を見下ろすと、炉の煙のように地面から煙りが立ち上っていた」参照)。この「かまどからでるような煙」は悪霊どもを苦しめるためのものであったのでしょう。「煙の中から、いなごの群れが地上に出て来た」とありますが、この「いなご」は普通のいなごではありません。悪霊どもの象徴であります。「いなごの群れ」は、私たちに、出エジプト記10章に記されている「いなごの災い」を思い起こさせます。そのことは、第五のラッパの災いも、地上の者たちには悔い改めを迫るものであり、聖なる者たちには解放を告げるものであることを示しています。出エジプト記の「いなごの災い」は、本物のいなごによってもたらされた災いでありました。いなごはエジプト中の草や木を食い尽くしました。しかし、底なしの淵から煙りと共に出てくるいなごは、地の草や木を損なわず、さそりのような力で、「額に神の刻印を押されていない人」に害を加えてもよいと言い渡されるのです。ここには、誰によって言い渡されたのかは記されておりませんが、これは「神様によって」であります(神的受動態)。つまり、悪霊どもも神様の御手の内にあるということであります(ヨブ1、2章参照)。「額に神の刻印を押されていない人」とは、イエス・キリストを信じていない、教会を迫害する地に住む者たちのことであります(7:3参照)。神様は、「真実で聖なる主」として、地に住む者たちに、さそりの激痛をもって報いられるのです。そして、その激痛は、死にたいと願うほどの激痛であるのです。この激痛をもって、主は、地に住む者たちに悔い改めを迫られるのです。
7節から12節までをお読みします。
さて、いなごの姿は、出陣の用意を整えた馬に似て、頭には金の冠に似たものを着け、顔は人間の顔のようであった。また、髪は女の髪のようで、歯は獅子の歯のようであった。また、胸には鉄の胸当てのようなものを着け、その羽の音は、多くの馬に引かれて戦場に急ぐ戦車の響きのようであった。更に、さそりのように、尾と針があって、この尾には、五ヶ月の間、人に害を加える力があった。いなごは、底なしの淵の使いを王としてしただいている。その名は、ヘブライ語でアバドンといい、ギリシア語の名はアポリオンという。
ここには、底なしの淵から出て来たイナゴの姿が記されています。このようなイナゴの姿は、ヨエル書を背景にして描かれています。ヨエル書には、イナゴによってユダの国に荒廃がもたらされたことが記されています。預言者ヨエルは、かつてないほどのイナゴによる荒廃に、主の裁きを見て、イスラエルの民に悔い改めを求めます。ヨエルにとって、イナゴによる荒廃は、主の日の到来の前触れであったのです。実際に、開いて読んでみたいと思います。旧約の1421頁。ヨエル書1章1節から2章11節までをお読みします。
ペトエルの子ヨエルに臨んだ主の言葉。老人たちよ、これを聞け。この地に住む者よ、皆耳を傾けよ。あなたたちの時代に、また、先祖の時代にも/このようなことがあっただろうか。これをあなたたちの子孫に語り伝えよ。子孫はその子孫に/その子孫は、また後の世代に。かみ食らういなごの残したものを/移住するいなごが食らい/移住するいなごの残したものを/若いいなごが食らい/若いいなごの残したものを/食い荒らすいなごが食らった。酔いしれる者よ、目を覚ませ、泣け。酒におぼれる者よ、皆泣き叫べ。泡立つ酒はお前たちの口から断たれた。一つの民がわたしの国に攻め上って来た。強大で数知れない民が。その歯は雄獅子の歯、牙は雌獅子の牙。わたしのぶどうの木を荒らし/わたしのいちじくの木を引き裂き/皮を引きはがし、枝を白くして投げ捨てた。泣き悲しめ/いいなずけに死なれて/粗布をまとうおとめのように。献げ物の穀物とぶどう酒は主の宮から断たれ/主に仕える祭司は嘆く。畑は略奪され、地は嘆く。穀物は略奪され/ぶどうの実は枯れ尽くし/オリーブの木は衰えてしまった。農夫は恥じ、ぶどう作りは泣き叫ぶ。小麦と大麦、畑の実りは失われた。ぶどうの木は枯れ尽くし、いちじくの木は衰え/ざくろも、なつめやしも、りんごも/野の木はすべて実をつけることなく/人々の楽しみは枯れ尽くした。祭司よ、粗布を腰にまとって嘆き悲しめ。祭壇に仕える者よ、泣き叫べ。神に仕える者よ、粗布をまとって夜を明かせ。献げ物の穀物とぶどう酒は、もはや/あなたたちの神の宮にもたらされることはない。断食を布告し、聖会を召集し/長老をはじめこの国の民をすべて/あなたたちの神、主の神殿に集め/主に向かって嘆きの叫びをあげよ。ああ、恐るべき日よ/主の日が近づく。全能者による破滅の日が来る。わたしたちの目の前から食べ物は断たれ/わたしたちの神の宮からは/喜びも踊ることもなくなったではないか。種は渇いた土の下に干からび/穀物は枯れ尽くし/倉は荒れ、穀物倉は破壊された。なんとういう呻きを家畜はすることか。牛の群れがさまよい/羊の群れが苦しむのは/もはや、牧草がどこにもないからだ。主よ、わたしはあなたを呼びます。火が荒れ野の草地を焼き尽くし/炎が野の木をなめ尽くしたからです。野の獣もあなたを求めます。流れの水は涸れ/火が荒れ野の草地を焼き尽くしたからです。シオンで角笛を吹き/わが聖なる山で鬨の声をあげよ。この国に住む者は皆、おののけ。主の日が来る、主の日が近づく。それは闇と暗黒の日、雲と濃霧の日である。強大で数多い民が/山々に広がる曙の光のように襲ってくる。このようなことは、かつて起こったことがなく/これから後も、代々再び起こることはない。彼らの行く手を,火が焼き尽くし/彼らの後ろには燃える炎が続く。彼らの来る前、この国はエデンの園のようであった。彼らの去った後には、滅びの荒れ野が残る。何ものもこれを逃れえない。その姿は馬のようで、軍馬のように駆ける。戦車のような響きをたてて山の頂を駆け巡り/わらを焼く炎のような音を立てる。これは戦いの備えをした強大な民の姿だ。その前に、諸国の民はもだえ/どの顔も色を失う。彼らは勇士のように走り/戦士のように城壁をよじ登る。おのおの自分の道を進み/進路を外れることはない。互いに押し合うことなく/自分の前に敷かれた大路を進む。たとえ投げ槍の間に突進しても/ひるむことはない。町の中を駆け巡り/城壁の上を走り/家々によじ登り/盗人のように窓から入り込む。その前に、地はおののき、天は震える。太陽も月も暗くなり、星も光を失う。主はその軍勢の前で声をとどろかされる。その陣営は甚だ大きく/御言葉を実現される方は力強い。主の日は大いなる日で、甚だ恐ろしい。誰がその日に耐ええよう。
長く読みましたが、ヨエルはイナゴの歯を「雄獅子の歯」、その姿は「馬」のようであると記します。イナゴは、「軍馬のように駆け」、「戦車のような響きをたて」るのです。イナゴは「戦いの備えをした強大な民」のようであるのです(ヨエル1:6、2:4,5参照)。このヨエルのように、ヨハネは、底なしの淵から出て来たいなごの姿を描くのです。そして、それは文字通りのイナゴではなく、悪霊どもの姿であるのです。
今夕の御言葉に戻ります。新約の462頁です。
底なしの淵から出て来たイナゴが、本物のイナゴではないことは、「底なしの淵の使いを王としていただいている」ことからも分かります。箴言の30章27節に、「いなごには王はないが、隊を組んで一斉に出動する」とありますように、いなごに王はいませんでした。しかし、底なしの淵から出て来たイナゴ、悪霊どもには、ヘブライ語で「アバドン」、ギリシャ語で「アポリオン」という王がいるのです。「アバドン」、「アポリオン」、これはどちらも「滅ぼす者」という意味です。滅ぼす者が王として悪霊どもを率い、額に神の刻印を受けていない者たちに、死を願うほどの苦痛を与えるのです。神の刻印を受けていない者たち、彼らは悪霊の支配下にある者たちであります。しかし、悪霊から苦痛を受けるのは、悪霊の支配下にある者たちであるのです。悪霊に従う者たちが悪霊によって苦痛を受けるのです。なぜなら、悪霊どもの王こそ、滅ぼす者であるからです。