白い衣を着た大群衆 2018年1月14日(日曜 夕方の礼拝)
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白い衣を着た大群衆
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- 村田寿和 牧師
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ヨハネの黙示録 7章9節~17節
聖書の言葉
7:9 この後、わたしが見ていると、見よ、あらゆる国民、種族、民族、言葉の違う民の中から集まった、だれにも数えきれないほどの大群衆が、白い衣を身に着け、手になつめやしの枝を持ち、玉座の前と小羊の前に立って、
7:10 大声でこう叫んだ。「救いは、玉座に座っておられるわたしたちの神と、/小羊とのものである。」
7:11 また、天使たちは皆、玉座、長老たち、そして四つの生き物を囲んで立っていたが、玉座の前にひれ伏し、神を礼拝して、
7:12 こう言った。「アーメン。賛美、栄光、知恵、感謝、/誉れ、力、威力が、/世々限りなくわたしたちの神にありますように、/アーメン。」
7:13 すると、長老の一人がわたしに問いかけた。「この白い衣を着た者たちは、だれか。また、どこから来たのか。」
7:14 そこで、わたしが、「わたしの主よ、それはあなたの方がご存じです」と答えると、長老はまた、わたしに言った。「彼らは大きな苦難を通って来た者で、その衣を小羊の血で洗って白くしたのである。
7:15 それゆえ、彼らは神の玉座の前にいて、/昼も夜もその神殿で神に仕える。玉座に座っておられる方が、/この者たちの上に幕屋を張る。
7:16 彼らは、もはや飢えることも渇くこともなく、/太陽も、どのような暑さも、/彼らを襲うことはない。
7:17 玉座の中央におられる小羊が彼らの牧者となり、/命の水の泉へ導き、/神が彼らの目から涙をことごとく/ぬぐわれるからである。」
ヨハネの黙示録 7章9節~17節
メッセージ
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前回は、イエス・キリストの御名によって洗礼を受けた私たちが、神の刻印を押された者たちであることを学びました。私たちは神の刻印を押された保証として聖霊を与えられ、イエス様を主と告白し、神様を父と呼び、祈る者とされているのです。神様の刻印を押された私たちは、神の民であり、どのようなときも神の恵みの支配の内に守られているのです。今夕の御言葉はその続きであります。
9節から12節までをお読みします。
この後、わたしが見ていると、見よ、あらゆる国民、種族、民族、言葉の違う民の中から集まった、だれにも数えられないほどの大群衆が、白い衣を身に着け、手になつめやしの枝を持ち、玉座の前と小羊の前に立って、大声でこう叫んだ。「救いは、玉座に座っておられるわたしたちの神と、小羊とのものである。」また、天使たちは皆、玉座、長老たち、そして四つの生き物を囲んで立っていたが、玉座の前にひれ伏し、神を礼拝して、こう言った。「アーメン。賛美、栄光、知恵、感謝、誉れ、力、威力が、世々限りなくわたしたちの神にありますように、アーメン。」
ヨハネが見た、「あらゆる国民、種族、民族、言葉の違う民の中から集まった、だれにも数えられない大群衆」とは、神の刻印を押された、イスラエルの子ら、14万4千人のことであります。前回も申しましたように、ここでのイスラエルはイエス・キリストを信じるキリスト教会のことであります(ガラテヤ6:17「神のイスラエル」参照)。また、14万4千という数は、文字通りに理解すべきではなく、おびただしい数の象徴であるのです。神の刻印を押された人数とその内訳を聞いたヨハネが、ここでは、その人々がどのような人々であるかを見たわけです。彼らは、白い衣を身に着け、手になつめやしの枝を持っておりました。「白い衣」について、イエス様は、3章4節から6節で次のように仰せになりました。「しかし、サルディスには、少数ながら衣を汚さなかった者たちがいる。彼らは、白い衣を着てわたしと共に歩くであろう。そうするにふさわしい者たちだからである。勝利を得る者は、このように白い衣を着せられる。わたしは、彼の名を決して命の書から消すことはなく、彼の名を父の前と天使たちの前で公に言い表す」。ここでイエス様は、「勝利を得る者は白い衣を着せられる」と言われております。ですから、白い衣を着ている大勢の群衆は勝利を得た者たちであるのです。また、彼らが手に持っている「なつめやしの枝」は、戦いの後の勝利と喜びの象徴であります。ヨハネによる福音書の12章に、大勢の群衆は、イエス様がエルサレムに来られると聞き、なつめやしの枝を持って迎えに出たことが記されています。群衆は、イエス様を、あたかも勝利した王として、喜びを持って迎えたのです。その群衆と同じように、白い衣を着た群衆も、手になつめやしの枝を持っているのです。彼らは、玉座の前と小羊の前に立って、大声でこう叫びました。「救いは、玉座に座っておられるわたしたちの神と、小羊とのものである」。当時、ローマの皇帝が「救い主」と呼ばれておりました。しかし、彼らは、「救いは、玉座に座っておられるわたしたちの神と小羊とのものである」と大声で叫ぶのです。これは、信仰告白とも言える言葉であります。信仰告白の言葉を引き継ぐ形で、天使たちも、玉座の前にひれ伏し、神を礼拝してこう言うのです。「アーメン。賛美、栄光、知恵、感謝、誉れ、力、威力が、世々限りなくわたしたちの神にありますように、アーメン」。この天使たちの言葉は、「アーメン」で始まり、「アーメン」で終わっておりますが、最初のアーメンは、10節の大群衆の言葉に対する同意を表しています。「そのとおりである」と言うのです。そして、天使たちも、自分たちの信仰告白として、賛美、栄光、知恵、感謝、誉れ、力、威力を世々限りなく、神様に帰するのです。「アーメン」、「確かである」と言うのです。このように、天においては、白い衣をきた大群衆と無数の天使たちが、心を一つにして神様とイエス様を礼拝しているのです。
13節から17節までをお読みします。
すると、長老の一人がわたしに問いかけた。「この白い衣を着た者たちは、だれか。また、どこから来たのか。」そこで、わたしが、「わたしの主よ、それはあなたの方がご存じです」と答えると、長老はまた、わたしに言った。「彼らは大きな苦難を通って来た者で、その衣を小羊の血で洗って白くしたのである。それゆえ、彼らは神の玉座の前にいて、昼も夜もその神殿で神に仕える。玉座に座っておられる方が、この者たちの上に幕屋を張る。彼らは、飢えることも渇くこともなく、太陽も、どのような暑さも、彼らを襲うことはない。玉座の中央におられる小羊が彼らの牧者となり、命の水の泉へ導き、神が彼らの目から涙をことごとくぬぐわれるからである。」
ここには、長老の一人によって、白い衣を着た者たちは、どのような者たちであるかが記されています。彼らは大きな苦難を通って来たの者で、その衣を小羊の血で洗って白くした者でありました。ここでの「大きな苦難」が、世の終わりに起こる苦難であるとすれば、ここに描かれているのは将来の神の僕たちの姿であると言えます。また、世の終わりの苦難に限定しなくても、世には苦難があるわけですから、苦難に負けることなくイエス様への信仰を守り通した者と理解することもできます。ある人は、「この白い衣を着た者たちは、殉教者である」と解釈しますが、私は、殉教者に限定しなくてもよいと思います。と言いますのも、ここでは、「その衣を小羊の血で洗って白くした」と言われているからです。彼らは、衣を自分の血で洗って白くしたのではありません。小羊であるイエス様の血で洗って、その衣を白くしたのです。ここでの白は、罪のないことを表しています(イザヤ1:18参照)。私たちはイエス・キリストを信じて、イエス様の十字架の血潮によって、罪を赦されました。私たちが白い衣を着ることができるのは、イエス様の十字架の血潮によって、あらゆる罪から清められるからです(一ヨハネ1:7参照)。前回、私は神の刻印は洗礼であると申しましたが、洗礼を受けることと、イエス様の血によって罪から清められることは、密接に結びついています。なぜなら、洗礼とは、キリストの血と霊によって、魂の汚れを洗われることであるからです(ハイデルベルク信仰問答 問69~71参照)。白い衣を着た者たちは、イエス様の血潮によってあらゆる罪から清められたゆえに、神の玉座の前にいて、昼も夜も神に仕えることができるのです。彼らはまさに、天使の生活をすることになるのです。15節後半から17節は、天において受ける彼らの祝福が記されていますが、これは旧約聖書の預言が実現したものであります。「玉座に座っておられる方が、この者たちの上に幕屋を張る」は、神様が、御自分の民のただ中に宿ってくださるという約束の実現であります(出エジプト29:45、レビ26:11)。このようにして、「わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる」という御言葉が実現するのです(エゼキエル37:27参照)。また、16節、17節は、イザヤ書49章10節に記されている預言の実現であります。この所は開いてみたいと思います。旧約の1143ページです。9節後半から10節までお読みします。
彼らは家畜を飼いつつ道を行き/荒れ地はすべて牧草地となる。彼らは飢えることなく、渇くこともない。太陽も熱風も彼らを打つことはない。憐れみ深い方が彼らを導き/湧き出る水のほとりに彼らを伴って行かれる。
このイザヤ書の御言葉を読みますと、白い衣を着た者たちの祝福が、聖書の約束の実現であることが分かります。私たちを湧き出る泉へ導く、憐れみ深い御方こそ、小羊であるイエス様であるのです。
では、今夕の御言葉に戻ります。新約の461ページです。
ヨハネは「小羊が彼らの牧者となり、命の水の泉へ導き」と記しておりますが、これは詩編23編を思い起こさせます(詩編23編1,2節参照)。小羊が牧者というのはおかしいようにも思いますが、イエス様こそ、私たちのために命を捨ててくださった良い羊飼いであるのです(ヨハネ10:11参照)。神様が彼らの目から涙をことごとくぬぐわれるのは、悲しみの終わりを意味しています。これも、旧約聖書の預言の実現であります。イザヤ書25章6節から8節までをお読みします。旧約の1098ページです。
万軍の主はこの山で祝宴を開き/すべての民に良い肉と古い酒を供される。それは脂肪に富む良い肉とえり抜きの酒。主はこの山で/すべての民の顔を包んでいた布と/すべての国を覆っていた布を滅ぼし/死を永久に滅ぼしてくださる。主なる神は、すべての顔から涙をぬぐい/御自分の民の恥を/地上からぬぐい去ってくださる。これは主が語られたことである。
イザヤの預言は、天において、イエス・キリストを信じる者たちのうえに、実現いたします。聖書の預言は、イエス・キリストを信じる私たちのうえに実現するのです。私たちは、そのことを信仰をもって待ち望んでいるのです。