刻印を押されたイスラエルの子ら 2017年12月17日(日曜 夕方の礼拝)

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刻印を押されたイスラエルの子ら

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ヨハネの黙示録 7章1節~8節

聖句のアイコン聖書の言葉

7:1 この後、わたしは大地の四隅に四人の天使が立っているのを見た。彼らは、大地の四隅から吹く風をしっかり押さえて、大地にも海にも、どんな木にも吹きつけないようにしていた。
7:2 わたしはまた、もう一人の天使が生ける神の刻印を持って、太陽の出る方角から上って来るのを見た。この天使は、大地と海とを損なうことを許されている四人の天使に、大声で呼びかけて、
7:3 こう言った。「我々が、神の僕たちの額に刻印を押してしまうまでは、大地も海も木も損なってはならない。」
7:4 わたしは、刻印を押された人々の数を聞いた。それは十四万四千人で、イスラエルの子らの全部族の中から、刻印を押されていた。
7:5 ユダ族の中から一万二千人が刻印を押され、/ルベン族の中から一万二千人、/ガド族の中から一万二千人、
7:6 アシェル族の中から一万二千人、/ナフタリ族の中から一万二千人、/マナセ族の中から一万二千人、
7:7 シメオン族の中から一万二千人、/レビ族の中から一万二千人、/イサカル族の中から一万二千人、
7:8 ゼブルン族の中から一万二千人、/ヨセフ族の中から一万二千人、/ベニヤミン族の中から一万二千人が/刻印を押された。ヨハネの黙示録 7章1節~8節

原稿のアイコンメッセージ

 前回、私たちは、小羊であるイエス様によって、巻物の第五と第六の封印が開かれたことを学びました。第六の封印が開かれることによって、大地震や天体の異常が起こりますが、これはいずれも、旧約の預言者たちが預言してきた主の日の到来の予兆であります。主の日は神と小羊の大いなる怒りの日であるのです。ヨハネは、6章17節で、「神と小羊の怒りの大いなる日が来たからである。だれがそれに耐えられるであろうか」と記しております。これは、修辞学的な問いでありまして、言いたいことは、「だれもそれに耐えられない」ということであります。こう聞きますと、一つの疑問が出てくると思います。それは、「イエス・キリストを信じる者たちは、どうなるのか?」ということであります。その疑問に答えてくれるのが、今夕の7章の御言葉であるのです。

 1節から3節までをお読みします。

 この後、わたしは大地の四隅に四人の天使が立っているのを見た。彼らは、大地の四隅から吹く風をしっかり押さえて、大地にも海にも、どんな木にも吹きつけないようにしていた。わたしはまた、もう一人の天使が生ける神の刻印を持って、太陽の出る方角から上って来るのを見た。この天使は、大地と海とを損なうことを許されている四人の天使に、大声で呼びかけて、こう言った。「我々が、神の僕たちの額に刻印を押してしまうまでは、大地も海も木も損なってはならない。」

 「この後、わたしは大地の四隅に四人の天使が立っているのを見た」とありますが、この所は、当時の世界像に従って記されています。当時は、大地は平面で四角であると考えられておりました。現代の私たちは、地球という大きな丸い惑星の上に、大地があることを知っております。しかし、当時は、大地は、平面で四角であると考えられていたのです。その大地の四隅に四人の天使が立っているのをヨハネは見たわけです。「彼らは、大地の四隅から吹く風をしっかり押さえて、大地にも海にも、どんな木にも吹きつけないようにしていた」とあります。当時は、大地の四隅から吹く風は災いをもたらすと信じられておりました(エレミヤ49:36参照)。その災いをもたらす風を、四人の天使たちはしっかりと押さえていたわけです。この天使たちは、2節を見ますと、「大地と海とを損なうことを許されていた四人の天使」とありますから、風をつかさどる権威を持つ天使たちであったようです(14:18「火をつかさどる権威を持つ天使」、16:5「水をつかさどる天使」参照)。また、ヨハネは、もう一人の天使が生ける神の刻印を持って、太陽の出る方角から上って来るのを見ました。太陽が出る方角とは、東であります。太陽、光は東から出る。それゆえ、救い主は東から来ると考えられておりました(イザヤ41:2参照)。また、創世記の2章7節によれば、エデンの園は東の方に設けられました。その東の方から、一人の天使が生ける神の刻印を持って上って来たのです。そして、四人の天使に大声で呼びかけて、こう言ったのです。「我々が、神の僕たちの額に刻印を押してしまうまでは、大地も海も木も損なってはならない」。「神の刻印」とは、神様のお名前が記されている印鑑のようなものを考えたらよいと思います。神様の実印ですね。この刻印は、神の僕たちの額に押されるのですが、それまでは、大地にも、海にも、木にも危害を加えてはならないと言うのです。神様は、御自分の僕たちの額に刻印を押すことによって、そうではない者たちとの明確な区別をされるわけです。神の刻印を押される。これは、その人が神の所有(もの)であり、神様の保護のもとに置かれていることを示しているのです。神様は、小羊が第七の封印を開くのに先立ち、天使を遣わして刻印を押すことにより、御自分の僕と他の者たちとを区別されるのです。刻印を押されている御自分の僕たちを保護されるのです。これと同じようなことがエゼキエル書の9章に記されています。旧約の1306ページです。

 エゼキエル書の8章は、小見出しに「エルサレムの堕落」とありますように、エルサレムにおいて、様々な偶像礼拝が行われていたことが記されています。9章はその続きであります。1節から11節までを少し長いですが、お読みします。

 彼(エゼキエルをエルサレムに連れて来た天使)は大声でわたしの耳に語った。「この都を罰する者たちよ、おのおの破壊する道具を手にして近寄れ。」すると、北に面する上の門に通ずる道から、六人の男がそれぞれ突き崩す道具を手にしてやって来るではないか。そのうちの一人は亜麻布をまとい、腰に書記の筆入れを着けていた。彼らはやって来ると、青銅の祭壇の傍らに立った。すると、ケルビムの上にとどまっていたイスラエルの神の栄光はそこから昇って、神殿の敷居の方に向かい、亜麻布をまとい、腰に書記の筆入れを着けた者に呼びかけた。主は彼に言われた。「都の中、エルサレムの中を巡り、その中で行われているあらゆる忌まわしいことのゆえに、嘆き悲しんでいる者の額に印を付けよ。」また、他の者たちに言っておられるのが、わたしの耳に入った。「彼の後ろについて都の中を巡れ。打て。慈しみの目を注いではならない。憐れみをかけてはならない。老人も若者も、おとめも子供も人妻も殺して、滅ぼし尽くさなければならない。しかし、あの印のある者に近づいてはならない。さあ、わたしの神殿から始めよ。」彼らは、神殿の前にいた長老たちから始めた。主はまた彼らに言われた。「神殿を汚し、その庭を、殺された者で満たせ。さあ、出て行くのだ。」彼らは出て行き、都の人々を打った。彼らが打っているとき、わたしはひとり残され、顔を伏せ、助けを求めて言った。「ああ、主なる神よ、エルサレムの上に憤りを注いで、イスラエルの残りの者をすべて滅ぼし尽くされるのですか。」主はわたしに言われた。「イスラエルとユダの家の罪はあまりにも大きい。この地は流血に満ち、この都は不正に満ちている。彼らは、『主はこの地を見捨てられた。主は顧みられない』と言っている。それゆえ、わたしも彼らに慈しみの目を注がず、憐れみをかけることもしない。彼らの行いの報いを、わたしは彼らの頭上に帰する。」そのとき、亜麻布をまとい腰に筆入れを着けている者が報告して言った。「わたしは、あなたが命じられたとおりにいたしました。」

 かつて、偶像崇拝を嘆き悲しんでいる者の額に印を付けられた神様は、来たるべき災いに先立って、御自分の僕たちの額に刻印を押されるのです。

 では、今夕の御言葉に戻りましょう。新約の460ページです。

 4節から8節までをお読みします。

 わたしは、刻印を押された人々の数を聞いた。それは十四万四千人で、イスラエルの子らの全部族の中から、刻印を押されていた。ユダ族の中から一万二千人が刻印を押され、ルベン族の中から一万二千人、ガド族の中から一万二千人、アシェル族の中から一万二千人、ナフタリ族の中から一万二千人、マナセ族の中から一万二千人、シメオン族の中から一万二千人、レビ族の中から一万二千人、イサカル族の中から一万二千人、ゼブルン族の中から一万二千人、ヨセフ族の中から一万二千人、ベニヤミン族の中から一万二千人が刻印を押された。

 刻印を押された人々の数は、14万4千人とありますが、これは文字通りの数ではありません。14万4人千という数は、イスラエルの各部族1万2千人に、12をかけた数であります。1万2千人という数は、完全数である12に、数えられないほどの数を表す1000をかけた数であります。その1万2千人に、さらに完全数である12をかけて、14万4千人という数ができているのです。ですから、14万4千人とは、おびただしいすべての神の民を意味しているのです。「イスラエルの子らの全部族かの中から、刻印を押されていた」とありますが、このイスラエルは、民族としてのイスラエルではなく、イエス・キリストを信じる信仰共同体としてのイスラエルのことであります。どうして、そのように言い切ることができるかと言えば、14万4千人の額に押された刻印が、「小羊の名と、小羊の父の名」であるからです(14:1「また、わたしが見ていると、見よ、小羊がシオンの山に立っており、小羊と共に十四万四千人の者たちがいて、その額には小羊の名を、小羊の父の名とが記されていた」参照)。ですから、イエス・キリストを信じている私たちにも、神の刻印が押されているのです。では、私たちに押された神の刻印とは何でしょうか?それは、父と子と聖霊の御名によって授けられた洗礼であります。パウロは、コリントの信徒への手紙二の1章21節、22節で次のように記しています。新約の326ページです。

 わたしたちとあなたがたとをキリストに固く結び付け、わたしたちに油を注いでくださったのは、神です。神はまた、わたしたちに証印を押して、保証として私たちの心に霊を与えてくださいました。

 この証印こそ、イエス・キリストの名によって授けられた洗礼であるのです。私たちは洗礼という証印を押され、その保証として聖霊を与えられました。聖霊によって、イエス様を信じて、神様を父と呼んで祈っている。そこに、私たちは、自分が神の刻印を押されたことの確かさを見ることができるのです。それゆえ、私たちは、どのようなときも、神の所有(もの)であり、神の守りの内にあるのです。

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