第五と第六の封印が開く 2017年12月10日(日曜 夕方の礼拝)
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第五と第六の封印が開く
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- 村田寿和 牧師
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ヨハネの黙示録 6章9節~17節
聖書の言葉
6:9 小羊が第五の封印を開いたとき、神の言葉と自分たちがたてた証しのために殺された人々の魂を、わたしは祭壇の下に見た。
6:10 彼らは大声でこう叫んだ。「真実で聖なる主よ、いつまで裁きを行わず、地に住む者にわたしたちの血の復讐をなさらないのですか。」
6:11 すると、その一人一人に、白い衣が与えられ、また、自分たちと同じように殺されようとしている兄弟であり、仲間の僕である者たちの数が満ちるまで、なお、しばらく静かに待つようにと告げられた。
6:12 また、見ていると、小羊が第六の封印を開いた。そのとき、大地震が起きて、太陽は毛の粗い布地のように暗くなり、月は全体が血のようになって、
6:13 天の星は地上に落ちた。まるで、いちじくの青い実が、大風に揺さぶられて振り落とされるようだった。
6:14 天は巻物が巻き取られるように消え去り、山も島も、みなその場所から移された。
6:15 地上の王、高官、千人隊長、富める者、力ある者、また、奴隷も自由な身分の者もことごとく、洞穴や山の岩間に隠れ、
6:16 山と岩に向かって、「わたしたちの上に覆いかぶさって、玉座に座っておられる方の顔と小羊の怒りから、わたしたちをかくまってくれ」と言った。
6:17 神と小羊の怒りの大いなる日が来たからである。だれがそれに耐えられるであろうか。ヨハネの黙示録 6章9節~17節
メッセージ
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前回、私たちは、小羊によって第一から第四の封印までが開かれたことを学びました。
第一の封印が開かれると白い馬に乗った者が現れました。白い馬に乗っている者とは、「キリスト教会」のことであります。彼は冠を与えられ、勝利の上に更に勝利を得ようと、福音を宣べ伝えるために出て行ったのです。
第二の封印が開かれると赤い馬に乗った者が現れました。赤い馬に乗っている者とは、「戦争」のことであります。「地上から平和を奪い取って、殺し合いをさせる力が与えられた」とありますように、戦争も神様の御許しの中にあるのです。
第三の封印が開かれると黒い馬に乗った者が現れました。「手に秤を持っていた」とありますように、黒い馬に乗った者は、「飢饉」であります。飢饉により穀物の値段が高騰しますが、このことも神様の御許しの中にあるのです。
第四の封印が開かれると青白い馬に乗った「死」が現れました。この「死」は「死に至る疫病」と考えられています(エゼキエル14:21参照)。
8節の後半に、「彼らには、地上の四分の一を支配し、剣と飢饉と死をもって、更に地上の野獣で人を滅ぼす権威が与えられた」とあります。地上の四分の一を支配する剣、飢饉、疫病は、神様に背き続ける人間に対する裁きを意味しています。その神の裁きからの救いを宣べ伝えるのが私たちキリストの教会であるのです。
今夕の御言葉は、この続きであります。
9節から11節までをお読みします。
小羊が第五の封印を開いたとき、神の言葉と自分たちがたてた証しのために殺された人々の魂を、わたしは祭壇の下に見た。彼らは大声でこう叫んだ。「真実で聖なる主よ、いつまで裁きを行わず、地に住む者にわたしたちの血の復讐をなさらないのですか。」すると、その一人一人に、白い衣が与えられ、また、自分たちと同じように殺されようとしている兄弟であり、仲間の僕である者たちの数が満ちるまで、なお、しばらく静かに待つようにと告げられた。
小羊が、第一から第四の封印を開くと、それぞれの四つの生き物の一つが「出て来い」と言いました。しかし、第五の封印では、四つの生き物についての言及はありません。また、馬に乗った者についての言及もありません。第五の封印が開いたとき、ヨハネが見たのは、祭壇の下にいる、神の言葉と自分たちがたてた証しのために殺された人々の魂でありました。ヨハネの黙示録は、紀元90年頃、ローマの皇帝ドミティアヌスの時代に記されました。ローマ皇帝ドミティアヌスは、自分を主であり、神として礼拝することを命じました。そして、多くのキリスト者が、その命令に背いて、殉教の死を遂げていたのです(2:13参照)。ヨハネは、人々の魂を天の祭壇の下に見たとありますが、これは地上の祭壇で血が流されたことと関係があります。聖書によれば、命は血の中にあります(レビ17:11参照)。それゆえ、血が流される祭壇の下に命が留まっていると考えられていたのです。また、殉教者の魂を天の祭壇の下に見たことは、彼らが自分自身を神様への献げ物としたことを示しています(ローマ12:1参照)。彼らは、「真実で聖なる主よ、いつまで裁きを行わず、地に住む者にわたしたちの血の復讐をなさらないのですか」と大声で叫びます。彼らがここで求めていることは、神様の正しい裁きであります(詩編79:10参照)。彼らは、自分で復讐せず、神様の裁きにゆだねて、地に住む者たちに殺されたのです(ローマ12:19参照)。ここでの「地に住む者」とは、「異教徒あるいは未信者」を指しています。殉教した人々は、神様が正しい裁きをしてくださること、自分たちの血の復讐をしてくださることを信じております。問題は、それが「いつ」行われるかということです。彼らは、真実で聖なる主に、速やかな裁き、報復を求めているのです。この叫びは、すでに殉教の死を遂げた者たちだけではなくて、迫害のもとにある教会の叫びでもあります。地に住む者は、力によって、キリストを主、神と告白するものを殺す。教会は、それに対して何の抵抗もできない。警察権力、また軍隊を持つ国家権力の前に、私たちは無力です。キリストを信じない者たちはますます力を得ているように見える。そのような中にあって、すみやかな神の裁きを祈り求める。その教会の祈りを、ここから読み取ることができるのです。
殉教者たちの大きな叫びを受けて、主は、その一人一人に、白い衣を与えられました。白い衣については、3章5節にこう記されていました。「勝利を得る者は、このように白い衣を着せられる。わたしは、彼の名を決して命の書から消すことなく、彼の名を父の前と天使たちの前で公に言い表す」。殉教者一人一人に、与えられた白い衣は、彼らが勝利を得たこと、命の書に名前が記されている者として、神と天使たちの前でその名前が公に言い表されることを示しています。そのような保証を与えられた後で、「自分たちと同じように殺されようとしている者たちの数が満ちるまで、なお、しばらく静かに待つように」と告げられるのです。この主の言葉は、殉教者たちの死も神様の救いの御計画の一部であることを教えています。イエス様は、マタイ福音書の24章で、世の終わりのしるしについて、弟子たちに教えられました。そこで、イエス様はこう言われているのです。「戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞くだろうが、慌てないように気をつけなさい。そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない。民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に飢饉や地震が起こる。しかし、これらはすべて産みの苦しみの始まりである。そのとき、あなたがたは苦しみを受け、殺される。また、わたしの名のために、あなたがたはあらゆる民に憎まれる」。イエス様は、御自分の弟子たちが、苦しみを受け、殺されること。そして、御自分の名のゆえに、あらゆる民から憎まれることを予告しておられました。このように、キリスト者が神の言葉と自分の証しのために殺されることも、世の終わりのしるしに含まれているのです。そして、その神様の定めておられる人数が満ちたとき、主は、裁きを行い、御自分の民の血の復讐をしてくださるのです。神の言葉に忠実なキリスト者を苦しめ、殺す者たちは、そのようにして、自分たちが裁かれる日を早めているのです。
12節から17節までをお読みします。
また、見ていると、小羊が第六の封印を開いた。そのとき、大地震が起きて、太陽は毛の粗い布地のように暗くなり、月は全体が血のようになって、天の星は地上に落ちた。まるで、いちじくの青い実が大風に揺さぶられて振り落とされるようだった。天は巻物が巻き取られるように消え去り、山も島も、みなその場所から移された。地上の王、高官、千人隊長、富める者、力ある者、また、奴隷も自由な身分の者もことごとく、洞穴や山の岩間に隠れ、山と岩に座っておられる方の顔と小羊の怒りから、わたしたちをかくまってくれ」と言った。神と小羊の怒りの大いなる日が来たからである。だれがそれに耐えられるであろうか。
第六の封印を開かれると、「大地震が起きて、太陽は毛の粗い布地のように暗くなり、月は全体が血のようになって、星は地上に落ちた」と記されています。これは預言者ヨエルが記していたことでもあります。ヨエルは「主の日の到来」について記しております。主の日とは、「主が全世界の王として裁きを行われる日」のことです。イスラエルの人々は、主の日の到来によって、神の民である自分たちは救われ、異邦人は滅ぼされると信じていたのです。しかし、預言者たちは、まずイスラエルが立ち帰らねばならないと語ったのです。ヨエルは、主の日の到来の前に、「地はおののき、天は震える。太陽も月も暗くなり、星も光を失う」と記しました(ヨエル2:10)。また、地震や天体の異常については、イエス様が弟子たちに教えられたことでもあります。マタイ福音書の24章は、「世の終わりのしるし」について教えていますが、その29節で、イエス様はこう仰せになりました。「その苦難の日々の後、たちまち、太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は空から落ち、天体は揺り動かされる」(マタイ24:29)。これらのことは、小羊であるイエス様が第六の封印を開かれることによって起こるのです。
「天は巻物が巻き取られるように消え去り、山も島も、みなその場所から移された」とありますが、これは、世の終わりには、私たちが住んでいる世界が消え去ることを示しています(イザヤ34:4参照)。イザヤが預言したように、主の日においては、新しい天と新しい地が創造されるのです(イザヤ65:17、黙21:1参照)。
このような地震、天体の異常などを目の当たりにして、地上の王、高官、千人隊長、富める者、力ある者、奴隷、自由な身分の者はことごとく、洞穴や山の岩間に隠れます。ここには、人間社会の代表的な身分が七つ記されています。七は完全数ですから、あらゆる身分の人間がことごとく、洞穴や山の岩間に隠れるのです。そして、山と岩に向かってこう言うのです。「わたしたちの上に覆いかぶさって、玉座に座っておられる方の顔と小羊の怒りから、わたしたちをかくまってくれ」(ホセア10:8参照)。山と岩が覆いかぶされば、押しつぶされて死んでしまいます。しかし、それほどに、主イエスを信じない者たちにとって、神と小羊の怒りは恐ろしいものであるのです。旧約聖書によれば、主の日は裁きの日であり、主に逆らう者に怒りがくだる日でありました。しかし、ここでは、「玉座に座っておられる方の顔と小羊の怒り」と記されています。17節に、「神と小羊の怒りの大いなる日」とありますが、これは元の言葉では、「彼らの怒りの大いなる日」と記されています。主の日にくだされる怒りは、神と小羊の怒りであるのです。そのようにして、神と主イエスは、御自分の民の血を流した者たちを裁き、報復してくださるのです。「神と小羊の怒りの大いなる日が来たからである。だれがそれに耐えられるであろうか」。これは修辞学的な問いでありまして、言いたいことは、「だれも神と小羊の怒りを耐えることができない」ということであります。
それゆえ、あらゆる身分のすべての人が、救い主イエス・キリストを信じて、今、神様に罪を赦していただかなくてはならないのです。私たちの罪のために死んで、私たちを正しい者とするために復活されたイエス・キリストこそ、私たち人間のまことの隠れ家であるのです。