小羊への礼拝 2017年10月29日(日曜 夕方の礼拝)
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小羊への礼拝
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- 村田寿和 牧師
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ヨハネの黙示録 5章1節~14節
聖書の言葉
5:1 またわたしは、玉座に座っておられる方の右の手に巻物があるのを見た。表にも裏にも字が書いてあり、七つの封印で封じられていた。
5:2 また、一人の力強い天使が、「封印を解いて、この巻物を開くのにふさわしい者はだれか」と大声で告げるのを見た。
5:3 しかし、天にも地にも地の下にも、この巻物を開くことのできる者、見ることのできる者は、だれもいなかった。
5:4 この巻物を開くにも、見るにも、ふさわしい者がだれも見当たらなかったので、わたしは激しく泣いていた。
5:5 すると、長老の一人がわたしに言った。「泣くな。見よ。ユダ族から出た獅子、ダビデのひこばえが勝利を得たので、七つの封印を開いて、その巻物を開くことができる。」
5:6 わたしはまた、玉座と四つの生き物の間、長老たちの間に、屠られたような小羊が立っているのを見た。小羊には七つの角と七つの目があった。この七つの目は、全地に遣わされている神の七つの霊である。
5:7 小羊は進み出て、玉座に座っておられる方の右の手から、巻物を受け取った。
5:8 巻物を受け取ったとき、四つの生き物と二十四人の長老は、おのおの、竪琴と、香のいっぱい入った金の鉢とを手に持って、小羊の前にひれ伏した。この香は聖なる者たちの祈りである。
5:9 そして、彼らは新しい歌をうたった。「あなたは、巻物を受け取り、/その封印を開くのにふさわしい方です。あなたは、屠られて、/あらゆる種族と言葉の違う民、/あらゆる民族と国民の中から、/御自分の血で、神のために人々を贖われ、
5:10 彼らをわたしたちの神に仕える王、/また、祭司となさったからです。彼らは地上を統治します。」
5:11 また、わたしは見た。そして、玉座と生き物と長老たちとの周りに、多くの天使の声を聞いた。その数は万の数万倍、千の数千倍であった。
5:12 天使たちは大声でこう言った。「屠られた小羊は、/力、富、知恵、威力、/誉れ、栄光、そして賛美を/受けるにふさわしい方です。」
5:13 また、わたしは、天と地と地の下と海にいるすべての被造物、そして、そこにいるあらゆるものがこう言うのを聞いた。「玉座に座っておられる方と小羊とに、/賛美、誉れ、栄光、そして権力が、/世々限りなくありますように。」
5:14 四つの生き物は「アーメン」と言い、長老たちはひれ伏して礼拝した。
ヨハネの黙示録 5章1節~14節
メッセージ
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前回、私たちは、天上において神様が玉座に座っておられること。すなわち、神様が世界と歴史を支配しておられることを学びました。また、その神様を、四つの生き物と24人の長老たちが礼拝していることを学びました。4章11節に、「主よ、わたしたちの神よ、あなたこそ、栄光と誉れと力とを受けるにふさわしい方。あなたは万物を造られ、御心によって万物は存在し、また創造されたからです」とありますように、万物を造られた御方こそ、礼拝すべき真の神であるのです。
今夕の御言葉は、その続きでありまして、聖霊に満たされたヨハネが見た天上の様子が記されております。
5章1節から4節までをお読みします。
またわたしは、玉座に座っておられる方の右の手に巻物があるのを見た。表にも裏にも字が書いてあり、七つの封印で封じられていた。また、一人の力強い天使が、「封印を解いて、この巻物を開くのにふさわしい者はだれか」と大声で告げるのを見た。しかし、天にも地にも地の下にも、この巻物を開くことのできる者は、だれもいなかった。この巻物を開くにも、見るにも、ふさわしい者がだれも見当たらなかったので、わたしは激しく泣いていた。
「玉座に座っておられる方」とは神様のことであります。神様の右の手に、巻物がありました。この巻物は、神様の右手に握られていたというよりも、手のひらの上に置かれていたようであります。その巻物は、表にも裏にも字が書いてありました(エゼキエル2:9参照)。これは、これ以上書き加えることができない、豊かな内容が記されていることを示しています。また、巻物が七つ(完全数)の封印で封じられていたことは、その内容が神様の奥義に属することであり、最重要機密であることを示しています。一人の力強い天使が、「封印を解いて、この巻物を開くのにふさわしい者はだれか」と大声で告げるのでありますが、天にも地にも地の下にも、すなわち、世界中のどこにも、この巻物を開くことができる者、見ることのできる者はだれもいませんでした。それで、ヨハネは激しく泣いたのです。この巻物には、これから起こることが記されているわけですね。その巻物を開くことができないと、神様の救いの歴史は進展していかないわけです。事実、6章以下を見ますと、封印が一つずつ解かれることによって、出来事が起こる。歴史が進展していく様が記されています。しかし、巻物が開くことができなければ、神様の救いの歴史は進展していかない。教会は、迫害のもとに置かれたままになるわけです。もちろん、ヨハネが命じられていた「今後起ころうとしていることを書き留める」こともできないわけです。それで、ヨハネは激しく泣いていたのです。
5節から10節までをお読みします。
すると、長老の一人がわたしに言った。「泣くな。見よ。ユダ族から出た獅子、ダビデのひこばえが勝利を得たので、七つの封印を開いて、その巻物を開くことができる。」わたしはまた、玉座と四つの生き物の間、長老たちの間に、屠られたような小羊が立っているのを見た。小羊には七つの角と七つの目があった。この七つの目は、全地に遣わされている神の七つの霊である。小羊は進み出て、玉座に座っておられる方の右の手から、巻物を受け取った。巻物を受け取ったとき、四つの生き物と二十四人の長老は、おのおの、竪琴と、香のいっぱい入った金の鉢とを手に持って、小羊の前にひれ伏した。この香は聖なる者たちの祈りである。そして、彼らは新しい歌を歌った。「あなたは、巻物を受け取り、その封印を開くのにふさわしい方です。あなたは、屠られて、あらゆる種族と言葉の違う民、あらゆる民族と国民の中から、御自分の血で神のために人々を贖われ、彼らをわたしたちの神に仕える王、また祭司となさったからです。彼らは地上を統治します。」
ヨハネが激しく泣いていると、長老の一人がこう言いました。「泣くな。見よ。ユダ族から出た獅子、ダビデのひこばえが勝利を得たので、七つの封印を開いて、その巻物を開くことができる」。「ユダ族から出た獅子」。これは、メシア称号の一つであります。創世記の49章に、ヤコブの祝福の言葉が記されています。そこで、ヤコブは息子のユダを、次のように祝福しました。「ユダは獅子の子。・・・・・・王笏はユダから離れず/統治の杖は足の間から離れない」。このヤコブの祝福の言葉から、来たるべきメシア(救い主)は、「ユダ族から出る獅子」と呼ばれていたのです。「ダビデのひこばえ」。これも、メシア称号の一つであります。「ひこばえ」とは「草木の根株から出た芽」のことであります(広辞苑)。サムエル記下の23章に、ダビデの最後の言葉が記されています。そこでダビデは次のように言っています。「神と共にあってわたしの家は確かに立つ。神は永遠の契約をわたしに賜る/すべてに整い、守られるべき契約を。わたしの救い、わたしの喜びを/すべて神は芽生えさせてくださる」。このダビデの言葉を引き継ぐように、預言者イザヤは、次のように預言しました。「エッサイの株からひとつの芽が萌えいで/その根からひとつの若枝が育ち/その上に主の霊がとどまる」(イザヤ書11:1,2、イザヤ53:2も参照)。このように、来たるべきメシア(救い主)は「ダビデのひこばえ(芽)」と呼ばれていたのです。これは、どちらも、ユダ族出身のダビデの子孫としてお生まれになったイエス様のことであります。「イエス様が勝利を得たので、七つの封印を開いて、その巻物を開くことができる」と長老は言ったのです。では、イエス様は、どのようにして勝利を得られたのでしょうか?それを正しく知るためには、ヨハネが見たのは、獅子ではなく、屠られたような小羊であったことを心に留める必要があります。ヨハネは、玉座と四つの生き物の間、長老たたちの間に、屠られたような小羊が立っているのを見ました。イザヤ書53章に記されている「主の僕の歌」の中に次のように記されています。「苦役を課せられて、かがみ込み/彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる小羊のように/毛を刈る者の前に物を言わない羊のように/彼は口を開かなかった」(イザヤ53:7)。また、洗礼者ヨハネは、イエス様についてこう言いました。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」(ヨハネ1:29)。ヨハネ福音書によれば、イエス様が十字架につけられたのは、過越の小羊が屠られる時間であったのです。よって、「屠られたような小羊」が、「十字架につけられたイエス・キリスト」を指していることは明かであります。しかし、ヨハネはここで、微妙な書き方をしています。ヨハネは「屠られた小羊」とは記さずに、「屠られたような小羊」と記すのです。それは、十字架について死んだイエス様が、三日目に復活されたからであります。「立っている」とありますが、これは「復活して、今も生きておられる」という意味です。ユダ族から出た獅子は、屠られたような小羊である。この逆説から、私たちは、イエス様が得られた勝利を理解しなくてはなりません。イエス様は、どのようにして勝利を得られたのか?それは、父なる神の御心に、死に至るまで忠実であることによってであったのです(イザヤ53章、フィリピ2章を参照)。そして、ここに、イエス様が、私たちに対して、「死に至るまで忠実であれ」と言われる理由があるのです(黙2:10)。
小羊には七つの角と七つの目がありました。「角」は力の象徴であります(申命33:17参照)。七は完全数ですから、七つの角は、全能であることを示しています。また、七つの目は、「全地に遣わされている神の七つの霊」とありますように、すべてのことを知っておられる、全知であることを示しています(ゼカリヤ4:10参照)。小羊は、全知全能の御方、神様と等しい御方であるわけです。それゆえ、この御方こそ、巻物を開くのにふさわしい御方であるのです。小羊は進み出て、玉座に座っておられる方の右の手から、巻物を受け取りました。巻物を受け取ると、四つの生き物と24人の長老は、小羊の前にひれ伏しました。4章において、神様を礼拝した者たちが、ここでは、小羊を礼拝しているのです。「彼らは新しい歌をうたった」とありますが、「新しい歌」は神様の新しい御業に対する新しい賛美を意味しております。イスラエルの民は、神様が歴史に介入されて、新しいことをなされたとき、新しい歌をもって応答したのです。ここでの新しい歌は、イエス様が十字架において成し遂げてくださった贖いの御業に対する歌であります。イエス様が十字架で成し遂げてくださった贖いの御業がどのようなものであるかが、ここでは「新しい歌」として、説き明かされています。イエス様は、御自分の血によって、あらゆる民族と国民の中から、神様のために人々を贖われました。そして、彼らを神様に仕える王、また祭司としてくださったのです。この彼らの中に、イエス・キリストを主と告白する私たちも含まれているのです(黙1:6参照)。
11節から14節までをお読みします。
また、わたしは見た。そして、玉座と生き物と長老たちとの周りに、多くの天使の声を聞いた。その数は万の数万倍、千の数千倍であった。天使たちは大声でこう言った。「屠られた小羊は、力、富、知恵、威力、誉れ、栄光、そして賛美を受けるにふさわしい方です。」また、わたしは、天と地と地の下と海にいるすべての被造物、そして、そこにいるあらゆるものがこう言うのを聞いた。「玉座に座っておられる方と小羊とに、賛美、誉れ、栄光、そして権力が、世々限りなくありますように。」四つの生き物は「アーメン」と言い、長老たちはひれ伏して礼拝した。
ここには、四つの生き物と24人の長老たちだけではなく、無数の天使たちの賛美が記されています。「その数は万の数万倍、千の数千倍であった」とありますが、これはダニエル書7章10節の「幾千人が御前に仕え/幾万人が御前に立った」を背景としています。ダニエル書7章には、「人の子」のような者が、「日の老いたる者」から「権威、威光、王権を受けた」幻が記されております。ヨハネは、その幻を背景にしつつ、この所を記しているのです。屠られた小羊であり、勝利を得られたイエス様は、ここで、神様と等しい御方として礼拝されているのです。そのことは、天と地と地の下と海にいるあらゆる被造物の賛美の言葉を読めば明かです。「玉座に座っておられる方と小羊とに、賛美、誉れ、栄光、そして権力が、世々限りなくありますように」。ここで、礼拝を受けているのは、神様とイエス・キリストであります。私たちは、造り主である神様と贖い主であるイエス・キリストに、礼拝をささげているのです。天上で無数の天使たちが神様とイエス・キリストを礼拝しているように、地上で無数の人間たちが神様とイエス・キリストを礼拝しているのです。