天上の礼拝 2017年10月15日(日曜 夕方の礼拝)

問い合わせ

日本キリスト改革派 羽生栄光教会のホームページへ戻る

天上の礼拝

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ヨハネの黙示録 4章1節~11節

聖句のアイコン聖書の言葉

4:1 その後、わたしが見ていると、見よ、開かれた門が天にあった。そして、ラッパが響くようにわたしに語りかけるのが聞こえた、あの最初の声が言った。「ここへ上って来い。この後必ず起こることをあなたに示そう。」
4:2 わたしは、たちまち“霊”に満たされた。すると、見よ、天に玉座が設けられていて、その玉座の上に座っている方がおられた。
4:3 その方は、碧玉や赤めのうのようであり、玉座の周りにはエメラルドのような虹が輝いていた。
4:4 また、玉座の周りに二十四の座があって、それらの座の上には白い衣を着て、頭に金の冠をかぶった二十四人の長老が座っていた。
4:5 玉座からは、稲妻、さまざまな音、雷が起こった。また、玉座の前には、七つのともし火が燃えていた。これは神の七つの霊である。
4:6 また、玉座の前は、水晶に似たガラスの海のようであった。この玉座の中央とその周りに四つの生き物がいたが、前にも後ろにも一面に目があった。
4:7 第一の生き物は獅子のようであり、第二の生き物は若い雄牛のようで、第三の生き物は人間のような顔を持ち、第四の生き物は空を飛ぶ鷲のようであった。
4:8 この四つの生き物には、それぞれ六つの翼があり、その周りにも内側にも、一面に目があった。彼らは、昼も夜も絶え間なく言い続けた。「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、/全能者である神、主、/かつておられ、今おられ、やがて来られる方。」
4:9 玉座に座っておられ、世々限りなく生きておられる方に、これらの生き物が、栄光と誉れをたたえて感謝をささげると、
4:10 二十四人の長老は、玉座に着いておられる方の前にひれ伏して、世々限りなく生きておられる方を礼拝し、自分たちの冠を玉座の前に投げ出して言った。
4:11 「主よ、わたしたちの神よ、/あなたこそ、/栄光と誉れと力とを受けるにふさわしい方。あなたは万物を造られ、/御心によって万物は存在し、/また創造されたからです。」ヨハネの黙示録 4章1節~11節

原稿のアイコンメッセージ

 1章19節に、「さあ、見たことを、今あることを、今後起ころうとしていることを書き留めよ」と記されています。この主イエスの御言葉は、ヨハネの黙示録の大枠を示していると考えられています(使徒1:8参照)。2章、3章には、小アジアにある七つの教会に対する主イエスの御言葉が記されておりました。七つの教会の今ある姿が、そこに記されていたわけです。ヨハネは、2章、3章において、今あることを書き留めたと言えるのであります。そして、4章から22章5節まで、今後起ころうとしていることを書き留めるのです。しかし、そもそも、なぜ、主イエスは、今あることを書き留めるように言われたのでしょうか?それは、主イエスの目に映る本当の姿を知り、悔い改めて、今後起ころうとしていることに備えるためであります。今後起ころうとしていることを乗り越えることができるようにと、主イエスは、厳しい言葉で、悔い改めを求められたのです。4章から22章5節までには、今後起ころうとしていることが書き留められています。しかし、そこで最初に、ヨハネに示されたことは、天において、神が王として支配しておられ、天使たちによって礼拝されていることでありました。これは、主イエスの教育的な配慮によるものであります。しばしば申しますように、ヨハネの黙示録は、紀元90年頃、ローマ皇帝ドミティアヌスによって迫害されていた教会に対して記された書物であります。今後起こることの中にも、教会が迫害を受けることが記されています。しかし、それに先立って、主イエスは、ヨハネに、天上において神様が王として君臨されていること、天使たちによって礼拝されているその様子を示されるのです。それは、地上の教会が苦しみにあっているときも、天上においては神様が王として統治しておられ、天使たちによって礼拝されていることを忘れないためであります。私たちの目には、神様の御支配が見えなくても、天上においては、神様の御支配がゆるぎないものとして確立しておられるのです。私たちが信仰に弱さを覚え、神をほめたたえることができなくても、天上では、天使たちが神様を絶え間なく、礼拝しているのです。そのことを覚えて、御言葉の恵みにあずかりたいと願います。

 4章1節から6節前半までをお読みします。

 その後、わたしが見ていると、見よ、開かれた門が天にあった。そして、ラッパが響くようにわたしに語りかけるのが聞こえた。あの最初の声が言った。「ここへ上って来い。この後必ず起こることをあなたに示そう。」わたしは、たちまち、霊に満たされた。すると、見よ、天に玉座が設けられていて、その玉座の上に座っている方がおられた。その方は、碧玉や赤めのうのようであり、玉座の周りにはエメラルドのような虹が輝いていた。また、玉座の周りに二十四の座があって、それらの座の上には白い衣を着て、頭に金の冠をかぶった二十四人の長老が座っていた。玉座からは、稲妻、さまざまな音、雷が起こった。また、玉座の前には、七つのともし火が燃えていた。これは神の七つの霊である。また、玉座の前は、水晶に似たガラスの海のようであった。

 主イエスによって、天上へと引き上げられたヨハネが見たもの、それは、「天に玉座が設けられていて、その玉座の上に座っている方がおられた」ということであります。天の玉座に座っておられる方、これは天地万物を王として御支配しておられる神様のことであります。ここで、ヨハネは神様の姿を、碧玉や赤めのうといった宝石を用いて、また、エメラルドのような虹の輝きを用いて記しております。神様は光の中に住んでおられる、目に見ることのできない御方であるのです(一テモテ6:16参照)。ここで、ヨハネは、エゼキエル書の記述を用いております。エゼキエル書の1章に、天が開かれ、エゼキエルが神の顕現に接したことが記されています。エゼキエル書の1章26節から28節に、次のように記されています。「生き物の頭上にある大空の上に、サファイアのように見える王座の形をしたものがあり、王座のようなものの上には高く人間のように見える姿をしたものがあった。腰のように見えるところから上は、琥珀金が輝いているようにわたしには見えた。それは周りに燃えひろがる火のように見えた。腰のように見えるところから下は、火のように見え、周囲に光りを放っていた。周囲に光りを放つ様は、雨の日の雲に現れる虹のように見えた。これが主の栄光の姿の有様であった」。このエゼキエルの記述と比べると、ヨハネは、神様の姿について、抑制して記していることが分かります。ヨハネは、「人間のように見える姿」については記さず、宝石と虹の輝きによって、神様について記すのです。

 玉座の周りには、二十四の座があり、それらの座の上には、白い衣を着て、頭に金の冠をかぶった二十四人の長老が座っておりました。二十四という数字については、いろいろな説があります。ある人は、イスラエルの12部族と、イエス・キリストの12使徒を合わせた数ではないかと推測しております。また、ある人は、神殿で奉仕する聖歌隊が24組に分けられたことによると推測しております(歴代下25:9~31参照)。24という数字の由来については、よく分かりませんが、ともかく、玉座の周りに、二十四人の長老が座っていたのです。この長老たちは、白い衣を着て、金の冠をかぶっておりました。この長老たちは、高い位の天使たちであると考えられます。

 「玉座からは、稲妻、さまざまな音、雷が起こった」とありますが、これは神様が近寄りがたい畏るべき方であることを示しています。その昔、シナイ山において、神様がイスラエルに御自分を示されたときと同じ光景がここに記されているのです。「玉座の前には、七つのともし火があり、玉座の前は、水晶に似たガラスの海のようであった」と記されています。神様の玉座の前には、神様の御心を行うために、七つの霊が控えている。そして、神様の玉座は青空の上にあるわけですから、それはさながら水晶に似たガラスの海のようであったのです。

 6節後半から8節までをお読みします。

 この玉座の中央とその周りに四つの生き物がいたが、前にも後ろにも一面に目があった。第一の生き物は獅子のようであり、第二の生き物は若い雄牛のようで、第三の生き物は人間のような顔を持ち、第四の生き物は空を飛ぶ鷲のようであった。この四つの生き物には、それぞれ六つの翼があり、その周りにも内側にも、一面に目があった。彼らは、昼も夜も絶え間なく言い続けた。「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、全能者である神、主、かつておられ、今おられ、やがて来られる方。」

 玉座の周りには四つの生き物がいました。この四つの生き物は、玉座と長老たちの間に、長老たちよりも近くに侍っていたのだと思います。この四つの生き物についても、ヨハネは、エゼキエル書の1章の記述をもとに記しております。エゼキエル書1章5節から10節に次のように記されています。「またその中には、四つの生き物の姿があった。その有様はこうであった。彼らは人間のようなものであった。それぞれが四つの顔を持ち、四つの翼を持っていた。脚はまっすぐで、足の裏は子牛の足の裏ににており、磨いた青銅が輝くように光を放っていた。また、翼の下には四つの方向に人間の手があった。四つとも、それぞれの顔と翼を持っていた。翼は互いに触れ合っていた。それらは移動するとき向きを変えず、それぞれ顔の向いている方向に進んだ。その顔は人間の顔のようであり、四つとも右に獅子の顔、左に牛の顔、そして四つとも後ろには鷲の顔を持っていた」。飛んで、18節にはこう記されています。「車輪の外枠は高く、恐ろしかった。車輪の外枠には、四つとも周囲一面に目がつけられていた」。このような、エゼキエルの見た幻を参考にして、ヨハネは、四つの生き物について記しているのです。ただ、ヨハネの記述の方が、すっきりしております。エゼキエルの記述ですと、人間と獅子と牛と鷲の四つの顔を持つ生き物が四ついたと記されていますが、ヨハネの記述ですと、獅子のような生き物、若い雄牛のような生き物、人間のような顔を持つ生き物、鷲のような生き物の四つがいたと記されています。ある研究者によれば、獅子は野獣の王であり、牛は家畜の王であり、人間は被造世界の王であり、鷲は鳥の王であると言われます。自然界とそのあらゆる現象を支配する四天使がここに描かれていると言うのです。エゼキエルは、四つの顔と四つの翼を持つ四つの生き物を、ケルビムと言っております(エゼキエル10:20参照)。ヨハネの黙示録においても、この四つの生き物は神様に仕える天使のような存在であるのです。四つの生き物の前にも後ろにも、一面に目があったと記されていますが、これは、四つの生き物がすべてを見透すことのできることを示しています。四つの生き物には、六つの翼があるのですが、これは、イザヤ書の6章の記述を背景としています。イザヤ書6書には、イザヤが主を見たことが記されています。イザヤ書の6章1節から3節に次のように記されています。「ウジヤ王が死んだ年のことである。わたしは、高く天にある御座に主が座しておられるのを見た。衣の裾は神殿いっぱいに広がっていた。上の方にはセラフィムがいて、それぞれ六つの翼を持ち、二つをもって顔を覆い、二つをもって足を覆い、二つをもって飛び交っていた。彼らは互いに呼び交わし、唱えた。『聖なる、聖なる、聖なる万軍の主。主の栄光は、地をすべて覆う』」。ヨハネは、イザヤの記述を参考にして、四つの生き物に六つの翼があったこと。そして、彼らが「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな」と全能者である神、主をほめたたえたことを記しているのです。このように、ヨハネは、エゼキエル書やイザヤ書を参考にして、自分の見たことを記しました。それは、ヨハネが見た玉座に座っておられる御方が、エゼキエルやイザヤが見た主なる神であることを教えているのです。

 9節から11節までをお読みします。

 玉座に座っておられ、世々限りなく生きておられる方に、これらの生き物が、栄光と誉れをたたえて感謝をささげると、二十四人の長老は、玉座に着いておられる方の前にひれ伏して、世々限りなく生きておられる方を礼拝し、自分たちの冠を玉座の前に投げ出して言った。「主よ、わたしたちの神よ、あなたこそ、栄光と誉れと力を受けるにふさわしい方。あなたは万物を造られ、御心によって万物は存在し、また創造されたからです。」

 四つの生き物の礼拝に続いて、二十四人の長老たちも、神様を礼拝しました。ひれ伏して、礼拝し、自分の冠を玉座の前に投げ出す。これは、服従と敬意をあらわす行為であります。そのようにして、長老たちは、玉座に座っておられる御方に、「主よ、私たちの神よ」と呼びかけるのです。「主よ、私たちの神よ」。この呼びかけは、ローマの皇帝ドミティアヌスが、自分に対して求めた呼びかけであると言われています。ドミティアヌスは、自分を主と呼び、神と呼ぶことを人々に強要したのです。しかし、二十四人の長老たちは、玉座に座っている御方こそが、「主であり、私たちの神である」と言うのであります。そして、「あなたこそ、栄光と誉れと力とを受けるにふさわしい方」と言うのです。それは、栄光と誉れと力が、神様に属するものであり、神様を源とするものであるからです。神様は、栄光と誉れと力を、どのようにして現されたか?それは、天地万物を造られたことによってであります。「神様の御心によって万物は存在し、また創造された」。預言者エレミヤは、「天と地を造らなかった神々は、地の上、天の下から滅び去る」と言いました(エレミヤ10:11)。造られた者であるローマの皇帝が主であり、神であるはずはありません。栄光と誉れと力を受けるにふさわしい御方は、天地万物を力ある御言葉によって造られた神様だけであるのです。

関連する説教を探す関連する説教を探す