熱心に努めよ 2017年10月08日(日曜 夕方の礼拝)
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熱心に努めよ
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- 村田寿和 牧師
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ヨハネの黙示録 3章14節~22節
聖書の言葉
3:14 ラオディキアにある教会の天使にこう書き送れ。『アーメンである方、誠実で真実な証人、神に創造された万物の源である方が、次のように言われる。
3:15 「わたしはあなたの行いを知っている。あなたは、冷たくもなく熱くもない。むしろ、冷たいか熱いか、どちらかであってほしい。
3:16 熱くも冷たくもなく、なまぬるいので、わたしはあなたを口から吐き出そうとしている。
3:17 あなたは、『わたしは金持ちだ。満ち足りている。何一つ必要な物はない』と言っているが、自分が惨めな者、哀れな者、貧しい者、目の見えない者、裸の者であることが分かっていない。
3:18 そこで、あなたに勧める。裕福になるように、火で精錬された金をわたしから買うがよい。裸の恥をさらさないように、身に着ける白い衣を買い、また、見えるようになるために、目に塗る薬を買うがよい。
3:19 わたしは愛する者を皆、叱ったり、鍛えたりする。だから、熱心に努めよ。悔い改めよ。
3:20 見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう。
3:21 勝利を得る者を、わたしは自分の座に共に座らせよう。わたしが勝利を得て、わたしの父と共にその玉座に着いたのと同じように。
3:22 耳ある者は、“霊”が諸教会に告げることを聞くがよい。」』」
ヨハネの黙示録 3章14節~22節
メッセージ
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ヨハネの黙示録の2章と3章には、小アジアの七つの教会に宛てた、主イエスの御言葉が記されています。今夕の「ラオディキアにある教会にあてた手紙」はその最後の手紙であります。私たちは、耳ある者として、霊が諸教会に告げることを聞きたいと思います。すなわち、ラオディキアにある教会に語られた主イエスの御言葉を、羽生にある私たちの教会に対する御言葉として、信仰をもって聞きたいと願います。
ラオディキアに教会があったことは、使徒パウロが、コロサイの信徒への手紙で記しています。コロサイの信徒への手紙2章1節に、次のように記されています。「わたしが、あなたがたとラオディキアにいる人々のために、また、わたしとまだ直接顔を合わせたことのないすべての人のために、どれほど労苦して戦っているか、分かって欲しい」。また、4章12節から16節に、次のように記されています。「あなたがたの一人、キリスト・イエスの僕エパフラスが、あなたがたによろしくと言っています。彼は、あなたがたが完全な者となり、神の御心をすべて確信しているようにと、いつもあなたがたのために祈っています。わたしは証言しますが、彼はあなたがたのため、またラオディキアとヒエラポリスの人々のために、非常に労苦しています。愛する医者ルカとデマスも、あなたがたによろしくと言っています。ラオディキアの兄弟たち、およびニンファと彼女の家にある教会の人々によろしく伝えてください。この手紙があなたがたのところで読まれたら、ラオディキアの教会でも読まれるように、取り計らってください。また、ラオディキアから回ってくる手紙を、あなたがたも読んでください」。ラオディキアの教会は、エパフラスによって建てられた教会でありました。「ラオディキアから回ってくる手紙」は、現在、失われております。エフェソの信徒への手紙のことを指すとする説もありますが、よく分かりません。このように、ラオディキアの教会は、パウロの手紙を読んだことのある教会であったのです。
ラオディキアは、裕福な町で、金融業、織物工業、医学において有名な町でありました。紀元後60年に起こった地震によって町が破壊されたときも、ローマ皇帝からの援助を辞退して、自分たちだけで町を再建したと言われています。そのようなラオディキアにある教会に、主イエスは、「アーメンである方、誠実で真実な証人、神に創造された万物の源である方」として御自身を示されるのです。「アーメン」とは「真実です」という意味ですから、「アーメンである方」とは「真実な方」という意味であります(イザヤ65:16参照)。また、「誠実な真実な証人」とは、主イエスが十字架の死に至るまで神様に忠実であられた御方であることを意味しています。さらに、「神に創造された万物の源である方」とは、主イエスが天地創造の前からおられる造り主なる神であることを意味しています。ラオディキアの教会は、コロサイの信徒への手紙を読んだことがあったかも知れません。コロサイの信徒への手紙1章15節、16節で、パウロは次のように記しています。「御子は、見えない神の姿であり、すべてのものが造られる前に生まれた方です。天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、王座も主権も、支配も権威も、万物は御子において造られたからです。つまり、万物は御子によって、御子のために造られました」。主イエスは、すべての被造物を造られた神、その方であるのです。
主イエスは、「アーメンである方、誠実で真実な証人、神に創造された万物の源である方」として、次のように言われます(15~19節)。
「わたしはあなたの行いを知っている。あなたは冷たくもなく熱くもない。むしろ、冷たいか熱いか、どちらかであってほしい。熱くも冷たくもなく、なまぬるいので、わたしはあなたを口から吐き出そうとしている。あなたは、『わたしは金持ちだ。満ち足りている。何一つ必要な物はない』と言っているが、自分が惨(みじ)めな者、哀れな者、貧しい者、目の見えない者、裸の者であることが分かっていない。そこで、あなたに勧める。裕福になるように、火で精錬された金をわたしから買うがよい。裸の恥をさらさないように、身に着ける白い衣を買い、また、見えるようになるために、目に塗る薬を買うがよい。わたしは愛する者を皆、叱ったり、鍛えたりする。だから、熱心に努めよ。悔い改めよ」。
主イエスは、ラオディキアの信徒たちの信仰生活を、「なまぬるい」と言われます。ラオディキアの信徒たちは信仰の熱心を失いかけていたようです。ここで、主イエスは、「冷たい」、「なまぬるい」、「熱い」と、教会の三つの状態について言っているのではありません。「冷たいと熱い」という良い状態と「なまぬるい」という悪い状態の二つについて言っているのです。私たちも熱い飲み物か冷たい飲み物を好むように、主イエスも「冷たいか熱いか、どちらかであってほしい」と言うのです。そして、信仰の熱心を失っているラオディキアの教会に、「なまぬるいので、わたしはあなたを口から吐き出そうとしている」と警告されるのです。
しかし、ラオディキアの信徒たちはそのようには考えていなかったようです。彼らは、「わたしは金持ちだ。満ち足りている。何一つ必要な物はない」と言っておりました。この言葉は、紀元後60年に起こった地震で町が破壊されたとき、ローマ皇帝の援助を断った際に言った言葉であると言われています。これほど、露骨には言わなかったでしょうが、このような主旨のことを言って、援助を辞退したのです。その際は、経済的なことを言っていたわけですが、ここでは、信仰的なことが言われているのです。彼らは、自分たちが信仰においても豊かで満ち足りていると言っていたのです。しかし、主イエスの目に映る彼らの姿はそれと全く反対でありました。そして、主イエスの目に映る姿こそが、彼らの本当の姿であるのです。ラオディキアの教会は、自分が惨(みじ)めな物、哀れな者、貧しい者、目の見えない者、裸の者であることが分かっていませんでした。それゆえ、主イエスは、裕福になるように、火で精錬された金を買うように、裸の恥をさらさないように、身に着ける白い衣を買うように、見えるようになるために、目に塗る薬を買うようにと勧告されるのです。このイエス様の御言葉は、ラオディキアの町が、金融業が盛んであり、黒い羊毛の織物と目に塗る薬(フリギアの粉末)が特産品であったことを背景としています。イエス様から精錬された金、白い衣、目に塗る薬を買うとは、エパフラスとヨハネを通して聞いた、イエス・キリストの福音に立ち返ることです。それは、主イエスの愛に立ち返ることでもあります。主イエスは、ラオディキアの教会を、今も愛しております。それゆえ、主イエスは、叱ったり、鍛えたりされるのです。主イエスが私たちを厳しい言葉で叱ったり、試練によって鍛えたりされるのは、私たちを愛しているからであるのです(箴言3:12参照)。それゆえ、私たちは、気落ちすることなく、悔い改めて、熱心に努めるべきであるのです。怠らず、励み、霊に燃えて、主に仕えるべきであるのです(ローマ12:11参照)。
続けて、主イエスは次のように言われます(20~22節)。
「見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう。勝利を得る者を、わたしは自分の座に共に座らせよう。わたしが勝利を得て、わたしの父と共にその玉座に着いたのと同じように。耳ある者は、霊が諸教会に告げることを聞くがよい」。
ここで、主イエスの再臨が、信徒一人一人に対するものとして記されています(ルカ12:35、36参照)。ここで、大切なことは、私たちが主イエスの声を聞き分ける耳を持ち続けるということです。そしてそのためには、主イエスの御言葉を慕い求める熱心な信仰生活が必要であるのです。イエス様がいつ来られても良いように、私たちは主イエスの御言葉を慕い求める熱心な信仰生活を送りたいと思います。主イエスと共に天国の祝宴にあずかることを待ち望みながら、主イエスよ、来てくださいと目を覚まして待ち続けたいと願います。
主イエスは、勝利を得る者、すなわち、御自分に死に至るまで忠実である者を、自分の座に共に座らせようと言われます。イエス様は、十字架の死に至るまで、父なる神に忠実であることによって勝利を得、父なる神と共に玉座に着かれました。それと同じように、イエス様は、御自分に死に至るまで忠実な者に勝利を与え、御自分の座にともに座らせてくださるのです。イエス・キリストが復活して、今、父なる神と玉座に座しておられること。それこそ、私たちの勝利が確かであることの保証であるのです。