わたしの神の名を書き記そう 2017年9月24日(日曜 夕方の礼拝)
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わたしの神の名を書き記そう
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- 村田寿和 牧師
- 聖書
ヨハネの黙示録 3章7節~13節
聖書の言葉
3:7 フィラデルフィアにある教会の天使にこう書き送れ。『聖なる方、真実な方、/ダビデの鍵を持つ方、/この方が開けると、だれも閉じることなく、/閉じると、だれも開けることがない。その方が次のように言われる。
3:8 「わたしはあなたの行いを知っている。見よ、わたしはあなたの前に門を開いておいた。だれもこれを閉めることはできない。あなたは力が弱かったが、わたしの言葉を守り、わたしの名を知らないと言わなかった。
3:9 見よ、サタンの集いに属して、自分はユダヤ人であると言う者たちには、こうしよう。実は、彼らはユダヤ人ではなく、偽っているのだ。見よ、彼らがあなたの足もとに来てひれ伏すようにし、わたしがあなたを愛していることを彼らに知らせよう。
3:10 あなたは忍耐についてのわたしの言葉を守った。それゆえ、地上に住む人々を試すため全世界に来ようとしている試練の時に、わたしもあなたを守ろう。
3:11 わたしは、すぐに来る。あなたの栄冠をだれにも奪われないように、持っているものを固く守りなさい。
3:12 勝利を得る者を、わたしの神の神殿の柱にしよう。彼はもう決して外へ出ることはない。わたしはその者の上に、わたしの神の名と、わたしの神の都、すなわち、神のもとから出て天から下って来る新しいエルサレムの名、そして、わたしの新しい名を書き記そう。
3:13 耳ある者は、“霊”が諸教会に告げることを聞くがよい。」』ヨハネの黙示録 3章7節~13節
メッセージ
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今夕は、ヨハネの黙示録3章7節から13節より、御言葉の恵みにあずかりたいと願います。
7節に、「フィラデルフィアにある教会の天使にこう書き送れ」とありますように、今夕の御言葉は、フィラデルフィアにある教会に宛てて記された御言葉であります。では、他の教会には関係がないかと言えば、そうではありません。13節に、「耳ある者は、霊が諸教会に告げることを聞くがよい」とありますように、今夕の御言葉は、すべての教会に宛てて記された御言葉でもあるのです。私たちは、そのことを念頭において、今夕の御言葉を、私たち羽生栄光教会に宛てて記された御言葉として聞きたいと願います。
「フィラデルフィア」は小アジアにある町の名前であります。フィラデルフィアとは「兄弟愛」という意味です(フィロスとアデルフォスの合成語)。「フィラデルフィア」という町の名前は、紀元前150年頃に、この町を設立した王様の名前に由来します。このフィラデルフィアに、主イエス・キリストを信じる者たちの群れ、教会があったのです。
ここで、イエス様は御自分を「聖なる方、真実な方、ダビデの鍵を持つ方、この方が開けると、だれも閉じることなく、閉じると、だれも開けることがない」と言われます。イエス様が御自分がどのような方であるかを示してくださっているのです。「聖なる方」とは、「神と等しい方、神その方」という意味であります。なぜなら、旧約聖書において「聖」は神様の御性質を表す言葉であるからです。また、「真実な方」とは「信頼することのできる方」という意味であります。これも神様の御性質の一つであります。また、「ダビデの鍵を持つ方」とは、「新しいエルサレムに入る者を管理する権能をもった方」という意味であります。この「ダビデの鍵を持つ方」は、イザヤ書22章22節からの引用であります。旧約聖書1094頁。イザヤ書22章20節から22節までをお読みします。
その日には、わたしは、わが僕、ヒルキヤの子エルヤキムを呼び、彼にお前の衣を着せ、お前の飾り帯を締めさせ、お前に与えられていた支配権を彼の手に渡す。彼はエルサレムの住民とユダの家の父となる。わたしは彼の肩に、ダビデの家の鍵を置く。彼が開けば、閉じる者はなく、彼が閉じれば、開く者はないであろう。
ヒルキヤの子エルヤキムが神様から与えられたダビデの家の鍵は、ダビデの町エルサレムに、誰が入るかを決める権能を意味しておりました。それと同じように、イエス様は、ダビデの家の鍵を持つ御方として、新しいエルサレムに誰が入るかを決める絶対的な権能を持っておられるのです。
では、今夕の御言葉に戻ります。新約の456頁です。
聖なる方、真実な方、ダビデの鍵を持つ方であるイエス様は、次のように言われます。「わたしはあなたの行いを知っている。見よ、わたしはあなたの前に門を開いておいた。だれもこれを閉めることはできない。あなたは力が弱かったが、わたしの言葉を守り、わたしの名を知らないと言わなかった。見よ、サタンの集いに属して、自分はユダヤ人であると言う者たちには、こうしよう。実は、彼らはユダヤ人ではなく、偽っているのだ。見よ、彼らがあなたの足もとに来てひれ伏すようにし、わたしがあなたを愛していることを彼らに知らせよう。あなたは忍耐についてのわたしの言葉を守った。それゆえ、地上に住む人々を試すため全世界に来ようとしている試練の時に、わたしもあなたを守ろう」。ヨハネの黙示録は、紀元90年代に、ローマ皇帝ドミティアヌス帝によって迫害を受けている教会に宛てて記された書物であります。ローマ帝国からだけではなくて、ユダヤ人からも教会は迫害を受けておりました。フィラデルフィアの教会もそうでありました。ユダヤ人たちは、イエス・キリストを信じる者たちを神を冒涜する異端者として迫害していたのです。しかし、聖なる方、真実な方、ダビデの鍵を持つ方であるイエス様は、ユダヤ人たちを「サタンの集いに属して、自分をユダヤ人であると言う者たち」と呼び、「彼らはユダヤ人ではなく、偽っている」と言われるのです(2:8参照)。ユダヤ人とは、神をほめたたえる者のことでありまして、神の民を意味します。彼らは自分たちこそ、神の会堂に属している神の民であると自負しておりました。しかし、イエス様は、彼らは神の敵であるサタンの会堂に属する、偽り者であると言うのです。なぜなら、彼らは、神様が遣わされたイエス・キリストを主、メシアと信じていないからです。イエス・キリストを主、メシアと信じる者たちこそ、神の民であるのです。ユダヤ人たちは、預言書に記されている、終わりの日に、異邦人が自分たちのもとに来て、ひれ伏すと信じておりました。例えば、イザヤ書60章14節には、「あなたを苦しめた者の子らは/あなたのもとに来て、身をかがめ/あなたを卑しめた者も皆/あなたの足もとにひれ伏」すと記されています。しかし、イエス様は、その預言は、キリスト者の前に、ユダヤ人がひれ伏すことによって実現されると告げるのです。なぜなら、イエス・キリストの教会こそ、神のイスラエルであるからです。イエス・キリストが来られる日、キリスト者を迫害している者たちは、キリスト者の足もとに来てひれ伏し、キリスト者こそが神様に愛され、選ばれた者たちであることを知るようになるのです。
フィラデルフィアの教会は、「力が弱かった」と記されています。フィラデルフィアの教会は、人数の少ない無力な団体であったようです。しかし、彼らは、イエス様の言葉を守り、イエス様の名を知らないとは言いませんでした。イエス様は、弟子たちに、「だれでも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、わたしも天の父の前で、その人をわたしの仲間で言い表す。しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、わたしも天の父の前で、その人を知らないと言う」と仰せになりました(マタイ10:32,33)。そして、フィラデルフィアの信徒たちは、イエス様の言葉を守り、イエス様の名を知らないとは言わなかったのです。また、10節には、「あなたは忍耐についてのわたしの言葉を守った」とも記されています。イエス様は、弟子たちが御自分の名にゆえに迫害されることを預言された後で、「忍耐によって、あなたがたは命をかち取りなさい」と言われました(ルカ21:19)。そのイエス様のお言葉を守って、彼らは迫害の中にあっても忍耐したのです。イエス様は、フィラデルフィアの教会が忍耐についての御自分の言葉を守ったゆえに、地上に住む人々を試すために全世界に来ようとしている試練の時に、彼らを守ると言われます。「全世界に来ようとている試練」とは、第6章以下に記されている封印が開かれることによってもたらされる災いのことであります。その昔、エジプトに起こった災いから、イスラエルの民が守られたように、神様は、これから起こる災いから御自分の言葉を守った者たちを守られるのです。そして、これは私たちに対する約束でもあるのです。
続けてイエス様はこう言われます。「わたしは、すぐに来る。あなたの栄冠をだれにも奪われないように、持っているものを固く守りなさい。勝利を得る者を、わたしの神の神殿の柱にしよう。彼はもう決して外へ出ることはない。わたしはその者の上に、わたしの神の名と、わたしの神の都、すなわち、神のもとから出て天から下って来る新しいエルサレムの名、そして、わたしの新しい名を書き記そう。耳ある者は、霊が諸教会に告げることを聞くがよい」。ここでのあなたの栄冠とは、イエス・キリストを信じる者としての勝利のことでありましょう。主イエス・キリストは、「わたしは既に、世に勝っている」と言われました。その主イエス・キリストの言葉を固く守ることによって、私たちもサタンに勝利することができるのです。そして、そのような者を、イエス様は、「わたしの神殿の柱にしよう」と言われるのです。神殿の柱にするとは、「彼はもう決して外へ出ることはない」とありますように、神様の恵みの御支配に永遠にあずかる者となるということであります。そして、イエス様は、勝利を得る者たちの上に、「わたしの神の名と、神の都である新しいエルサレムの名、そして、わたしの新しい名を書き記そう」と言われるのです。イエス様の神様の名を記されるとは、その者が、イエス様の神様のものとなるということです。私たちが、自分のものに、自分の名前を書くように、イエス様は、私たちの上に、御自分の神の名を書き記してくださる。そのように、私たちを御自分の神の民としてくださるのです。また、わたしの神の都の名を記すとは、私たちが新しいエルサレムに住む者とされるということであります。さらに、わたしの新しい名を書き記すとは、再臨される栄光のイエス様と同じ、新しい祝福にあずかる者となるということであります。私たちは、永遠に罪と悲惨から解放されて、考えも及ばない喜びに満たされることになるのです(ウェストミンスター大教理問90参照)。