目覚めよ、悔い改めよ 2017年9月17日(日曜 夕方の礼拝)
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目覚めよ、悔い改めよ
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- 説教
- 村田寿和 牧師
- 聖書
ヨハネの黙示録 3章1節~6節
聖書の言葉
3:1 サルディスにある教会の天使にこう書き送れ。『神の七つの霊と七つの星とを持っている方が、次のように言われる。「わたしはあなたの行いを知っている。あなたが生きているとは名ばかりで、実は死んでいる。
3:2 目を覚ませ。死にかけている残りの者たちを強めよ。わたしは、あなたの行いが、わたしの神の前に完全なものとは認めない。
3:3 だから、どのように受け、また聞いたか思い起こして、それを守り抜き、かつ悔い改めよ。もし、目を覚ましていないなら、わたしは盗人のように行くであろう。わたしがいつあなたのところへ行くか、あなたには決して分からない。
3:4 しかし、サルディスには、少数ながら衣を汚さなかった者たちがいる。彼らは、白い衣を着てわたしと共に歩くであろう。そうするにふさわしい者たちだからである。
3:5 勝利を得る者は、このように白い衣を着せられる。わたしは、彼の名を決して命の書から消すことはなく、彼の名を父の前と天使たちの前で公に言い表す。
3:6 耳ある者は、“霊”が諸教会に告げることを聞くがよい。」』ヨハネの黙示録 3章1節~6節
メッセージ
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今夕は、ヨハネの黙示録3章1節から6節より、御言葉の恵みにあずかりたいと願っております。
ここには、サルディスという町にある教会に宛てて記された主イエスの御言葉が記されています。しかし、ここに記されている御言葉は、サルディスにある教会にだけ語られているのではありません。6節に、「耳ある者は、霊が諸教会に告げることを聞くがよい」とあるように、主イエスは聖霊によって、すべての教会に向けて、今夕の御言葉を語っているのです。主イエスは羽生にある私たちに対しても、今夕の御言葉を語っているのであります。
主イエスは、「神の七つの霊と七つの星を持っている方」としてお語りになります。「神の七つの霊」とは神の霊、聖霊のことであります。また、「七つの星」とは七つの教会の天使たちのことであります。主イエスは、すべてのことを見通される聖霊とすべての教会の支配者として、サルディスにある教会にこう言われるのです。「わたしはあなたの行いを知っている。あなたが生きているとは名ばかりで、実は死んでいる」。主イエスが知っていると言われる「行い」とは「信仰生活」のことであります。「あなたが生きているとは名ばかりで」とありますが、このところは、元の言葉は直訳すると「あなたは生きている名を持っているが」と記されています。名前は生きている者である。しかし、その実態は死んでいるというのです。ここでの「生きている」とか「死んでいる」とは、霊的なこと、神様との関係においてのことであります。サルディスの信徒たちは、「生きている」という名を持っていました。これは、イエス・キリストを信じているキリスト者であれば、誰にでも言えることであります。私たちはイエス・キリストを信じる前、罪のもとに死んだ者たちでありました。神様の御前に失われた者、死んだ者であったのです。そのような私たちが、神様の一方的な憐れみによって、イエス・キリストを信じる者とされたのです。イエス・キリストの十字架によって罪から贖われ、神様の御前に生きる者とされたのです。しかし、主イエスは、サルディスにある教会の多くの信徒が「実は死んでいる」と言うのです。この背景に、何があったのでしょうか?一つの推測は、彼らの信仰がたるんでいたということです。では、わたしたちは、どうでしょうか?私たちは生きているとは名ばかりで、実は死んでいるということがないでしょうか?そのことを、それぞれが真剣に問うことが大切であると思います。私たちは、主の日の礼拝をささげ、こうして、夕拝もささげています。そうであれば、「生きている」はずであると考えると思います。しかし、そこで、主イエスは、「それは名前だけで、実はあなたは死んでいる」と言われるのです。そんなことはないと思うかも知れません。しかし、私たちは、謙遜になって、この主イエスの御言葉、「あなたが生きているとは名ばかりで、実は死んでいる」という言葉を自分に対する御言葉として受け入れたいと思います。実際、私たちは、信仰生活を送る中で、そのようなことがあるのです。礼拝から遠のいてしまうこともありますし、礼拝に出席していても、心が遠のいていることがあるのです。罪の誘惑に負けて、神様との関係が疎遠になることもあります。あるいは、聖書に反する教えに捕らわれてしまうこともあるのです。そのようなとき、私たちは実は死んでいる者と、主イエスの目には映っているのです。では、どうすればよいのでしょうか?主イエスは、こう言われます。「目を覚ませ。死にかけている残りの者たちを強めよ。わたしは、あなたの行いが、わたしの神の前に完全なものとは認めない。だから、どのように受け、また聞いたか思い起こして、それを守り抜き、かつ悔改めよ」。目を覚ます。それはキリスト者として正気になれということであります。私たちは礼拝において、「イエス・キリストは主である」と公に言い表し、洗礼を受けました。あるいは、幼児洗礼を受けていれば、信仰告白をしました。それは、わたしは「イエス・キリストのしもべである」と言い表したことであります。主イエスの僕として、生きるにも、死ぬにも、主イエスのために生きる者であることを自覚すること、それこそ、目を覚ますことであります。目を覚ましたら、どうするのか?死にかかっている残りの者たちを力づけよというのです。かつて、主イエスはペトロに、「あなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」と言われたことがあります。それと同じことが私たち一人一人にも求められているのです。主イエスは、「わたしはあなたの行いが神の前に完全なものとは認めない」と言われますが、サルディスの信徒たちは、自分たちの信仰生活が神様の前に完全なものであると考えていたようです。つまり、彼らは自分たちの信仰生活を自己採点して、100点であると自己満足していたのです。しかし、私たちが忘れてはならないことは、私たちを裁くのは、私たち自身ではなく、主イエスであるということです。このことは、パウロが教えていることでもあります。「わたしにとっては、あなたがたから裁かれようと、人間の法廷で裁かれようと、少しも問題ではありません。わたしは、自分で自分を裁くことすらしません。自分には何もやましいところはないが、それでわたしが義とされているわけではありません。わたしを裁くのは主なのです」(一コリント4:3,4)。わたしを裁くのは主イエスである。このことを私たちは深く弁えて、信仰生活を送るべきであるのです。そのことを忘れて、自惚れている者たちに、主イエスは、「悔い改めよ」と言われます。悔い改めとは、向きを変えて、立ち帰ることです。イエス・キリストの福音を聞いて受け入れた純真な思いに立ち帰ることです。イエス・キリストの福音をどのように受け、聞いたかを思い起こし、それを忠実に守り、悔い改めること。そのことが、私たちが神様との関係において死んでしまっているときに、なすべきことであるのです。
先週の水曜日の祈祷会で、主の祈りの第五の祈願、「わたしたちに罪を犯した者をゆるしましたから、わたしたちの犯した罪をおゆるしください」について学びました。私たちは、イエス・キリストの十字架の贖いによって、すべての罪を赦されました。しかし、それにも関わらず、日々、罪を犯してしまうのです。ですから、私たちは、日ごとに、「わたしたちの罪をお赦しください」と祈るべきであることを学んだのであります。罪を犯すとき、罪に陥ってしまうとき、それこそ、神様との関係は疎遠になってしまい、神様の御前に死んだ者となってしまうのです。しかし、それは目覚めることのできる眠りでもあります。そして、私たちを信仰生活のたるみという眠りから目覚めさせてくださるのは、他ならない主イエスであるのです。主イエスが聖書の御言葉をもって、私たちに、「目を覚ませ、悔改めよ」と言ってくださるのです。それでも目を覚まし、悔い改めなければ、盗人のように、私たちのもとを訪れ、死んだ者として裁きをくだすと警告されるのです。盗人のように来るとは、だれも分からないように来られるということです。ですから、私たちは、御言葉を聞いた今日という日に目覚めて、悔い改めるべきであるのです。
サルディスには、少数ながら衣を汚さない者たちがおりました。この者たちは、イエス・キリストの福音を忠実に守る者たちであったのでしょう。主イエスは、そのような者たちが、「白い衣を来てわたしと共に歩くであろう」と言われます。白い衣とは、天国の装いです。わたしを裁くのは主であることを弁え、日々悔い改めて、イエス・キリストの福音を忠実に守る者たちは、白い衣を着せられ、主イエスと共に歩むことができる。このことは、大多数の死んだ者たちに対する約束でもあります。自分の目に完全であると考え、主イエスの目には死んだような者でも、目覚めて、悔い改めるならば、白い衣を着せられ、主イエスと共に歩くことができるのです。そして、ここに、私たちキリスト者の勝利の姿があるのです。主イエスは、「わたしは、彼の名を決して命の書から消すことなく、彼の名を父の前と天使たちの前で公に言い表す」と言われます。「命の書」とは、天国の住民台帳のことです。主イエスを信じる私たちの名前は、この命の書に記されています。私たちは、主イエス・キリストの福音を忠実に守ることによって、自分が確かに命の書に名前が記されていることを知ることができるのです。自分が「生きている者」という名を持っていることを確信することができるのです。
主イエスは、命の書に記されている、私たち一人ひとりの名を、父なる神と天使たちの前で公に読み上げてくださいます。それは、私たちが、自分を迫害する者たちを前にしても、「イエス・キリストは神の子、救い主である」と公に言い表すからです。主イエス・キリストの福音を忠実に守るということは、どのようなときも、「イエスは主である」と告白し、その忠実な僕として生きることであるのです。
主イエスから、白い衣を着せられ、天国に居場所を持つ者として名前を読んでいただける。それは、まことに素晴らしいことであります。そのような祝福に、私たちは一人ももれることなくあずかりたいと願います。