今持っているものを固く守れ 2017年9月10日(日曜 夕方の礼拝)
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今持っているものを固く守れ
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- 村田寿和 牧師
- 聖書
ヨハネの黙示録 2章18節~29節
聖書の言葉
2:18 ティアティラにある教会の天使にこう書き送れ。『目は燃え盛る炎のようで、足はしんちゅうのように輝いている神の子が、次のように言われる。
2:19 「わたしは、あなたの行い、愛、信仰、奉仕、忍耐を知っている。更に、あなたの近ごろの行いが、最初のころの行いにまさっていることも知っている。
2:20 しかし、あなたに対して言うべきことがある。あなたは、あのイゼベルという女のすることを大目に見ている。この女は、自ら預言者と称して、わたしの僕たちを教え、また惑わして、みだらなことをさせ、偶像に献げた肉を食べさせている。
2:21 わたしは悔い改める機会を与えたが、この女はみだらな行いを悔い改めようとしない。
2:22 見よ、わたしはこの女を床に伏せさせよう。この女と共にみだらなことをする者たちも、その行いを悔い改めないなら、ひどい苦しみに遭わせよう。
2:23 また、この女の子供たちも打ち殺そう。こうして、全教会は、わたしが人の思いや判断を見通す者だということを悟るようになる。わたしは、あなたがたが行ったことに応じて、一人一人に報いよう。
2:24 ティアティラの人たちの中にいて、この女の教えを受け入れず、サタンのいわゆる奥深い秘密を知らないあなたがたに言う。わたしは、あなたがたに別の重荷を負わせない。
2:25 ただ、わたしが行くときまで、今持っているものを固く守れ。
2:26 勝利を得る者に、わたしの業を終わりまで守り続ける者に、/わたしは、諸国の民の上に立つ権威を授けよう。
2:27 彼は鉄の杖をもって彼らを治める、/土の器を打ち砕くように。
2:28 同じように、わたしも父からその権威を受けたのである。勝利を得る者に、わたしも明けの明星を与える。
2:29 耳ある者は、“霊”が諸教会に告げることを聞くがよい。」』
ヨハネの黙示録 2章18節~29節
メッセージ
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今夕は、ヨハネの黙示録2章18節から29節より御言葉の恵みにあずかりたいと願っております。
18節に「ティアティラにある教会の天使にこう書き送れ」と記されております。ティアティラは、商業の中心地で、多くの同業組合があったと言われています。例えば、織物業、衣服製造業、なめし皮業、パン屋、青銅細工などです。使徒言行録の16章に、フィリピでリディアという婦人がパウロの話を注意深く聞いて、洗礼を受けたことが記されています。このリディアは、ティアティラ市出身の紫布を商う人でありました。それぞれの同業組合には、それぞれの守護神がいたと言われています。同業組合に入る人には、守護神への供え物を食べる祝宴に参加することが求められたのです。そのようなティアティラにある教会に対して、「目は燃える炎のようで、足はしんちゅうのように輝いている神の子」は、こう言われるのです。「わたしは、あなたの行い、愛、信仰、奉仕、忍耐を知っている。更に、あなたの近ごろの行いが、最初のころの行いにまさっていることも知っている」。ここでイエス様は、ティアティラの教会をほめておられます。イエス様は、エフェソの教会には、「あなたは初めのころの愛から離れてしまった。だから、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて初めのころの行いに立ち戻れ」と言われました(2:4、5)。しかし、ティアティラの教会に対しては、「あなたの近ごろの行いが、最初のころの行いにまさっている」と言われるのです。ティアティラの教会は、行い、愛、信仰、奉仕、忍耐において、成長していたのです。しかし、そのようなティアティラの教会にも非難すべき点がありました。イエス様は続けてこう言われます(20~23節)。「しかし、あなたに対して言うべきことがある。あなたは、あのイゼベルという女のすることを大目に見ている。この女は、自ら預言者と称して、わたしの僕たちを教え、また惑わして、みだらなことをさせ、偶像に献げた肉を食べさせている。わたしは悔い改める機会を与えたが、この女はみだらな行いを悔い改めようとしない。見よ、わたしはこの女を床に伏させよう。この女と共にみだらなことをする者たちも、その行いを悔い改めないなら、ひどい苦しみに遭わせよう。また、この女の子供たちも打ち殺そう。こうして、全教会は、わたしが人の思いや判断を見通す者だということを悟るようになる。わたしは、あなたがたが行ったことに応じて、一人一人に報いよう」。前回学んだペルガモンの教会には、バラムの教えを奉ずる者たちがいました(2:14参照)。それと同じように、ティアティラの教会にも、イゼベルという偽預言者がいたのです。これは、本名ではありません。と言いますのも、旧約聖書において、イゼベルは悪名高い女の名前であったからです。イゼベルは、預言者エリヤの時代(紀元前9世紀)に、イスラエルにおいてバアル崇拝を広めたアハブ王の后(きさき)でありました。イエス様は、ティアティラの教会を惑わす偽預言者を、エリヤの時代にイスラエルを惑わしたイゼベルになぞらえているのです。イゼベルは、自ら預言者と称して、信徒たちを教え、まどわして、みだならことをさせ、偶像に献げた肉を食べさせておりました。「みだらなことをさせる」とは、偶像崇拝をさせるということであります。旧約聖書を見ますと、偶像崇拝が姦淫に譬えられています。神でないものを神として崇める偶像崇拝は、まことに神様に対する霊的な姦淫、みだらなことであるのです。「偶像に献げた肉を食べさせる」。これも、偶像崇拝の行為の一部であります。最初に申しましたように、ティアティラは商業が盛んであり、多くの同業組合がありました。そして、そこでは、その守護神(偶像)を定期的に拝むことが行われていたのです。その守護神を拝まない、あるいはその守護神に献げた肉を食べる宴会に参加しないことは、大変なことでありました。周りの人たちから悪口を言われ、除け者にされるかもしれないわけです。そのような状況にあって、イゼベルは、自ら預言者と称して、信徒たちを惑わし、偶像崇拝を行うこと、偶像にささげた肉を食べさせることはたいしたこではないかのように教えたのです。しかし、イエス様は、そのことを問題視されます。そのような者たちに悔い改めを迫り、滅ぼされるのです。イエス様は、「あなたはわたしの他に何者をも神としてはならない」と言われる「ねたむ神」であられるのです。イエス様は、悔い改めようとしないイゼベルを床にふさせようと言われます。また、イゼベルの教えを受け入れて、偶像崇拝をする者たちを、悔い改めないならばひどい苦しみに遭わせると言われます。さらに、イゼベルによって信仰に入った者たちを打ち殺そうと言われるのです。23節の「この女の子供たち」とは、比喩的な表現でありまして、イゼベルの教えによって信仰に入った者たちのことであります。「イエス様を信じても、偶像を拝んでもよろしい。偶像に献げた肉を食べる祝宴にも参加してよろしい」。これは、耳障りのよい言葉です。しかし、そのような教えによって信じた者たちを、主イエスは打ち殺そうと言われるのです。そのようにして、全教会に対し、イエス様は、御自分が人の思いや判断を見通す者であることを示されるのです。旧約聖書は、神様だけが人のはらわたと心を究め、正義をもって裁かれるお方であると教えています(エレミヤ11:20参照)。その点において、神の子であるイエス様も同じであるのです(ヨハネ2:24,25参照)。ここでのイエス様の裁きは大変厳しいと思われるかも知れません。しかし、この厳しい裁きこそ、偶像崇拝という罪に対する正当な報いであるのです。彼らはまことの神を知らないで、偶像を礼拝していたのではありません。彼らはイエス・キリストを通して、まことの神を知ったうえで、偶像を礼拝していたのです。私たちはイエス・キリストにあってまことの神を知った者として、偶像崇拝が神様の御前にみだらな行いであり、どれほど厳しい裁きにあたいする罪であるかを心に刻みたいと思います。
24節以下は、イゼベルの教えを受け入れなかった、ティアティラの信徒たちに対するイエス様の御言葉であります。「ティアティラの人たちの中にいて、この女の教えを受け入れず、サタンのいわゆる奥深い秘密を知らないあなたがたに言う。わたしは、あなたがたに別の重荷を負わせない。ただ、わたしが行くときまで、今持っているものを固く守れ。勝利を得る者に、わたしの業を終わりまで守り続ける者に、わたしは諸国の民の上に立つ権威を授けよう。彼は鉄の杖をもって彼らを治める、土の器を打ち砕くように。同じように、わたしも父からその権威を受けたのである。勝利を得る者に、わたしも明けの明星を与える。耳ある者は、霊が諸教会に告げることを聞くがよい」。ここで、イゼベルの教えが、「サタンのいわゆる奥深い秘密」と言われています。これはイゼベルが自分の教えを、神の奥深い秘密と呼んでいたことを皮肉ったものと思われます(2:9の「サタンの集い」参照)。イゼベルは、偶像などという神はなく、それを拝んでもよいのだ、それこそ、神の奥深い秘密だと教えていたのでありますが、イエス様はそれをサタンの奥深い秘密と言われるのです。そのような教えはサタンの教えであると言うのです。イエス様は、イゼベルの教えを受け入れなかった信徒たちに、「わたしはあなたがたに別の重荷を負わせない。ただわたしが行くときまで、今持っているものを固く守れ」と言われます。「今持っているもの」とは、ティアティラの信徒たちが、使徒ヨハネから聞いて信じた、イエス・キリストの福音のことでありましょう。その福音に反する別の教えを与えることはなさらない。あなたがたが信じ受け入れた使徒的な教えを固く守れと言われるのです。イエス様が来られるときまで、使徒的な教えに基づく信仰生活を守り続けることこそ、私たちにとっての勝利であるのです。そして、イエス様は、そのような私たちに、諸国の民のうえに立つ権威を授けてくださるのです。26節後半と27節は、二文字下げて記されています。これは、この所が詩編2編の引用であるからです。詩編2編は、メシア詩編と言われていますが、その詩編の実現として、イエス様は父なる神様から権威を受けたのであります。そして、そのイエス様が、御自分への信仰を守り続ける私たちに、支配の象徴である明けの明星(金星)を与えてくださるのです。
日本において、イエス・キリストを信じ、この方だけを崇めて生きて行くことは、様々な信仰の戦いがあります。しかし、私たちは、今持っている者を固く守りたいと願います。イエス・キリストこそが、天と地の一切の権能を授けられた王の王、主の主であることを信じて、この方にのみ、礼拝をささげてゆきたいと願います。