勝利を得る者 2017年8月13日(日曜 夕方の礼拝)

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勝利を得る者

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ヨハネの黙示録 2章12節~17節

聖句のアイコン聖書の言葉

2:12 ペルガモンにある教会の天使にこう書き送れ。『鋭い両刃の剣を持っている方が、次のように言われる。
2:13 「わたしは、あなたの住んでいる所を知っている。そこにはサタンの王座がある。しかし、あなたはわたしの名をしっかり守って、わたしの忠実な証人アンティパスが、サタンの住むあなたがたの所で殺されたときでさえ、わたしに対する信仰を捨てなかった。
2:14 しかし、あなたに対して少しばかり言うべきことがある。あなたのところには、バラムの教えを奉ずる者がいる。バラムは、イスラエルの子らの前につまずきとなるものを置くようにバラクに教えた。それは、彼らに偶像に献げた肉を食べさせ、みだらなことをさせるためだった。
2:15 同じように、あなたのところにもニコライ派の教えを奉ずる者たちがいる。
2:16 だから、悔い改めよ。さもなければ、すぐにあなたのところへ行って、わたしの口の剣でその者どもと戦おう。
2:17 耳ある者は、“霊”が諸教会に告げることを聞くがよい。勝利を得る者には隠されていたマンナを与えよう。また、白い小石を与えよう。その小石には、これを受ける者のほかにはだれにも分からぬ新しい名が記されている。」』ヨハネの黙示録 2章12節~17節

原稿のアイコンメッセージ

 今夕は、ヨハネの黙示録2章12節から17節より、御言葉の恵みにあずかりたいと願っております。

 12節に、「ペルガモンにある教会の天使にこう書き送れ」とありますように、今夕の御言葉は、ペルガモンの教会に宛てて記された手紙であります。より正確に言えば、ペルガモンの教会に宛てて記された手紙の形式で、すべての教会に対するメッセージが記されているのです。17節に、「耳ある者は、霊が諸教会に告げることを聞くがよい」とありますように、ここに記されていることは、ペルガモンの教会だけではなく、諸教会、すべての教会に向けて記されているのです。私たち羽生栄光教会に対しても、今夕の御言葉は語られているのです。そのことを確認したうえで、ペルガモンという町についてお話したいと思います。ペルガモンは海岸から24キロメートルほどに位置する内陸の町でありました。紀元前133年にローマの属州となり、大きな図書館を有する文化都市として発展しました。羊皮紙はペルガモンで発明されたと言われております。また、紀元前29年に州議会の決議に基づき、ローマ皇帝と女神ローマのための神殿が建てられました。これが皇帝崇拝の始めであったと言われています。ペルガモンには、ゼウスのための巨大な神殿もあったと言われています。そのようなペルガモンにある教会に、主イエス・キリストは、「鋭い剣を持っている方」として、こう言われるのです。「わたしは、あなたの住んでいる所を知っている。そこにはサタンの王座がある。しかし、あなたはわたしの名をしっかり守って、わたしの忠実な証人アンティパスが、サタンの住むあなたがたの所で殺されたときでさえ、わたしに対する信仰を捨てなかった」。イエス様は、エフェソの教会に対しては、「わたしはあなたの行いと労苦と忍耐を知って」いると言われました。また、スミルナの教会に対しては、「わたしは、あなたの苦難や貧しさを知っている」と言われました。そして、ペルガモンの教会に対しては、「わたしは、あなたの住んでいる所を知っている」と言われるのです。ペルガモンの町は、天上の主イエスの御目に、どのような所として映っていたのでしょうか?イエス様は、「そこにはサタンの王座がある」と言われます。これは恐らく、ローマ皇帝を祭る神殿のことを指していると思われます。ペルガモンにはローマ皇帝を祭る神殿があり、皇帝を神として崇める皇帝礼拝が行われておりました。そのことを背景として、「そこにはサタンの王座がある」とイエス様は言われるのです。ローマ皇帝を神として崇めることは、イエス・キリストを主と告白するキリスト者にとって大きな問題でありました。なぜなら、イエス・キリストによってまことの神を知ったキリスト者は神でないものを神として崇めることはできないからです。十戒の第一戒にありますように、「あなたは、わたしをおいてほかに神があってはならない」と命じられているからです。ローマ帝国に対する忠誠の証しとして皇帝の像を拝むことが求められた。しかし、ペルガモンの教会は、イエス様の名をしっかり守って、イエス様に対する信仰を捨てませんでした。アンティパスが殺されたときでさえ、彼らはイエス様に対する信仰を捨てなかったのです。アンティパスは、「忠実な証人」と言われております。アンティパスは自分の命をもって、イエス・キリストだけが神の御子であり、救い主であることを証ししたのです。アンティパスが殉教の死を遂げたことの背後にも、イエス様は神の敵であるサタンの働きを見ておられます。それゆえ、あなたがたの所にはサタンが住んでいると言われるのです。私たちは神でないものを神として拝ませようとする者たちの背後に、さらには、イエス・キリストを信じる者を迫害する者たちの背後に、神の敵であるサタンの働きがあることを覚えるべきであるのです(エフェソ6:10~20参照)。ここで、イエス様はペルガモンの教会をほめておられます。忠実な証人アンティパスが殺されたときも、イエス様に対する信仰を捨てなかった。自分たちもアンティパスのようになるのではないかと恐れて、イエス様に対する信仰を捨てる者はだれもいなかったのです。しかし、イエス様は、ペルガモンの教会に対しても少し言うべきことがある。非難すべきことがあると言われるのです。「しかし、あなたに対して少しばかり言うべきことがある。あなたのところには、バラムの教えを奉ずる者がいる。バラムは、イスラエルの子らの前につまずきとなるものを置くようにバラクに教えた。それは、彼らに偶像に献げた肉を食べさせ、みだらなことをさせるためだった。同じように、あなたのところにもニコライ派の教えを奉ずる者たちがいる。だから、悔い改めよ。さもなければ、すぐにあなたのところへ行って、わたしの口の剣でその者どもと戦おう」。ペルガモンの教会は、皇帝礼拝をすることなく、イエス様に対する信仰を捨てませんでした。しかし、その教会員の中には、バラムの教えを奉ずる者たちがいたのです。旧約聖書の民数記25章1節から3節に次のように記されています。「イスラエルがシティムに滞在していたとき、民はモアブの娘たちに従って背信の行為をし始めた。娘たちは自分たちの神々に犠牲をささげるときに民を招き、民はその食事に加わって娘たちの神々を拝んだ。イスラエルはこうして、ペオルのバアルを慕ったので、主はイスラエルに対して憤られた」。これはバラムによることと考えられていたのです(民数31:16「ペオルの事件は、この女たちがバラムに唆され、イスラエルの人々を主に背かせて引き起こしたもので、そのために主の兄弟に災いがくだった」参照)。そのことを背景として、イエス様は、ペルガモンの教会の中にいる偶像に献げた肉を食べ、みだらなことをする者たちをバラムの教えを奉ずる者と呼んでいるのです。教会は異教の神々を礼拝しない。偶像に献げた肉を食べず、みだらなこともしない。しかし、その教会の中には、異教の神々を礼拝してもよいではないかと考える者たちもいたのです。これは、今から1900年ほど前のローマ帝国において起こったことでありますけれども、今から80年ほど前の日本において起こったことでもあります(当時、天皇は国家の元首であると同時に、異教の神でもあった!)。皇帝崇拝ならぬ天皇崇拝が国民儀礼として強要される中にあって、日本の教会においても、バラムの教えを奉ずる者たちがいたのです。バラムの教えを奉じなければ、教会として存続できないような状況に置かれたのです。信教の自由が保障されている現代の私たちが、当時の教会のことを非難するのは簡単であります。しかし、問題は、そのような時代が再び来たときに、私たちはどのように振る舞うのかということです。私たちはイエス様に対する信仰を捨てないでいられるだろうか?バラムの教えを奉じて、神様の御前に偶像崇拝の罪を再び犯すことになるのではないか?戦時中の日本の教会については、様々な評価があると思います。しかし、イエス様の評価はどうか?そのことを私たちは第一に考えなければならないと思います。ペルガモンの教会に対するイエス様の評価は厳しいものでありました。「悔い改めよ。さもなければ、すぐにあなたのところへ行って、わたしの口の剣でその者どもと戦おう」。バラムの教えを奉ずる者、ローマ皇帝を神として拝むことをよしとする者に対して、イエス様は「悔い改めよ」と言われます。そして、もし悔い改めなければ、イエス様はすぐに来られ、口の剣でその者たちを滅ぼすと警告されるのです。

 17節をお読みします。

 耳ある者は、霊が諸教会に告げることを聞くがよい。勝利を得る者には隠されていたマンナを与えよう。また、白い小石を与えよう。その小石には、これを受ける者のほかにはだれにも分からぬ新しい名が記されている。

 イエス様の名をしっかり守り続けること、イエス様に対する信仰を保ち続けること。それこそ、私たちキリスト者にとっての勝利であります。そして、その勝利を得る者に、イエス様は「隠されていたマンナを与えよう」。また、「白い小石」を与えようと言われるのです。ユダヤ人の伝承では、バビロン帝国によってエルサレムが滅ぼされたとき、エレミヤによって、マンナの入った壺がある所に隠されました。そして、メシアの時代にそのマンナが与えられると信じられていたのです(二マカバイ2:5参照)。メシアの時代には、先祖たちが食べた天からのパン、マンナを食べることができる(ヨハネ6:30、31参照)。そのマンナをイエス様は与えてくださるのです。また、「白い小石」とありますが、白は天国の色であります。また、小石は入場券のように用いられておりました。ですから、「白い小石」は天国への入場券を意味しているのです。その小石には、天国の王であるイエス様の新しい名が記されているのです(3:12参照)。

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