死に至るまで忠実であれ 2017年7月23日(日曜 夕方の礼拝)
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死に至るまで忠実であれ
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- 説教
- 村田寿和 牧師
- 聖書
ヨハネの黙示録 2章8節~11節
聖書の言葉
2:8 スミルナにある教会の天使にこう書き送れ。『最初の者にして、最後の者である方、一度死んだが、また生きた方が、次のように言われる。
2:9 「わたしは、あなたの苦難や貧しさを知っている。だが、本当はあなたは豊かなのだ。自分はユダヤ人であると言う者どもが、あなたを非難していることを、わたしは知っている。実は、彼らはユダヤ人ではなく、サタンの集いに属している者どもである。
2:10 あなたは、受けようとしている苦難を決して恐れてはいけない。見よ、悪魔が試みるために、あなたがたの何人かを牢に投げ込もうとしている。あなたがたは、十日の間苦しめられるであろう。死に至るまで忠実であれ。そうすれば、あなたに命の冠を授けよう。
2:11 耳ある者は、“霊”が諸教会に告げることを聞くがよい。勝利を得る者は、決して第二の死から害を受けることはない。」』ヨハネの黙示録 2章8節~11節
メッセージ
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今夕は、ヨハネの黙示録2章8節から11節より、御言葉の恵みにあずかりたいと願います。
8節に、「スミルナにある教会の天使にこう書き送れ」とありますように、今夕の御言葉は、スミルナの教会に宛てて記された手紙であります。より正確に言えば、スミルナの教会に宛てて記された手紙の形式で、すべての教会に対するメッセージが記されているのです。11節に、「耳ある者は、霊が諸教会に告げることを聞くがよい」とありますように、ここに記されていることは、スミルナの教会だけではなく、諸教会、すべてのキリスト教会に向けて語られていることであるのです。私たち羽生栄光教会に対しても、今夕の御言葉は語られているのです。そのことを確認したうえで、スミルナという町についてお話したいと思います。スミルナは、エフェソの北方60キロメートルに位置する港町で、エフェソに次ぐ小アジア第二の都市でありました。スミルナは古くからローマ帝国に忠実な都市であり、ローマの女神の神殿やローマ皇帝のための神殿がありました。また、スミルナには多くのユダヤ人が住んでおりました。スミルナに、どのようにしてキリスト教会が生まれたのかは分かりませんが、使徒言行録19章を読みますと、パウロのエフェソでの宣教によって、「アジア州に住む者は、ユダヤ人であれギリシア人であれ、だれもが主の言葉を聞くことになった」とありますから、パウロの宣教によるものであったかも知れません。ともかく、スミルナには、イエス・キリストを信じる弟子たちの群れ、教会があったのです。そのスミルナにある教会に、イエス・キリストは、「最初の者にして、最後の者である方、一度は死んだが、また生きた方」として、こう言われるのです。「わたしは、あなたの苦難や貧しさを知っている。だが、本当はあなたは豊かなのだ。自分はユダヤ人であると言う者どもが、あなたを非難していることを、わたしは知っている。実は、彼らはユダヤ人ではなく、サタンの集いに属している者どもである」。このイエス様の言葉を読みますと、スミルナの教会が、イエス様のゆえに苦しみと貧しさの中にあったこと。そして、その苦しみと貧しさがユダヤ人によってもたらされていたことが分かります。スミルナの教会は、イエス・キリストの名のゆえに、迫害を受けていたのです。スミルナの信徒たちは、イエス様を信じるゆえに、職を失ったり、財産を奪われたりしたのかも知れません(ヘブライ10:34参照)。しかし、イエス様は、そのようなスミルナの教会に、「だが、本当はあなたは豊かなのだ」と言われます。物質的には貧しいのでありますが、霊的には豊かなものとされている。なぜなら、イエス・キリストを信じる者たちは、新しい天と地を受け継ぐ者であるからです。第二コリント書の6章10節に、「悲しんでいるようで、常に喜び、貧しいようで、多くの人を富ませ、無一物のようで、すべてのものを所有しています」とありますように、私たちキリスト者は、豊かな者であるのです。
イエス・キリストの名のゆえに苦しめられ、貧しい生活を余儀なくされている者たちにとって、そのことをイエス様が知っていてくださることは大きな慰めであります。さらに、そのイエス様から、「だが、本当はあなたがたは豊かなのだ」という言葉をいただくことは、大きな励ましであります。スミルナの教会は、苦難と貧しさの中にあって、自分たちがイエス様によってどれほど豊かな者とされたかに目を開かれたのではないかと思います。スミルナの教会だけではありません。私たち羽生栄光教会もキリストにあって豊かな者とされているのです。
イエス様は、スミルナの教会を非難しているのがユダヤ人と自称している者たちであることをも知っておられます。ここで「非難している」と訳されている言葉は、「冒瀆している」とも訳すことができます。スミルナの教会は神の教会であるので、その教会をののしることは、冒瀆することでもあるのです。ここで「ユダヤ人」という言葉は、良い意味で用いられています。ユダヤ人という名称は、イスラエルの12人の息子の1人、ユダに遡ることができます。ユダという名前は主をほめたたえる(ヤダ)に由来します(創世29:35参照)。ですから、ユダヤ人とは、主をほめたたえる人のことを言うわけです。スミルナの教会を冒瀆していた者たちは、自分たちは、ユダヤ人、神の民であると言っておりました。しかし、イエス様は、「実は彼らはユダヤ人ではなく、サタンの集いに属してる者どもである」と言われるのです。ここで「集い」と訳されている言葉は、会衆とも訳されるシナゴゲーという言葉です。旧約聖書の中で、イスラエルの人々が主の会衆と呼ばれている箇所があります(民数16:3、20:4など)。しかし、イエス様は、スミルナの教会を冒瀆するユダヤ人たちは、主の会衆ではなく、サタンの会衆であると言うのです(ヨハネ8:44参照)。サタン、悪魔は、神様の敵であります。ですから、神の教会を冒瀆する者、迫害する者は、神の民ではなく、サタンの会衆に連なる者であるのです。
続けて、イエス様は次のように言われます。「あなたは、受けようとしている苦難を決して恐れてはいけない。見よ、悪魔が試みるために、あなたがたの何人かを牢に投げ込もうとしている。あなたがたは、十日の間苦しめられるであろう。死に至るまで忠実であれ。そうすれば、あなたに命の冠を授けよう。耳ある者は、霊が諸教会に告げることを聞くがよい。勝利を得る者は、決して第二の死から害を受けることはない」。スミルナの教会が受けていた迫害は、牢に閉じ込められる。さらには、殉教の死に至る迫害であったようです。しかし、イエス様は、「あなたは、受けようとしている苦難を決して恐れてはいけない」と言われます。なぜなら、それは限りのある、短い期間のことであるからです。「あなたがたは、十日の間苦しめられるであろう」とありますが、この十日とは、短い期間を象徴であります(創世24:55、ダニエル1:12参照)。ユダヤ人と自称する者たちの背後にいる悪魔は、あなたたちを牢に投げ込もうとしている。しかし、その苦しみは限られた短い期間であると、イエス様は言われるのです。悪魔は、あなたたちを牢に入れることにより、命を奪うぞと脅すことにより、イエス様に対する信仰を捨てさせようとします。しかし、イエス様は「死に至るまで忠実であれ。そうすれば、あなたに命の冠を授けよう」と言われるのです。イエス様は、最初の者にして、最後の者である神その方として、また、十字架に死んで、復活され、今も生きておられる方として、御自分に忠実な者たち、御自分を神の御子、救い主と告白する者たちに、命の冠を授けてくださるのです。そして、これはスミルナの教会だけではなく、すべての教会に告げられているイエス様からの激励であり、約束であるのです。
11節の後半に「勝利を得る者」とありますが、勝利を得る者とは、どのような者を言うのでしょうか?それは、イエス様に対して死に至るまで忠実な者を言うのです。死に至るまで忠実であること、それこそ、私たちキリスト者にとっての勝利であるのです。死に至るまで忠実な者は、決して第二の死から害を受けることはありません。第二の死とは、イエス様の裁きによってもたらされる永遠の滅びのことであります(20:14参照)。死に至るまでイエス・キリストに忠実である者たちは、永遠の命という冠を与えられ、決して第二の死から害を受けることはないのです。
「死に至るまで忠実であれ」。このイエス様の御言葉は、牢に投げ込まれるほどの迫害を受けている者に対する言葉でありますが、私たちの人生に当てはめて読むこともできます。殉教の死に至るような迫害を受けていなくても、私たちは、死に至るまで忠実に礼拝に出席し、イエス・キリストこそ、神の御子、救い主であることを証しすることが求められているのです。そのような私たちにも、主イエス・キリストは、命の冠を授けてくださるのです(二テモテ4:6~8参照)。