初めのころの愛 2017年7月09日(日曜 夕方の礼拝)

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初めのころの愛

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ヨハネの黙示録 2章1節~7節

聖句のアイコン聖書の言葉

2:1 エフェソにある教会の天使にこう書き送れ。『右の手に七つの星を持つ方、七つの金の燭台の間を歩く方が、次のように言われる。
2:2 「わたしは、あなたの行いと労苦と忍耐を知っており、また、あなたが悪者どもに我慢できず、自ら使徒と称して実はそうでない者どもを調べ、彼らのうそを見抜いたことも知っている。
2:3 あなたはよく忍耐して、わたしの名のために我慢し、疲れ果てることがなかった。
2:4 しかし、あなたに言うべきことがある。あなたは初めのころの愛から離れてしまった。
2:5 だから、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて初めのころの行いに立ち戻れ。もし悔い改めなければ、わたしはあなたのところへ行って、あなたの燭台をその場所から取りのけてしまおう。
2:6 だが、あなたには取り柄もある。ニコライ派の者たちの行いを憎んでいることだ。わたしもそれを憎んでいる。
2:7 耳ある者は、“霊”が諸教会に告げることを聞くがよい。勝利を得る者には、神の楽園にある命の木の実を食べさせよう。」』ヨハネの黙示録 2章1節~7節

原稿のアイコンメッセージ

 ヨハネの黙示録2章と3章には、ローマ帝国のアジア州にある七つの教会への手紙が記されています。1章4節に、「ヨハネからアジア州にある七つの教会へ」と記されておりました。また、1章11節に、「あなたの見ていることを巻物に書いて、エフェソ、スミルナ、ペルガモン、ティアティラ、サルディス、フィラデルフィア、ラオディキアの七つの教会に送れ」と記されておりました。そして、2章と3章に、それぞれの教会に宛てた手紙が記されているのです。今夕は、エフェソにある教会に宛てた手紙について学びたいと願います。

 1節から3節までをお読みします。

 エフェソにある教会の天使にこう書き送れ。『右の手に七つの星を持つ方、七つの金の燭台の間を歩く方が、次のように言われる。「わたしは、あなたの行いと労苦と忍耐を知っており、また、あなたが悪者どもに我慢できず、自ら使徒と称して実はそうでない者どもを調べ、彼らのうそを見抜いたことも知っている。あなたはよく忍耐して、わたしの名のために我慢し、疲れ果てることがなかった。

 「エフェソにある教会の天使」とありますが、これは1章20節の「七つの星は七つの教会の天使たち」を受けてのものであります。旧約の黙示文書であるダニエル書において、国ごとに天使がいると記されています(ペルシアの天使、ギリシャの天使など)。それと同じように、教会ごとに天使がいるとヨハネは記しているのです。しかし、内容としては、天使は教会を人格的に表しているものでありまして、手紙も天使に宛てられたというよりも教会に宛てて記されております。

 エフェソは、交通の要所であり、ローマの地方総督がおり、異教のアルテミス神殿がある、大きな都でありました。使徒言行録を読みますと、使徒パウロがエフェソで三年間、宣教したことが記されています(19章、20章参照)。パウロにとって、エフェソはアジア州の宣教の拠点であったのです。また、新約聖書には、パウロがエフェソの教会に宛てて記した手紙もおさめられています。テモテへの手紙一を読みますと、テモテがパウロの後を引き継いで、エフェソの教会を指導したことが記されています(一テモテ1:3参照)。伝承によれば、紀元66年頃、第一次ユダヤ戦争が始まった頃に、使徒ヨハネもエフェソに移り住み、晩年をエフェソで過ごしたと言われております。ヨハネと小アジアの教会は親しい関係にあったのです。しかし、ここで注意したいことは、これから記す手紙は、主イエス・キリストからの言葉をヨハネが書き送ったものであるということです。「右の手に七つの星を持つ方、七つの金の燭台の間を歩く方が、次のように言われる」とありますように、この手紙は、教会を支配し、守り導いておられるイエス・キリストからの手紙であるのです。

 イエス様は次のように言われます。「わたしは、あなたの行いと労苦と忍耐を知っており、また、あなたが悪者どもに我慢できず、自ら使徒と称して実はそうでない者どもを調べ、彼らのうそを見抜いたことも知っている。あなたはよく忍耐して、わたしの名のために我慢し、疲れ果てることがなかった」。教会を支配し、守り導いておられるイエス・キリストは、教会のことをよく知っておられます。イエス様は、私たち羽生栄光教会のこともよく知っておられるのです。エフェソの教会には、悪者ども、イエス様から遣わされていないのに使徒と称する者たちがいたようであります。このことは、イエス様が終末のしるしとして教えていたことでありました。マルコによる福音書13章21節、22節でイエス様はこう言われています。「そのとき、『見よ、ここにメシアがいる』『見よ、あそこだ』と言う者がいても、信じてはならない。偽メシアや偽預言者が現れて、しるしや不思議な業を行い、できれば、選ばれた人たちを惑わそうとするからである」。イエス様が警告されていたように、エフェソの教会には偽預言者、偽使徒が現れていたのです(使徒20:30も参照)。このことは、ヨハネがその第一の手紙において、記していることでもあります。ヨハネの手紙一の4章1節に、次のように記されています。「愛する者たち、どの霊も信じるのではなく、神から出た霊かどうかを確かめなさい。偽預言者が大勢世に出て来ているからです」。エフェソの教会は、このヨハネの言葉に従って、「自ら使徒と称して実はそうでない者どもを調べ、彼らのうそを見抜いた」のでした。現代の私たちで言えば、自称牧師ですね。私たちの教会で、牧師になろうとするならば、まず教師候補者登録をして、教師候補者になり、神学校を卒業して、教会から招聘されて、中会で任職し、派遣されるという手続きを取ります。牧師になるために、少なくとも5年ぐらいはかかるわけです。その間に、面接や試験、兄弟姉妹との交わりを通して、本当に、その人が牧師としてイエス様から召されているのかが試されるわけです。しかし、ヨハネの黙示録が記された時代は、教会が生まれたばかりですから、そのような制度は整えっておりませんでした。「わたしはイエス様から遣わされた者です」と言って、間違った教えを教える者たちがいたのです。しかし、エフェソの教会はそのような者たちに我慢できず、そのうそを見抜いたのです。エフェソの教会は、「あなたはよく忍耐して、わたしの名のために我慢し、疲れ果てることがなかった」とありますように、異教の社会において、信仰を守り続けた教会であったのです。

 4節、5節をお読みします。

 しかし、あなたに言うべきことがある。あなたは初めのころの愛から離れてしまった。だから、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて初めのころの行いに立ち戻れ。もし悔い改めなければ、わたしはあなたのところへ行って、あなたの燭台をその場所から取りのけてしまおう。

 2節、3節は、イエス様からの賞賛の言葉でしたが、4節、5節は叱責の言葉であります。イエス様は、エフェソの教会が「はじめのころの愛から離れてしまった」と言うのです。イエス様は、私たち羽生栄光教会に対しても、「あなたは初めのころの愛から離れてしまった」と言われるのです。私は、この教会が創立されたときのことは知りません。写真や文書、記念誌を通してしか知りません。しかし、そのような文書などを通しましても、羽生に改革派教会を建てるという、並々ならぬ熱意があったことを知ることができます。そして、そこには神様への、イエス様への燃えるような愛があったわけです。そのような初めのころの愛に立ち帰ることが求められているわけです。これは、個人においても言えることだと思います。イエス・キリストを信じて、洗礼を受けて、教会の一員となった。その初めのころの愛に立ち帰ることが求められているのです。もし、悔い改めなければ、イエス様は、「あなたの燭台をその場所から取りのけてしまおう」と言われます。これは厳しい警告の言葉です。愛から離れてしまった教会は、教会として存続することはできないのです

 6節をお読みします。

 だが、あなたには取り柄もある。ニコライ派の者たちの行いを憎んでいることだ。わたしもそれを憎んでいる。

 「ニコライ派」については、よく分かりませんが、間違った教えを説く、異端のグループであったようです。2章14節、15節に、「しかし、あなたに対して少しばかり言うべきことがある。あなたのところには、バラムの教えを奉ずる者がいる。バラムは、イスラエルの子らの前につまずきとなるものを置くようにバラクに教えた。それは、彼らに偶像に献げた肉を食べさせ、みだらなことをさせるためだった。同じように、あなたのところにもニコライ派の教えを奉ずる者たちがいる」。これによれば、ニコライ派の者たちは偶像に献げた肉を食べさせ、みだらなことをさせていたようです。これは、どちらも異教の礼拝行為に関わることであります。つまり、ニコライ派の者たちは、イエス・キリストを信じておりながら、異教の祭儀にあずかることを問題にしなかったようであります。イエス様は、そのような者たちの行い(信仰生活)を「わたしも憎んでいる」と言われるのです。

 7節をお読みします。

 耳ある者は、霊が諸教会に告げることを聞くがよい。勝利を得る者には、神の楽園にある命の木の実を食べさせよう。

  「耳ある者は、霊が諸教会に告げることを聞くがよい」という言葉によって、この手紙がエフェソにある教会だけではなく、すべての教会に向けて語られていることが表されています。「霊」とは、神の霊、聖霊のことであります。聖霊は、かつて語られたイエス様の言葉を、今、私たちに語りかける、生ける言葉として聞かせてくださるのです(ヨハネ16:13,14参照)。6節の「ニコライ」という言葉は、「勝利の民」を意味します。しかし、イエス様が言われる勝利を得る者とは、よく忍耐して、イエス様の名のために我慢し、疲れ果てることがなかった者なのです。あるいは、悔い改めて、初めのころの行い、神と兄弟姉妹を愛する信仰生活に立ち帰る者のことを言うのです。そのような者に、イエス様は、神の楽園にある命の木の実を食べさせてくださるのです。創世記の3章を読みますと、最初の人アダムとその助け手であるエバが罪を犯して、エデンの園から追放されたことが記されています。神様は、命の木に至る道をケルビムときらめく剣の炎によって閉ざされたです。しかし、イエス様は、御自分を愛し、忍耐する者たちに、命の木の実を食べさせてくだる、神様との永遠の愛の交わりである、永遠の命を与えてくださるのです。

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