右の手に七つの星を持つ方 2017年6月25日(日曜 夕方の礼拝)
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右の手に七つの星を持つ方
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- 村田寿和 牧師
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ヨハネの黙示録 1章9節~20節
聖書の言葉
1:9 わたしは、あなたがたの兄弟であり、共にイエスと結ばれて、その苦難、支配、忍耐にあずかっているヨハネである。わたしは、神の言葉とイエスの証しのゆえに、パトモスと呼ばれる島にいた。
1:10 ある主の日のこと、わたしは“霊”に満たされていたが、後ろの方でラッパのように響く大声を聞いた。
1:11 その声はこう言った。「あなたの見ていることを巻物に書いて、エフェソ、スミルナ、ペルガモン、ティアティラ、サルディス、フィラデルフィア、ラオディキアの七つの教会に送れ。」
1:12 わたしは、語りかける声の主を見ようとして振り向いた。振り向くと、七つの金の燭台が見え、
1:13 燭台の中央には、人の子のような方がおり、足まで届く衣を着て、胸には金の帯を締めておられた。
1:14 その頭、その髪の毛は、白い羊毛に似て、雪のように白く、目はまるで燃え盛る炎、
1:15 足は炉で精錬されたしんちゅうのように輝き、声は大水のとどろきのようであった。
1:16 右の手に七つの星を持ち、口からは鋭い両刃の剣が出て、顔は強く照り輝く太陽のようであった。
1:17 わたしは、その方を見ると、その足もとに倒れて、死んだようになった。すると、その方は右手をわたしの上に置いて言われた。「恐れるな。わたしは最初の者にして最後の者、
1:18 また生きている者である。一度は死んだが、見よ、世々限りなく生きて、死と陰府の鍵を持っている。
1:19 さあ、見たことを、今あることを、今後起ころうとしていることを書き留めよ。
1:20 あなたは、わたしの右の手に七つの星と、七つの金の燭台とを見たが、それらの秘められた意味はこうだ。七つの星は七つの教会の天使たち、七つの燭台は七つの教会である。
ヨハネの黙示録 1章9節~20節
メッセージ
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前回の夕べの礼拝が5月29日でしたので、およそ一か月ぶりの夕べの礼拝となります。前回、私たちは神様が「アルファであり、オメガである」こと、すべてのものの創始者であり、完成者であることを学びました。聖書の最初の書物、創世記の1章1節に、「初めに、神は天地を創造された」とありますようにすべてのものは神様によって始められたのです。そして、神様こそ、この世界を完成させてくださる御方でもあるのです。神様は、イエス・キリストを天から遣わされるという仕方で、この世界を完成されるのです。そのことを確認しまして、今夕は1章9節から20節までを御一緒に学びたいと思います。
ヨハネの黙示録は、迫害されている教会に宛てて記された書物ですが、ヨハネ自身も迫害を受けていたようであります。「わたしは、神の言葉とイエスの証しのゆえに、パトモスという島にいた」とありますが、パトモス島は、エフェソの南西90キロメートルにあるエーゲ海の小島で、ローマ帝国に逆らう者の流刑地とされておりました。ヨハネは神の言葉とイエスの証しのゆえに、島流しにされていたのです。そのような者として、「わたしは、あなたがたの兄弟であり、共にイエスと結ばれて、その苦難、支配、忍耐にあずかっているヨハネである」と記すのです。この「ヨハネ」は、伝統的には、「使徒ヨハネ」であると考えられておりますが、ヨハネは自分が「あなたがたの兄弟」であり、あなたがたと同様に、イエスの苦難、イエスの支配、イエスの忍耐にあずかる者であると記します。ここで「支配」と訳されている言葉は、6節で「王」と訳されていたバシレイアという言葉であります。ですから、王国とも訳すことができるのです。イエスの苦難にあずかり、忍耐する者だけが神の国に入ることができる。これは使徒パウロが教えていることでもあります。使徒言行録の14章を見ますと、パウロが、「弟子たちを力づけ、『わたしたちが神の国に入るには、多くの苦しみを経なくてはならない』と言って、信仰に踏みとどまるように励ました」と記されています(使徒14:22)。ただ、パウロと違う点は、ヨハネは、もう神の国にあずかっていると記している点にあります。6節にありますように、私たちは、私たちを愛し、御自分の血によって罪から解放してくださった方によって、王国の民、父である神に仕える祭司とされているのです。ですから、ヨハネにおいて、イエスの苦難にあずかること、イエスの忍耐にあずかることは、イエスの支配にあずかることであるのです。私たちがイエスの支配にあずかっていると言えるのは、イエスの苦難にあずかり、イエスの忍耐にあずかっているからであるのです。
10節に「ある主の日のこと」とありますが、主の日とは、主イエス・キリストが復活され、弟子たちに現れてくださった週の初めの日を指しています。イエス様を信じないユダヤ人たちが週の最後の日に礼拝をささげていたのに対して、イエス・キリストを信じる者たちは、イエス・キリストの復活を記念して週の初めの日に礼拝をささげていたのです(使徒20:7、一コリント16:2参照)。私たちも週の初めの日に礼拝をささげ、その日を「主の日」と呼びますが、その由来はここにあるのです。主の日は礼拝をささげる日でありますが、このとき、ヨハネはパトモス島におりましたから、おそらく、一人で寂しく礼拝をささげていたのだと思います。しかし、そのヨハネを神様は御自分の聖霊で満たされるのです。聖霊に満たされたヨハネは、後ろの方でラッパのように響く大声を聞きました。「ラッパ」は、旧約聖書で言えば「つのぶえ」のことであります。出エジプト記19章に、神様がシナイ山に臨在されたことが記されています。そのとき、「煙は炉の煙のように立ち上り、山全体が激しく震えた。角笛の音がますます鋭く鳴り響いた」と記されています。つのぶえの音、ラッパの音は主の御臨在を告げるものであるのです。そのラッパのように響く大声を後ろの方から聞いたのです。後ろから聞こえたとは、ヨハネが背後から声をかけられたということであります。前にも申し上げたことがありますが、ヘブライ人は、将来を背後にあるものと考えました。ヘブライ人は、目の前にあることはすでに見ることのできる過去であり、見ることのできない背後にこそ、将来はあると考えたのです。ですから、ヘブライ人の考え方からすれば、人は後ろを向いて歩いているようなものであります。そのことを覚えますとき、後ろから語りかけられるということは、将来から語りかけられることであるのです。神様は時間を超越した天におられますから、神様にとって過去も現在も将来もありません。神様にあるのは永遠の今だけであります。しかし、その神様の御声を聞くときに、私たちはどのような言葉として聞くのか?それは将来から語りかける御方の声として聞くのです。聖書の言葉は、過去に記された言葉でありますけれども、私たちは礼拝において、それを将来から今語りかけてくださる御方の言葉として聞くのです。
霊に満たされたヨハネが聞いた言葉は次のようなものでした。「あなたの見ていることを巻物に書いて、エフェソ、スミルナ、ペルガモン、ティアティラ、サルディス、フィラデルフィア、ラオディキアの七つの教会に送れ」。この七つの教会は、4節にありましたように、「アジア州にある七つの教会」であります。現在のトルコ共和国がある小アジアの七つの教会であります。ここでヨハネは自分がアジア州にある七つの教会に手紙(巻物)を書くことになった経緯について記しているわけです。ヨハネは自分の考えではなくて、ラッパのように響く大声に命じられて、七つの教会に手紙を書き送るのです。
ヨハネの後ろから、ラッパのように響く大声で語りかけられたのは、人の子のような方、天上のイエス・キリストでありました。ヨハネの記述を読みますと、イエス様はヨハネの後ろにおられたようであります。ですから、霊に満たされたヨハネは天へと上げられていたようであります。パウロが第三の天にまで上げられたように、ヨハネも天へと上げられたのです(二コリント12:2参照)。ヨハネが振り向くと、七つの金の燭台が見え、燭台の中央には、人の子のような方がおられました。この七つの金の燭台は、20節によれば、「七つの教会」を表しています。教会は世の光であるゆえに、燭台に譬えられるのです(マタイ5:14参照)。イエス様は、ヨハネに七つの教会へ巻物を書き送れと命じるわけですが、その七つの教会の中央、真ん中におられるのは、イエス様御自身であるのです(マタイ18:20参照)。
燭台の中央におられるイエス様は、足まで届く衣を着て、胸には金の帯を締めておられ、髪の毛は白い羊毛に似て、雪のように白く、目はまるで燃え盛る炎、足は炉で精錬されたしんちゅうのように輝き、声は大水のとどろきのようであったと記されています(13~15節)。長い衣は祭司の服であり、金の帯は王の象徴であると言われております(出エジプト28:4、一マカバイ10:89参照)。このことは、天上におられるイエス様が祭司であり、王であることを示しています。ここでヨハネは旧約聖書の黙示文書であるダニエル書の言葉を用いてイエス様の姿を記しています。ダニエル書10章5節、6節にこう記されています。「目を上げて眺めると、見よ、一人の人が麻の衣を着、純金の帯を腰に締めて立っていた。体は宝石のようで、顔は稲妻のよう、目は松明の炎のようで、腕と足は磨かれた青銅のよう、話す声は大群衆の声のようであった」。また、7章を見ますと、「日の老いたる者」である神様について、「その衣は雪のように白く/その白髪は清らかな羊の毛のようであった」と記されています。このようなダニエル書の言葉を用いることによって、ヨハネは、人の子のような方が神様と等しい尊厳をもっておられることを教えているのです。私たちは、使徒信条において、復活されたイエス・キリストが天へとあげられ、父なる神の右に着かれたと告白しておりますが、そのことを黙示文書として記すとこのようになるのです。
16節に、「右の手に七つの星を持ち、口からは鋭い両刃の剣が出て、顔は強く照り輝く太陽のようであった」と記されています。右の手は利き手でありまして、力を表しています。七つの星とは、20節によれば、「七つの教会の天使たち」であります。この「七つの教会の天使たち」には大きく三つの解釈があります。一つは、教会の指導者たちを指すという解釈であります。二つ目は、教会の守護天使を指すという解釈であります。そして、三つ目は、教会を人格化したものであるという解釈であります。ダニエル書の10章以下を見ますと、国ごとに天使がいたと記されています。「ペルシャの天使長」とか、「ギリシャの天使長」などが出て来ます。それとの類比で考えるならば、教会ごとに守護天使がいたと考えることができます。しかし、その手紙の内容を読みますと、叱責したり、悔い改めを求めたりしておりますので、どうも、守護天使として理解するのは無理があると思います。それで、私は、三つ目の解釈、「教会を人格化したもの」という解釈を取りたいと思います。七つの星は七つの教会でありますが、その七つの星は、天上のキリスト、神様と同じ尊厳を持っておられるキリストの右の手に握られている。これは、地上にあって迫害されている教会にとって力強い慰めであります。教会は天上のキリストの力ある腕によって、守られているのです。「口からは鋭い両刃の剣が出て」とありますが、この両刃の剣は恐らく舌のことを言っているのだと思います。舌は言葉を操る器官ですから、口から出ている鋭い両刃の剣は、神の言葉ということになるわけです。また、「顔は強く照り輝く太陽のようであった」とありますが、マタイによる福音書によりますと、山上の変貌において、イエス様のお姿が、「顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった」と記されています(マタイ17:2)。それと同じように天上におられるイエス様のお顔も照り輝く太陽のようであったのです。
神様はかつてモーセに、「人はわたしを見て、なお生きていることはできない」と仰せになりました(出エジプト33:20)。その言葉のとおり、栄光の人の子を見たヨハネは、その足もとに倒れ、死んだようになりました。これは、神様の顕現に接した、旧約の預言者たちの姿でもあります。しかし、イエス様は、右の手をヨハネのうえに置いて、力を与え、こう言われたのです。「恐れるな。わたしは最初の者にして最後の者、また生きている者である。一度は死んだが、見よ、世々限りなく生きて、死と陰府の鍵を持っている。さあ、見たことを、今あることを、今後起こることを書き留めよ。あなたは、わたしの右の手に七つの星と、七つの金の燭台とを見たが、それらの秘められた意味はこうだ。七つの星は七つの教会の天使たち、七つの燭台は七つの教会である」。イエス様は、「わたしは最初の者にして最後の者」と言われます。これは、8節で全能者である神様が言われた言葉、「わたしはアルファであり、オメガである」と同じ意味であります。イエス様は御自分が神様と等しい御方であることを宣言しておられるわけです。「また生きている者である」とありますが、これは何にも依存しないまことの命をもっておられるということです。私たちも生きておりますけれども、私たちは神様によって生かされているわけです。しかし、イエス様は御自分の内に永遠の命を持っておられるのです。十字架に死んで復活されたイエス・キリストは、世々限りなく生きておられる方であり、死と陰府の鍵を持っておられる御方であるのです。死と陰府の鍵を持っている。これはイエス様が復活によって死に勝利されたこと、死も陰府もイエス様の御支配のもとにあるということであります。そのような御方が、私たち教会のただ中におられ、私たちを力ある御手で握ってくださっているのです。
私たちがイエス様とお呼びするとき、私たちはどのようなイエス様のお姿を思い描くでしょうか?おそらく私たちと同じような姿のイエス様を思い描くのではないでしょうか?しかし、今夕の御言葉が描いているような、私たちが打ちのめされてしまうような、神様としての尊厳に満ちたイエス様のお姿を思い描くことも大切なことではないかと思います。そのとき、私たちは慌てふためくことなく、イエス・キリストの光を輝かす教会として歩み続けて行くことができるのです。