万物の支配者である神 2017年5月28日(日曜 夕方の礼拝)

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万物の支配者である神

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ヨハネの黙示録 1章5節~8節

聖句のアイコン聖書の言葉

1:5 わたしたちを愛し、御自分の血によって罪から解放してくださった方に、
1:6 わたしたちを王とし、御自身の父である神に仕える祭司としてくださった方に、栄光と力が世々限りなくありますように、アーメン。
1:7 見よ、その方が雲に乗って来られる。すべての人の目が彼を仰ぎ見る、/ことに、彼を突き刺した者どもは。地上の諸民族は皆、彼のために嘆き悲しむ。然り、アーメン。
1:8 神である主、今おられ、かつておられ、やがて来られる方、全能者がこう言われる。「わたしはアルファであり、オメガである。」ヨハネの黙示録 1章5節~8節

原稿のアイコンメッセージ

 前回、私たちはヨハネの黙示録が手紙の形式で記されていることを学びました。パウロの書簡が、差出人、受取人、挨拶の言葉から記されていたように、ヨハネの黙示録も差出人、受取人、挨拶の言葉をもって記されているのです。パウロの手紙ですと、その後に、神様をほめたたえる賛美の言葉が続くのでありますが、ヨハネも神様を賛美する言葉を記しております。より正確に言えば、誠実な証人、死者の中から最初に復活した方、地上の王たちの支配者であるイエス・キリストをほめたたえるのです。今夕は、5節後半から8節までを御一緒に学びたいと思います。

 5節後半から6節までをお読みします。

 わたしたちを愛し、御自分の血によって罪から解放してくださった方に、わたしたちを王とし、御自身の父である神に仕える祭司としてくださった方に、栄光と力が世々限りなくありますように、アーメン。

 ここでは、イエス・キリストが「わたしたちを愛し、御自分の血によって罪から解放してくださった方」、「わたしたちを王とし、御自分の父である神に仕える祭司としてくださった方」と言われております。新共同訳聖書は、「わたしたちを愛し、御自分の血によって罪から解放してくださった方」と翻訳していますが、この所は、「わたしたちを愛しておられる方、御自分の血によって罪から解放してくださった方」と翻訳することができます。そして、そのように翻訳しますと、ここでヨハネがキリストの三つの働きについて述べていることが分かります。イエス・キリストは、私たちを愛しておられる方、御自分の血によって罪から解放してくださった方、私たちを王とし、御自身の父である神に仕える祭司としてくださった方であるのです。また、細かいことを申しますと、「愛しておられる」は現在分詞で記されています。イエス・キリストは、今も私たちを愛しておられるということであります。それに対して、「解放してくださった」、「王とし、祭司としてくださった」は過去形で記されています。一回的、決定的な出来事として記されているのです。何度も申しますように、ヨハネの黙示録は、迫害の中にある教会に宛てて記されました。9節を見ますと、ヨハネ自身も苦難を受け、パトモス島にいたのです。しかし、ヨハネは、イエス・キリストは私たちを愛しておられると言うのであります。なぜ、そのように言うことができるのか?それは、イエス・キリストが私たちを救うために、十字架のうえで死んでくださったからです。イエス・キリストは、御自分の血によって私たちを罪から解放してくださった方であるからです。詩編130編の7節、8節にこう記されています。「イスラエルよ、主を待ち望め。慈しみは主のもとに/豊かな贖いも主のもとに。主は、イスラエルをすべての罪から贖ってくださる」。罪からの贖いは、新約聖書だけが教えていることではありません。詩人は、「主は、イスラエルをすべての罪から贖ってくださる」と歌うのです。また、レビ記に記されているように、動物の血を流すことによる罪の赦しが教えられていたのです。その旧約聖書が教えていた罪の赦し、イスラエルが待ち望んでいた罪の赦しを、主イエス・キリストは、御自分の血をもって成し遂げてくださったのであります。

 イエス・キリストは私たちを愛して、御自分の血によって私たちを罪から解放してくださったのでありますが、それは、私たちを王とし、御自身の父である神に仕える祭司としてくださるためでありました。この所は、出エジプト記19章の御言葉を背景としています。出エジプト記の19章は、イスラエルの人々がエジプトを出て3ヶ月めに、ようやくシナイ山に到着したことが記されています。そこで、主はモーセに語りかけてこう言われたのです。「ヤコブの家にこのように語り/イスラエルの人々に告げなさい。あなたたちは見た/わたしがエジプト人にしたこと/また、あなたたちを鷲の翼に乗せて/わたしのもとに連れて来たことを。今、もしわたしの声に聞き従い/わたしの契約を守るならば/あなたたちはすべての民の間にあって/わたしの宝となる。世界はすべてわたしのものである。あなたたちは、わたしにとって/祭司の王国、聖なる国民となる。これが、イスラエルの人々に語るべき言葉である」。イスラエルの人々がエジプトの奴隷状態から贖い出されて、祭司の王国、聖なる国民とされたように、私たちは罪の奴隷状態から贖い出されて、王国の民、父なる神に仕える祭司とされたのです。いや、むしろこう言うべきでしょう。出エジプト記に記されている主の御言葉は、イエス・キリストを信じる私たちにおいてこそ実現したと。なぜなら、イスラエルの人々は、主の声に聞き従い、契約を守ることができなかったからです。ただ、イエス・キリストが、真のイスラエルとして、主の声に聞き従い、完全に契約を守られたのです。私たちはそのイエス・キリストに贖われて、王国の民、父なる神に仕える祭司とされたのです。

 6節に、「わたしたちを王とし」とありますが、ここで「王」と訳されている言葉は、より正確に言えば「王国」であります。新改訳聖書を見ますと、「私たちを王国とし」と記されています。また、口語訳聖書では、「御国の民とし」と記されています。ですから、わたしは、「わたしたちを王国の民とし」と理解したらよいと思います。イエス・キリストは、私たちを愛し、御自分の血によって罪から解放し、王国の民、御自身の父である神に仕える祭司としてくださいました。そのような御方に、「栄光と力が世々限りなくありますように」とヨハネは記すのです。歴代誌上29章に、ダビデの祈りが記されています。そこでダビデは、次のように祈っています。「わたしたちの父祖イスラエルの神、主よ、あなたは世々とこしえにほめたたえられますように。偉大さ、力、光輝、威光、栄光は、主よ、あなたのもの」。ダビデは、「力も栄光も主のものである」と祈りました。そして、ヨハネは、その力と栄光を主イエス・キリストのものであると記すのです。なぜなら、イエス・キリストは人となられた神、主その方であるからです。私たちもイエス・キリストに愛され、罪から解放され、王国の民、祭司とされた者たちとして、「アーメン」「そのとおりです」と言いたいと思います。

 7節をお読みします。

 見よ、その方が雲に乗って来られる。すべての人の目が彼を仰ぎ見る、ことに、彼を突き刺した者どもは。地上の諸民族は皆、彼のために嘆き悲しむ。然り、アーメン。

 ここでヨハネは、イエス・キリストがすべての人を裁く御方として、再び来られることを記しております。ヨハネはダニエル書7章に預言されている人の子の幻と、ゼカリヤ書12章の預言の言葉を組み合わせて記しています。また、イエス様御自身も、マタイ福音書の24章でこう言われておりました。「そのとき、地上のすべての民族は悲しみ、人の子が大いなる力と栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見る」(マタイ24:30)。雲とは神様の臨在を表すものでありますから、雲に乗って来るとは、大いなる力と栄光を帯びて来られるということであります。イエス様はひっそりと隠れた仕方で来られるのではなくて、すべての人が仰ぎ見ると言われるように、誰にでも分かる仕方で、公然と来られるのです。ここでの「彼を突き刺した者ども」は、イエス様を十字架につけたユダヤ人とローマ人だけではなくて、イエス様を信じる者を今も迫害している者たちを指しております。また、もっと広く言えば、イエス様を信じないすべての人を指しております。彼らは、イエス様が力と栄光を帯びて来られるとき、嘆き悲しむのです。イエス様によって裁きを受けねばならないゆえに、彼らは嘆き悲しむのです。ここで注意したいことは、イエス様が来られることで、嘆き悲しむ者の中に、イエス様を信じる私たちは含まれていないということです。なぜなら、私たちはこの御方が、私たちを愛しておられること、御自分の血によって私たちを罪から贖い、御国の民、父なる神に仕える祭司としてくださったことを知っているからです。「イエス・キリストがすべての人の裁き主として来られる」と聞きますと、怖いと思うかも知れません。しかし、キリストを信じる者たちにとって、その日は悲しみの日ではなく、喜びの日であるのです。主イエスが教会を迫害する者たちを裁くために来られる。これは、迫害の中にある教会にとって力強い慰めであります。それゆえ、ヨハネは、「然り、アーメン」と二つの肯定の言葉を重ねて記すのです。ヨハネだけが、このことを保証するのではありません。神である主が、イエス・キリストが再び来られることを証ししてくださるのです。

 8節をお読みします。

 神である主、今おられ、かつておられ、やがて来られる方、全能者がこう言われる。「わたしはアルファであり、オメガである。」

 「アルファ」とはギリシャ語のアルファベットの最初の文字です。また、「オメガ」とはギリシャ語のアルファベットの最後の文字であります。ですから、その意味は、「わたしは初めであり、終わりである」という意味であります(イザヤ44:6)。神様は、すべてを始められた方、創造された方であり、すべてを終わりにされる方、完成される方であるのです。神様は歴史の唯一の支配者であるのです。このことは、「今おられ、かつておられ、やがて来られる方、全能者」という言葉によっても言い表されております。ここで「全能者」と訳されている言葉は、「万物の支配者」とも訳すことができます(新改訳参照)。歴史を貫いて万物を支配しておられるのは、主なる神であります。そのことを、ヨハネは迫害の中にある教会に思い起こさせようとするのです。今、そのように思えない現実があろうとも、「わたしはアルファであり、オメガである」と言われる神様が、この歴史に起こるすべてのことを御支配しておられる。そして、その終わり、完成は、主イエス・キリストの再臨によって到来するのです。

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